2008年 09月 16日
ある違和感への考察
先月今月と北朝鮮による拉致問題に関し「せいろん談話室」で奪還の手段として武力行使すべきという意見と、成功の見込みのない武力行使は行うべきではないという意見が議論され興味深く読んだ。これら二つの意見を比べたとき技術的には後者に理があるように思うが、さりとて私は軍事技術の素人であるため、この感想には「多分」という保留がつく。

ということで、もう少し素朴な気持で両者の意見を比べたとき、私が気になるのは成功の見込みのない武力行使は行うべきではないという意見にある計算式のようなすっきり感だ。こういう違和感が何から来ているのかと考えてみると、政治と人間世界と戦争の関係が思い浮かぶ。

まず政治が問題としているのは、国民への各種インフラを含む公共財の提供といった、いわば「公共の必要」に関する事柄だが、一方で人間世界全体が問題としているのはこれよりも大きく、飢餓や愛憎や生死といった、いわば「人間の尊厳」に関する事柄である。

そして政治と武力の接点には文民統制という軍隊を行政と見なして、これを制御しようとする技術があるが、今日の国家が不可欠としているこの技術が、しかし一方で常に万全に機能するわけではなく、その破錠が数度あったことも歴史の事実である。

こういうことがどうして起こるのかということは、技術的には軍隊という組織が他の行政よりも高度な専門性を必要とし、なおかつ大規模だということがあると思うが、より本質的には戦争が暴力で、暴力が政治の問題とする「公共の必要」ではなく、より大きな「人間の尊厳」に淵源を持っているためではないだろうか。

このことはアメリカ革命が「代表なくして課税なし」の言葉に示されるように「公共の必要」を争う革命で、その主張が制度構築をめぐる議論により貫徹されたのに対し、フランス革命が貧困を原動力とする「人間の尊厳」を争う革命で、その主張がギロチン台により貫徹されたという大西洋両岸の歴史に現われている。

そもそも英米流の考え方は、人間を非理性的なものとして捉えるため「人間の尊厳」という筋道から「公共の必要」を論ずることに否定的で、その分「人間の尊厳」を宗教に委ねている。従って武力を政治で制御しながら「正義の戦争」を唱えるといった具合に、その動機にはどこか宗教的な不合理を含んでいる。

これに対し社会主義と言おうか共産主義的な考え方は、人間を理性的なものとして捉えて「人間の尊厳」は「公共の必要」で解決されると考えるために武力もまた政治手段の完全な一部分となる。このことは「戦争は血を流す政治で、政治は血を流さない戦争だ」という共産革命の指導者の言葉に示されている。

我国は明治から敗戦まで英国憲法に属する帝国憲法を採用したため「人間の尊厳」と「公共の必要」は峻別され、従って武力も政治の干渉を忌避してきたが、戦後はフランス革命思想に属する憲法を採用したため「人間の尊厳」と「公共の必要」を同一視し、従って武力も政治の一部分となった。

しかしそもそも「公共の必要」より「人間の尊厳」の方が大きいのだから「公共の必要」と同一視された「人間の尊厳」は「公共の必要」のサイズに縮小された別物である。だから政治の一部分となった武力は従順であるが「人間の尊厳」の大きさを失っている。

ここで最初に戻って、成功の見込みのない武力行使は行うべきではないという意見を眺めてみると、そこには政治によって非常によく管理された従順な武力の存在が前提としてあり、そのことは取りも直さず戦後日本の政治と武力の関係を如実に反映しているように見える。

例えば拉致被害者の「人間の尊厳」の喪失に対する国民世論の激昂が、やはり「人間の尊厳」に淵源を持つ武力に点火され、その行使が政治の手を振り切るという事態を国家行為の「含み」としても私達が持ち得ない現状に全く悩まないとするならば、そこに想定された「人間の尊厳」は「公共の必要」のサイズに縮小された別物と考えざるを得ず、その倍率の歪みが私の違和感の中身である。

無論ここで私は成功の見込みのない武力行使は行うべきではないという意見を持つ方の「人間の尊厳」に対する観念が小さいと言っているわけではないし、現状への苦悩もあるだろうと思う。しかしそういう意見を読んで私が違和感を抱いたことも一方の事実であるために、その中身を包み隠さずここに述べたまでである。

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by hishikai | 2008-09-16 12:27 | 憲法・政治哲学


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