2008年 09月 18日
混乱の洗練化
e0130549_0111629.jpg「ここで私は言いたいのだが、我々日本人に欠けているのは、混乱の洗練化という能力ではあるまいかということだ。少なくとも今までは、混乱に直面すると、性急に統一や統制を考えた。機械的裁断や極端な動反動の作用がそこに生じた。個人の場合でもすぐ『立場』とか『拠点』を求める。あるいはバックボーンの形成を急ぐのだが、その気持は当然としても、混乱自体に深く沈澱してゆく訓練が不足していたのではなかろうか」(戦後日本についての覚書/亀井勝一郎)

1957年に書かれたこの文章が2008年の今日に修正の必要もなく妥当するということは、先ずもって亀井勝一郎の千里眼に敬服せねばならないが、それと同時に私達日本人の頑迷にも悲しい敬服をしなければならない。そしてこれまで性急な混乱の回避に保守政党も加担して来たことはここで省みられるべきである。

それは保守主義が16世紀英国のR・フッカーを嚆矢とする経験主義の一形態で、人間の不完全性を前提とする故に、社会の諸問題を処理する知識を孤高の思想家の思弁的理論の中にではなく、歴史的経験によって蓄積された慣習に見い出そうとする信念だからである。

かように社会の諸問題を処理する知識を慣習に見い出そうとするならば、何はともあれ経験を覚悟しなくては始まらないのだが、ひとたび混乱が生じれば、これを性急に回避するための方策を口にする政治家を一般の保守層も支持してきのだから、戦後日本の保守主義が何であったのかということは今一度の検討に値する。

そういった状況の中で亀井勝一郎に類する発言をしたのが麻生太郎であったということは、日本人にとって薄暮の如き希望である。もっとも彼の公約する自由主義者に評判の悪い景気対策が失敗すれば、政権もまた短命に終わるであろうが、少なくとも彼が我国では異色な英国流保守主義者である可能性に言及せずに、彼の経済政策の当否のみを論ずるのは、我国における立憲政治の確立という観点からは片手落ちである。

ともかくもこれからの日本人は「混乱の洗練化」ということを肝に命じて置かないことには、これまでの意気地のない混乱回避策で国民の幇間と化した政治と、目先の安楽に拘泥する民心とを建て直すことは出来ないであろう。

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by hishikai | 2008-09-18 00:31 | 憲法・政治哲学


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