2008年 02月 04日 ( 1 )

2008年 02月 04日
国の虚構と文学
e0130549_12431193.jpg林達夫は終戦の報に接し、我ながら驚いた人情の自然と述べ、複雑なそして単純な無念の思いに滂沱として落涙する。「日本よ、さらば」それが彼の感慨であった。そのとき林達夫の胸に去来した日本は、もはや一つの心のあり方であったのではないか。心のあり方としての国。これが何によって形作られてきたかということに私は文学の虚構を考えたい。

人は各々の事象に記号が与えられていることを理解した上で、これを整序して世界を把握している。この整序された記号を文法に則って表出すれば、他者に対して何事かを伝達することができるが、こと内容が心のあり方であるときに、これを通り一遍に行うことでは言語はその伝達機能を十分に果たし得ない。

そこで私達の先人は着眼点を一旦事実から切り離して虚構を創作し、そこで用いられる言葉のあやによって心のあり方を伝えようとしてきた。和歌や俳句、物語といった文学はこの位置にある。それは虚構でありながら虚構でしか伝えられない心への必要である。

古事記、古今和歌集、伊勢物語、平家物語、奥の細道等々々々。虚構が堆積して重なりあうところ、更に抽象された虚構が心に結ばれる。それが心のあり方としての国であると断言してよいかどうか、私の力では心許ないが、私はそのような道筋を想像している。

いやそうではない、それを形作ったのは現実の日常ではないのかという見方もあると思うが、その現実の日常で接する人の人情や、ふと感じる自然の美しさの理解を教えたのは、やはり文学の虚構であるとは考えられないだろうか。

「春の花をたずね、秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もなく、何をもかはもとの心ともすべき」と言ったのは藤原俊成だが、これが独り文学者の傲慢であるか否かは各人が各人の胸に問えば答は自ずと明かであると思う。

国の滅亡に想起される国。それが文学の虚構に形作られた国、心のあり方としての国であるといえば、けしからんということになるかもしれないが、そのような実務家の心理の背景には、国民国家形成の過程から文化を引き離そうとする戦後的な怯えが影を落としているのではないか。

国の先行きを憂うときに私達はとかく現実の方面に目を奪われがちであるが、それを重要と認めた上で、それよりもさらに痛切な心で国の虚構を思うべきである。漆の底に沈む金箔をまばたき一つも惜しんで凝視する、そのような心持で国の虚構を思うべきである。

by hishikai | 2008-02-04 18:01 | 文化