2009年 02月 02日
永井荷風『墨東綺譚』抄
e0130549_120578.jpg窓のすぐ下は日蔽の葭簀に遮られているが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐っている女の顔、往ったり来たりする人影、路地一帯の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下って、星も見えず、表通のネオンサインに半空までも薄赤く染められているのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしている。

お雪は座布団を取って窓の敷居に載せ、その上に腰をかけて、しばらく空の方を見ていたが、「ねえ、あなた」と突然わたくしの手を握り、「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」「おれみたようなもの。仕様がないじゃないか。」「ハスになる資格がないって云うの。」「食べさせることができなかったら資格がないね。」

お雪は何とも言わず、路地のはずれに聞え出したヴィヨロンの唄につれて、鼻唄をうたいかけたので、わたくしは見るともなく顔を見ようとすると、お雪はそれを避けるように急に立上がり、片手を伸して柱につかまり、乗り出すように半身を外へ突出した。

わたくしは、ある時は事情に捉われて、彼女達の望むがまま家に納れて箕帚を把らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女達は一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して救うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になってしまうからであった。

お雪はいつとはなく、わたくしの力によって、境遇を一変させようという心を起している。懶婦か悍婦かになろうとしている。(中略)しかし今、これを説いてもお雪には決して分ろうはずがない。

物に追われるようなこの心持は、折から急に吹出した風が表通から路地に流れ込み、あちらこちらへ突当った末、小さな窓から家の内まで入って来て、鈴のついた納簾の紐をゆする。その音につれてひとしお深くなったように思われた。(墨東綺譚/永井荷風)抄

※ハス ハズバンドの略 ※箕帚を把らせた 妻や妾にした ※懶婦 なまけ者の女 ※悍婦 気性の荒い女

ブログランキング・にほんブログ村へ

by hishikai | 2009-02-02 12:08 | 資料


<< 佐藤春夫『荷風先生の文学』より      永井荷風『日和下駄』より >>