2009年 01月 20日
古代ローマ的なるもの
e0130549_18541586.jpg明治二十一年、伊藤博文が帝国憲法の制定に先立ち「我国の機軸は何なりや」と言ったとき、伊藤公の脳裏には国家と法の権威を何処に求めるかという問題があった。そして自ら見聞した欧州諸国に倣って言葉を続けた。「宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心之に帰一せり」

欧州はローマ法を継承し、教会に権威を求めた。この場合のローマ法は529年にビザンティンで完成したユスティニアヌス法典を指す。そしてビザンティンがキリスト教国家であったことを考えれば、伊藤公が脳裏に描いた権威と宗教のセットは、ビザンティンから欧州へ受継がれたものと言ってよい。

だがアメリカは違う。アメリカはビザンティンから欧州という潮流の外にあり、国家と法の権威を宗教に求めることはない。アメリカは古代ローマをモデルとして建国され、その理念は現実的で保守的である。この点につきH・アレントは次のように指摘している。

アメリカ人が憲法に自らを結びつけた力は、啓示された神に対するキリスト教的信仰でもなければ、同じように宇宙の立法者である創造者へのヘブライ的服従でもなかった。革命と憲法に対する彼らの態度が幾分でも宗教的と呼べるとすれば「宗教」という言葉を、そのオリジナルなローマ的意味で理解しなければならない。(革命について/H・アレント)

ローマ的意味の宗教とは、古代ローマの人々の常に先祖の起源に回帰しようとする精神を指す。したがって彼らは「建国の精神」が後継者の絶えざる流れの中で受継がれてゆくことが、国家と法に権威をもたらすと考えた。これをM・ハダスは次のように言う。

ある意味ではローマの真の宗教、ローマの崇拝する究極の対象、ローマの理念を具象化したものは、結局のところ、ローマそのものであったといえよう。(ローマ帝国/M・ハダス)

これは現在のアメリカも全く同じと考えてよい。ある意味ではアメリカの真の宗教、アメリカの崇拝する究極の対象、アメリカの理念を具象化したものは、結局のところ、アメリカそのものである。

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by hishikai | 2009-01-20 19:30 | 憲法・政治哲学


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