2008年 11月 11日
袋小路の設問
SORA様、こんにちは。先ず最初に返事が遅れましたこと、お詫び申し上げます。ここ数日所用がありました。さて、私が貴稿『ソフトバンク孫正義氏にみるグローバリズム』に寄せました拙い批判に『グローバリズムと日本の伝統』で丁寧にお応え頂き、ありがとうございます。

そこでSORA様は、日本人の伝統というものを「質実倹素な生き方、暮らし方」であるとし、これを倫理として「孫正義氏の一千万円携帯電話端末プレゼント」という行為にあてた場合には、その行為は倫理的に「低い」と述べられています。この点は私も理解します。彼の行為は尊敬されるべきではありません。

(まあ、上戸彩氏につきましては最近のデコラティブな流行も考慮すべきかと思います。いや、別に贔屓をするのではありませんが⋯)

イエスの価値観は私には解りかねますが引用された箇所の厳しさは、これを我身に顧みて慄然とします。確かに「悪」を行ったことにはならないでしょうが、やはり当人はショックでしょうね。人間世界には、政治的なあるいは法的な「有徳/不徳」を超えた倫理があり、これが指し示す彼方に絶対的な「善/悪」があるだろうことをうかがわせます。私は高校がカソリック校でしたので、神父様がこういう雰囲気でやんわりと諭すの経験があります。結構こたえるんですよ、これが。

もう一つお詫びしなければならないのは、私の文章が下手なために、批判の意図が少しずれて受取られた印象があるということです。誠に申し訳ありません。ですから以下にもう少し明確に書きたいと思います。

これは私の想像ですが、キリスト教世界では政治的なあるいは法的な「有徳/不徳」を侵したとしても、例えばカルヴァンの予定説のような考え方からすれば、人間倫理の最終的な課題は絶対者に預けておくことができるので、これが必ずしも「善/悪」を侵したことにはならないのではないでしょうか。神はエレミアが生まれる前からエレミアを知っていたのですから。

それに対し我国の人が想定する世界は謂わば「世間」ですから、人間倫理の最終的な課題は、人々がこれを預け置くところを知らず、世間知でもって自身なり共同体なりで解決に努めねばなりません。ですから自然、政治的あるいは法的な「有徳/不徳」は「善/悪」を兼ねて混同されがちであるように私には感じられます。

このような「世間」がグローバリズムと出逢うと、どのような反応を示すのか。ここにグローバリズムの持つ負の側面であるところの格差の拡大等を、政治的な「有徳/不徳」の問題と認識しながらも、同時にそれよりも強い印象をもって「善/悪」の問題と見なす思考が成立するのではないでしょうか。

それはかつて日露戦勝から大正を経て昭和初頭にかけて、日本人が近代を西欧化によって強国となったことによる「善」の側面と、それが伝統的価値の破壊を招くという「悪」の側面に分離して捉えながらも、現実としてはそれらが一体不可分であるディレンマの中で懊悩した事態と酷似しているように思います。つまり西欧化の不可避と伝統文化防衛を同じテーブルに乗せたところに生ずるディレンマです。

しかしその懊悩が結論を得ることなく『米国恐るるに足らず』という言論にとって代わられ、やがて真珠湾攻撃に快哉を叫ぶに至り、日本人は自らに課した自問を放棄したのでありましょう。しかしそのことは同時に日本人の近代に対する設問そのものが、最初から袋小路の構造を持っていた可能性をも示唆しているように思われます。

そのような中で貴稿『ソフトバンク孫正義氏にみるグローバリズム』に接したとき、そこに「アメリカ・グローバリズムの申し子竹中平蔵氏」や「堀江貴文氏などは、伝統的な日本の文化、価値観から外れたアメリカグローバリズムの悪しき申し子」の言辞を発見し、そこに私はまたかつての袋小路を見たのです。

「何か他の理路はないのか」それが私の感想でした。そこで私は、グローバリゼーションが歴史的な相互依存のネットワークでアメリカ発ではないこと、全体の状況と伝統の縮約との優先順位を言い、この衝突を避ける理路を提示しようとしたのです。それが迎合的であるかと言えば、あるいはそのとおりかも知れません。

しかしながら敗戦以来の私達は「アメリカが」と言った途端に、西欧と非西欧の間の袋小路に入ってしまうように私には思われます。現在のグローバリゼーションと、それを推進しようとするグローバリズムは不可避のことで、私達は今その岐路に立っているのかも知れません。

であるならば私達は近代化以来ずっと自問してきた袋小路の設問に換えて、そろそろ出口の見える設問の仕方を発見しても良いのではないのか、そのためには何かしらの「選択」が必要なのではないのか、それとも私達は永遠に近代化のディレンマをアメリカへの憤激のうちに解消しなければならないのか、そのようなことをSORA様にお聞きしたかったというのが私の批判の真意です。

追記

私の言う「全体の状況」は社会全体の状況です。しかしその社会は「世間」に代表される実体化され、存在することが信じられてきた、人肌の温もりのある有機体ではなく、F・ハイエクの言うように、諸個人が目的を追求する行為の重なりの中から姿を現し、なおかつ諸個人の意思とは必ずしも合致することなく形成される秩序であることを指しています。

「伝統の縮約である諸基準」は社会形成の後から、慣習の時間的積み重ねである伝統の中から人間が縮約して作り出した倫理的価値の標識で、諸個人の行為が時々刻々止まらないために、これも常に変化を余儀なくされると考えています。

by hishikai | 2008-11-11 20:56 | 文化


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