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2009年 02月 08日
『墨東綺譚』をめぐる二つの評論
『墨東綺譚』をめぐる二つの評論_e0130549_0315473.jpg佐藤春夫の『荷風先生の文学』と平野謙の『永井荷風』は、共に『墨東綺譚』に就いての評論だが、その内容は真っ向から対立している。両者の関係は佐藤が展開する荷風のヒューマニズム論に対して、平野が「そもそもお雪は所謂良家に主婦たることを希ったのであろうか」との設問で佐藤と荷風を批判する構図を描く。

だがこの設問自体、その前段に表明された「荷風固有の倫理観そのものも、私は普遍性を持たぬ固陋の観念にすぎぬと思う」という問題意識に比較して、突如とした低い次元への転落である印象を拭えない。「荷風固有の倫理観」を持出しながら「いましばらくそのことは措く」として「そもそもお雪は」と継ぐのは変調ではないか。

ここには『墨東綺譚』をめぐる評論の中心課題が「荷風固有の倫理観」にあることを暗々裏に認めながらも、なおそれを為永春水による人情本と同じ位置に結論付けようとする平野の意図が窺える。それは自身の信奉する人権思想と荷風の思想とを同じ机上に乗せて比較検討することへの平野の感情的な拒絶と診て大過ない。

この位置から平野謙の感受性は佐藤春夫のそれに遥かに及ばない。そしてここに荷風の嫌悪したものを探し出す必要があるとすれば、それを私は『日和下駄』にある「覚醒と反抗の新空気」という言葉に求めたい。それは裏を返せば荷風の愛したものが身分制下での「諦めの精神修養」や、佐藤春夫の評論中にある「その處を得」た生涯であることを意味する。

しかし「覚醒と反抗の新空気」は日本の近代国家存立のため避け得ない条件で、したがってそれは近代人一般の抜き難い性質であるとも言える。であればこそ荷風は職業的な自卑により、恰も身分制下にあるような「諦めの精神修養」を余儀なくされた売笑の女達を近代社会に取残された孤塁として愛したのではないだろうか。

往来に面した窓辺で客を引くお雪の姿を眺めながら、そんなお雪の中にもう一人の、近代人としてのお雪が隠されているのを大江匡は認める。そしてお雪が今の境涯から逃れ、もう一人のお雪が彼女の心の主人となった時に、それでもお雪は以前のお雪で在るかという自問に大江匡は否定の答を選んで自ら失恋する。そこに『墨東綺譚』の主題があり、近代人には了解を期し難い淡い余韻が「綺譚」の名に込められているのだと私は思う。

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by hishikai | 2009-02-08 00:35 | 文学


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