2008年 11月 02日
歴史の海原
e0130549_16402674.jpg「かくて政治的活動においては、人々は果てしなく底も知れない海を行くのであるが、そこには停泊できる港もなければ、投錨するための海床もない。また、出航地点もなければ、目指される目的地もない。そこでの企ては、ただ船を水平に保って浮び続けることである」(政治教育/M・オークショット)

海の彼方に千年王国があるという言葉は人々を惑わす。社会は進化するのだと唱えられたとき、ある人は富の分配が平等に行われる社会を夢み、ある人は世界が道義で統一されることを夢みた。また人間の自由は経済から解放されることだと唱えられたとき、ある人は全ての福祉を政府が引き受ける社会を夢みた。

しかしそんな王国は存在しない。そのことは人が言葉を文法から学ぶのではなく子守唄から学ぶように、私達の目標というものが、先人と私達が歴史の中から体得してきた行動の伝統から引き出され、組み立てられたものでない限り、私達はその目標に近づく方法を知らないことを意味している。

そして目標の達成をもって私達の営為が終わるのではないことを考えれば明らかなように、私達の目標というものも、せいぜいのところ船の見張り台から見える距離にあるもので、その達成は次の舵取りの始まりに過ぎないということは、いかにも意気消沈するようだが、冷徹な現実である。

夏目漱石が『夢十夜』の第七夜で語っているのも、そんな意気消沈に似ている。そこでは主人公が大きな船に乗っていて、西日を追いかける長い航海に嫌気がさしている。外国人に教えてもらった天文学もサロンの音楽もつまらない。そこで彼は死ぬことにするが、自分の足が甲板を離れた刹那に命が惜しくなり後悔する。

そして話は次のように結ばれる。「自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った」歴史の海原は、長い航海のめまいにうち勝つ人々だけのものなのだ。

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by hishikai | 2008-11-02 16:59 | 憲法・政治哲学


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