2008年 12月 26日
『風邪ごこち』永井荷風(抜粋)
e0130549_1112978.jpg増吉はその裾を踵で踏まえながら、縫模様の半襟をかけた衣紋を正して、博多の伊達巻きを少しは胴のくびれるほどに堅く引き締めると、箱屋は直ちに裾模様の二枚重ねを取って、後ろから着せかけて置いて、女がその襟を合せている暇には、もう両膝をついて片手では長く敷く裾前を直してやり、片手では薦の上なる紋羽二重の長さは丸一反もあろうというしごきを、さっと捌いてその端を女の手に渡してやった。(中略)

この年月見馴れに見馴れた事ながら、男はさすがに始終肱枕の眼を離さず眺めている中、これも今夜初めてというではないが、芸者がお座敷という一声に、病を冒して新粧を凝らし、勇ましくも出立って行く時の様子は、あだかも遠寄せの陣太鼓に恋も涙も抛って、武智重次郎のような若武者が、緋威の鎧美々しく出陣する、その後姿を見送るような悲哀を催させるものだ⋯と思った。

箱屋は袋につつんだ三味線を持って、這入って来た時のように腰をかがめて出て行くと、増吉は男の傍に膝をつき、締めたての帯の間から、今挟んだばかりの煙草入れを抜き出しながら、

「お化粧したらかえって気がさっぱりしたようだわ。それじゃア、私行って来ますよ。早く貰ってすぐ帰って来るから、待ってて頂戴よ。晩の御飯一人でたべちまっちゃアいやですよ。」

「姐さん。車が来ました。」と下の方で下女の声。

男は半身を起こして唯だ頷付いていると、女はその手を軽く握って、「お腹が空いたら、私の牛乳があるから、あれでも飲んで置きなさい。」それから何ともつかずに唯だ、「よくッて?」と嫣然(にっこり)して見せて、増吉は褄を取って梯子段を下りた。(風邪ごこち/永井荷風)

まあね、人間はこうでなくっちゃア、いけない。大正初年当時は社会問題を扱った作品が許されないから、やむをえずこうした短篇を書いたと永井荷風は言うけれど、それにしては筆が冴えていて、ヒヤリとした好い女が見えるようだ。エッ頽廃的?そうですか、こんな結構な頽廃なら私はいつでもお引き受け致しますがね。

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by hishikai | 2008-12-26 01:29 | 資料


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