2008年 11月 04日
伝統とグローバリゼーション
e0130549_18115985.jpg米国発のグローバリゼーションが我国の人々に富の格差を生み、これが伝統的な美風を損なう原因になっているという言説を近頃よく聞く。また米国による伝統的な美風の破壊は敗戦以来二度目だと言う人もある。しかしこのような言い方は伝統的な美風が健在であったはずの戦前にも富の格差があった事実を説明しない。

グローバリセーションは世界規模の相互依存のネットワークで、それは経済に限ったことではない。また様々な次元で古代より存在する。最初の天然痘の流行は紀元前1300年のエジプトで記録されて1789年にオーストラリアに達する一方で、じゃがいもやトマトといった新大陸の食材は食卓にバリエーションを与えている。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教といった宗教は長い距離を越えて世界に広まり、立憲制や民主制を採用する国家の増加は政治思想の広がりを示している。19世紀の産業革命による交通手段の発達はこの速度を劇的に向上し、21世紀の通信革命は更なる速度の向上と共に、その受益者数を爆発的に増やしている。

一方で世界の最富裕国に暮す20%の人々と最貧国に暮す20%の人々の収入の比率は、1870年と1913年の間では7対1から11対1であったのが、1960年と1997年の間には30対1から74対1にまで拡大しているといわれる。グローバリセーションと我国の社会格差を論ずるとき、この程度の時間の長さを前提とすべきである。

また格差を問題視する認識の背後には「正義」とか「連帯」とか「福祉」といった諸基準との関係で判断する思考があると思われるが、それら諸基準は私達の生活の伝統を縮約したものであっても伝統そのものではない。それは私達のすぐ隣にあるので根拠とするに容易いが、また同時に全体の状況を見失わせる危険がある。

全体の状況に注意を払う必要があるのは、私達の生活とそれに伴う伝統が常にその中にあり生きて変化しているためである。全体の状況と伝統の縮約である諸基準とでは、特に時代の分岐点にあってその選択が迫られた場合には、本来的な拘束力で全体の状況が優ると考えなければ伝統それ自体の存続をも危うくする。

例えば明治の文明開化にあって我国の建築家が和風建築から洋風建築へと様式の変更を迫られたとき、建築家の胸にどのような選択が働いたであろうかということを、後世の私達は現在に残る和洋折衷様式の中に発見することができる。それを残念でありながらも最善の選択であったと許すことは卑怯な考え方だろうか。

あるいは弁護士が自分の客に請求された賠償額が妥当ではないと主張するときに「この賠償額は不正だ」と言うだろうか。そうではなく彼は全体の状況に照らして、請求された賠償額は「現在の一般的な水準からはずれている」と言うべきではないだろうか。さもなければ彼は信用を失い、客は全てを失うのではないだろうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ

by hishikai | 2008-11-04 18:21 | 文化


<< 平板な理解      歴史の海原 >>