2009年 01月 12日
しづ心なく花の散るらむ
e0130549_1284141.jpg映画『奇跡の人』で、ヘレン・ケラーは流れる水に触れながら「water」と言う。そのとき彼女は、温度や勢いに違いがあっても、今触れているものと、これまで触れてきたものとが一つの「まとまり」であること、そこに「water」という名称が与えられていることを知る。

同じように梅や桜は一まとまりに花と呼ばれ、雀や鶴は一まとまりに鳥と呼ばれる。私達はこのように世界をまとまりの集合として認識し、各々のまとまりに名称を与えて理解する。換言すれば私達の世界は、私達が仮設したまとまりの集合体に過ぎない。花も鳥も単なるまとまりであって「それ自体」では存在しない。

この名称を与えられたまとまりが概念だが、私達は何事かを他者に伝えたいとき、その概念を一定の組合せに編成して記号化する。記号の組合せである文が所定の方式である文法に則って綴られるとき、受信者はこれを解読し自らの心中に概念を再編成して相手の意図を理解する。

この編成された概念が「理(ことはり)」で、人は何事かを論じ、伝えるとき、それを「理」に置き換えて操作する。だが古来より日本人はこの方法に限界があると考えてきた。確かに精密な「理」を操作すれば、人は世界を精密に把握することができる。だが概念が「それ自体」では存在しないことに変わりはない。

一方で私達が桜の散る光景に出逢ったときに受ける「感じ」は紛れもなく存在する。その「感じ」はどんなに精密に概念を編成しても伝えることはできない。この「感じ」が「こころ」である。だが私達は他者への伝達を上述の如く概念の編成によって行う他に方法を知らない。そこで日本人は「こころ」を「うた」で伝えた。

「久方の 光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」と聞けば、私達はうららかとも、もの悲しいともつかないある感じ、すなわち作者の「こころ」を了解する。そのようにして私達は、遠くは国の始めから、近くは先の大戦まで、星の数とも知れぬほど世に送り出されてきた先人達の「こころ」を受取ってきた。

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by hishikai | 2009-01-12 12:19 | 文化


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