2009年 03月 15日
人権思想と人間の現実
e0130549_654859.jpg報道によれば埼玉県の中学校に通うフィリピン人、ノリコ・カルデロンさんの両親が不法在留のため日本政府から国外への強制退去を命じられていた問題は、ノリコさんだけを日本に残して4月に両親がフィリピンに帰国、ノリコさんの面倒は母方の叔母さんが見ることで決着がつきそうだ。

今回の件ではアムネスティ・インターナショナルや支援者から「児童の権利に関する条約」の第3条1「児童に関するすべての措置をとるに当たっては(中略)児童の最善の利益が主として考慮される」と同第9条1「児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する」という規定が示された。

つまりこれら規定に照らして、日本政府がノリコさんの両親に退去強制を行うことは締約国としての義務に違反し、かつ国際人権基準に違反するという指摘である。従って今回の件で考えるべきは、報道姿勢とそれへの反発による同情か法律かといった問題ではなく、人権思想と人間の現実との整合性に就いてではないだろうか。

人権思想は専制政治に対抗するイデオロギーとしては有効であったが、人が人であることを理由として保障される権利という、その理念自体はフィクションである。市場は人間の必要から歴史的に発生したが、人権は人間の思索から非歴史的に説かれた。それは人間の社会性を忘れた超越的な道徳論でしかない。

人間の存在規定がどうであれ、現実の私達は一定の役割の中で各人なりの目的を持って生活している。そして各人の目的が衝突することがないよう、各々の権利はその範囲を決められている。そのことを定めた法律は社会に生きる人間の相互承認の結果でもある。従って誰かの希望が法律への違背よりも優先されてはならない。

人権思想が法律を跳び越して私達に命令を下すとき、その命令は歴史に見られた国家の姿、人間の歴史的経験、文化的伝統、日常の利害関心を無視した強圧的な義務を語ることになる。そのことは却って人々を権利から遠退かせるだろう。真に法の基準とすべきは超越的な道徳論ではなく、経験に則した社会の法なのだ。

ブログランキング・にほんブログ村へ

by hishikai | 2009-03-15 06:22 | 憲法・政治哲学


<< 柿の葉鮨      疑似漢字に映して見る日本人の文化意識 >>