2008年 12月 24日
『江戸の残党』岡本綺堂(要約)
e0130549_2334650.jpg明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時になると一人のおでん屋が売りに来きた。歳は四十五、六であろう。頭には昔ながらの小さい髷を乗せて、小柄だが色白で小粋な男だ。手甲脚絆のかいがいしい出立ちをして、肩におでんの荷を担ぎ、手には渋団扇を持って、おでんやおでんやと呼んで来る。実に佳い声であった。

このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶をする。子供心に不思議に思って聞いてみると、これは市ヶ谷辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。

やはり十七年の秋、涼しい夜だったと思う。父と四谷へ散歩にゆくと、四谷伝馬町の通りには幾軒の露店が出ていた。その間に筵を敷いて坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻りに字を書いていた。今日では大道で字を書いても銭を呉れる人はあるまいが、その頃には通りがかりの人が幾許かの銭を置いたものである。

うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視た父は、一間ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人に遣って来いと命じ、かつ遣ったらば直ぐに駆けて来いと注意された。二十銭は多過ぎると思ったが、私は云わるるままに札を男の前に置くや否や一散に駆け出した。これに就いて父は何も語らなかった。

その時に彼は半紙に向かって「⋯茶立虫」と書いていた。上の字は記憶していない。今日でも俳句で茶立虫という字を見ると夜露に濡れた大道に坐る浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で亡びてしまったものと察せられる。

─岡本綺堂の小説『猿の眼』には上述と似た場面が登場する─

「明治四年の十二月の寒い晩に上野の広小路を通りますと、路ばたに薄い蓙を敷いて些(ちっ)とばかりの古道具をならべてゐる夜店が出てゐました。芝居に出る浪人者のやうに月代を長くのばして、肌寒さうな服装(なり)をした四十恰好の男が、九つか十歳(とお)ぐらゐの男の児と一緒に、蓙の上にしよんぼりと坐つて店番をしてゐます。」(猿の眼/岡本綺堂)

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by hishikai | 2008-12-24 02:37 | 資料


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