2008年 10月 15日
お手軽な合理主義
e0130549_212617.jpg「私の推論では、比較的最近まで競馬の観衆はほとんど、馬について何ごとかを直接に知っている男女で、真に教養ある人々であった。しかし今ではアイルランドを例外として、そうではなくなっている。それで、自己教育の能力も意志も機会もなく、かつ自分の苦境から抜け出る近道を求めている無知な観衆は本を必要とするのである。その種の本のひとつである『クラシックレース案内、ダービーの勝者を当てる法』※)の著者たちは、技術知と全面的な知との違いに気付いており、勝ち馬を当てる技術知には一定の線を越えると、はっきりしたルールのなくなる限界があり、そこでは『知性』が不可欠なのだということを指摘するのに苦労した。しかし自分の貧しい知性を真に教養ある人々と同じレベルに置いてくれるはずの誤り得ない方法を探しているその本の欲張りで合理主義的な読者たちは、くだらぬものを買わされたと思ったのである。このことは、彼らがデカルトの代わりにアウグスチヌスかヘーゲルでも読んだ方が、時間の使い方としては、どんなにましであったかということを示している。私はデカルトを許せない」(政治における合理主義/M・オークショット)

競馬は掴み所のない現象である。この不明瞭な事実を追い払うために、我国でも競走馬の走破タイムを指数化して比較する方法や、さらにこれを精密化した方法が様々に提唱されているが、これらの技術知が競馬という現象を何ら解明しないことは、大衆紙で毎週のように報道される高額の配当を見れば明らかである。

これは社会に対する認識についても同様で、例えば『⋯になる秘訣』といった処世本が書籍売上ランキングの上位を占める現状は、それだけ多くの人々が「自分の貧しい知性を真に教養ある人々と同じレベルに置いてくれるはずの誤り得ない方法を探しているその本の欲張りで合理主義的な読者たち」であることを示している。

しかしM・オークショットも指摘するように、画家が本によって伝えることができるのは絵の描き方で、音楽家が本によって伝えることができるのは作曲の方法である。一方で、どうすれば美しい絵を描くことができるのか、どうすれば美しい音楽を作曲することができるのかは、すでに彼らの作品の中に語られてしまっている。

このような全面的な知は伝えようとしても伝えられない。それは忍耐強く継続された努力によってのみ伝達可能であって、これを一足飛びに合理的な技術知へと還元して、あたかも薬を飲むように実現することなど不可能である。そのようにデカルトを誤解した人々にとっては、まさに「アウグスチヌスかヘーゲルでも読んだ方が、時間の使い方としては、どんなにましであったか」知れない。

※M・オークショットも著者の一人。

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by hishikai | 2008-10-15 02:51 | 文化


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