2009年 01月 16日
成人病としての演歌
e0130549_2205935.jpgNは弁当屋の大将。今、彼は一日の商売を終え、近所にあるこのモツ焼き屋のカウンターで私と肘を並べてウイスキーハイボールを飲んでいる。頭に白いタオルを巻き、青いジャンパーを羽織っている。もう夜の十時を過ぎて、客は私達の他にはいない。通りを往く人も少なく、一月の冷たい風が暖簾を揺らしている。

「俺さぁ、最近、演歌、好いと思うんだよね」「⋯⋯⋯」

Nは根っからのロックファンで、LP盤も随分と持っている。先だっても部屋にお邪魔して彼のコレクションを拝聴したばかりだ。酔って興が乗ればF・マーキュリーを真似て周囲を楽しませてくれるし、さらに酔えば往来でエアギターをやる。その彼が演歌が好いと言う。が、これは彼に限ったことではない。

私の中学校以来の旧友、Sもその一人。ソウルのコレクターで、ギターを巧みに弾く。それがどうしたことか、鳥羽一郎のファンになった。そしてもう一人、KはSの後輩。やはりギターを巧みに弾く。複雑なコードも熟知する。が、彼もやはり鳥羽一郎のファンになった。彼らは互いを一郎、二郎と呼び交す。

こういうことは、一種の精神的、文化的な成人病であろうと私は思う。男も四十を過ぎれば、身なりも髪型もすっかりおじさんになる。自分は若いつもりでも、知らず知らずのうちに萎えた気分が染込む。カウンターに肘をつき、背中を丸めて酒を飲む。そこへ有線放送から演歌が流れる。あゝいいなぁ、となる。

演歌は日本人の心と言うが賛成し難い。芸能史に詳しいわけではないが、おそらく演歌は川上音二郎の「オッペケペー節」以来の芸能で、浪曲と共に近代的な来歴を持つ。真に日本人の心を聴くのであれば、中世の琵琶平曲や能の謡、近世の地唄や清元に止めを射す。

と、考える間に数秒が経過した。Nはまだこちらを見ている。(仕方ない⋯)私はウイスキーハイボールを一口飲んで、こう答えた。

「それなら、俺の『前川清ベスト25』貸そうか、結構いいよ」

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by hishikai | 2009-01-16 03:07 | 文化


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