2009年 03月 12日
疑似漢字に映して見る日本人の文化意識
e0130549_3511332.jpgそら様のブログに「らくだ」という方からコメントが寄せられた。これに就いては私も関係なしといえない。しかし私は両者の間に割って入ろうとか、どちらかに加勢しようとか、そういうつもりはない。ただこのコメントの内容に興味があるので、思うところを少しだけ書いておくこととする。

まずコメントを読んで、私は長谷川三千子氏の『からごころ』という、これまで日本人がどのように外来の文化を摂取してきたかを本居宣長の思索を手掛かりとして述べられた小論を思い浮かべ、次いでその中の疑似漢字に就いて述べられた箇所が、氏の論旨への説明として最も分かりやすい補助線であることを思った。

疑似漢字は古代アジア諸国が国語を表記すべく案出した文字のことで、ベトナムの字喃を始め、契丹文字、西夏文字、女真文字などがある。それらは漢字の部分を組み換えたり、雰囲気を真似るなど様々で、ぼんやりと眺めるならばエキゾチックでさえあるが、しかしそれを凝視するとき、ある苦しさの表情が透けて見える。

それは、漢字で書けば全ては中国語となるのだぞ、という「漢字の言霊」から少しでも遠ざかるため、漢字でない文字を作らねばならない焦燥と、しかし自分達の知っている文字は漢字の他にはないという現実の、あたかも左手で漢字を引き寄せながら、右手でそれを押し返す、そういう苦しみを云う。

文化と云うものには否応もなく引かれた国境があり、それ自体は国境に区切られた一個の血の通った有機体であること、そういうことが常識である人々にとって、文化の輸入は常に苦しみを伴う。この点で日本人の場合、例えば「さくはな」を「佐久波奈」(※)と表記することには、この原則への無意識的な無視が見て取れる。

日本文化が輸入で成立しながら、しかし「今ではまったく独自な発展を遂げています」と述べるとき、そこに疑似漢字のあの苦しみはない。そのような文化への手付きが、現行憲法でさえも、その歴史的成立事情を乗越えさせ「さくはな」を「佐久波奈」と表記する同じ手順でもって、遂にはそれを自己の文化と認めてしまう。

(※)例えば訓読と云うものは漢語の様態を全く無視している。考えてもみよ。「I love you」を「Iハ youヲ loveス」と読み下したときの原文の崩壊を。あるいは咲く花という意味の「sakuhana」という日本語の音を「佐久波奈」と漢字の表音機能だけを借りて表記した万葉仮名の漢語としての全くの不成立を。このような文化の摂取方法は、文化の国境を無視すること、さらには無視していることも無視すること、そのような意識の下で始めて成立する。

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by hishikai | 2009-03-12 04:31 | 文化


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