2008年 03月 21日 ( 1 )

2008年 03月 21日
上方の色男
e0130549_1132589.jpg芝居を見る度、自分は大阪の芝居に出て来る色男と、東京の芝居に出て来る色男とは全く面目を異にしているのに心付く。伊佐衛門も治兵衛も忠兵衛も、大阪の色男はどれもこれも、皆あくまで柔和で親切で、そして何処にか恐ろしいほど我慢づよい処歯切れのしない処がある。封印切りの忠兵衛がもし江戸ッ子であったならば、封印のきれるまで、あんなに何時までも八右衛門の侮辱を忍んではいまい。封印のきれる騒ぎの前に、癇癪を起こして八右衛門をぽかりとやっ付けてしまったかも知れぬ。(永井荷風/色男)

まったくその通りである。あの封印切りの場ほど焦れったいものはない。噛み切れぬ甘い菓子を何時までもくちゃくちゃと噛んでいるような苛立たしさである。早々にぶん殴って幕を引いてしまうべきである。上方の芝居に出てくる色男は気位が高い割に気が弱く、嫉妬深く、且つ諦めが悪い。

いや、人間は実の処そういうものかも知れない。そういうものかも知れないが、あれは芝居である。人間の弱さを、未練を、悲しい強がりを斯くも丹念に描いて何が面白いのであろうか。むしろ残酷ではないか。そもそも上方の芸能というものは、人間をクローズアップし過ぎると私は思う。鬢のほつれの一本一本、涙の糸の一筋一筋までが克明に見て取れて、それが却ってナマな感じでいただけない。

江戸の芸能はたとえ心中物であろうとも、人物はおよそ没個性である。台詞もあまり人物毎に語り分けない。極端に言えば皆同じ顔の人形で、それが運命の糸に絡め取られて少しずつ破滅の奈落へ落ちてゆく。その哀れな人の営みを川風が包み、月が見下ろす。その深閑とした空気が主役である。

世話事の色男の創始者に初代坂田藤十郎を、一方クローズアップされた人間描写の創始者に近松門左衛門を想定する考え方がある。しかしこの両者は不可分の関係にあるのではないだろうか。色男はクローズアップされた人間描写への要求が生んだ人間像であろうし、また芝居が観客のニーズに支えられていたとすれば、その要求の素地は元禄以前に既に用意されていたと考えるのが妥当であろう。

これを平安王朝文学に求めようとする考え方もある。つまり在原業平や光源氏に、その原型を求めようというのだ。しかし文学上の趣向と、その趣向が芸能として一般の人々の間に在ったか否かは別の問題である。一般の人々の趣向に附いては、琵琶法師による平曲を考えてみなければならないであろう。

道行きの原型であると言われる鎌倉期の平曲「海道下り」はどうか。そこでは主人公の平重衡に対してクローズアップされた描写は行なわれない。それより瀬田の唐橋や比良の山が、己の運命を知らぬ者は重衡よ、お前一人であるぞと告げる如くに彼を眺め遣り、見下ろしている。その全体の空気を描いている。そう考えると、上方好みの人間描写の成立は南北朝から桃山の間に求められるのではないか。

しかし残念ながら私の浅学は、その決定的な成立点を発見できないで居る。ただその間の戦乱に明け暮れた時代と、明日をも知れぬ暮しを生きた上方の人々を考える。応仁の乱から大阪冬の陣、夏の陣と戦火に晒され続けた上方の人々の、道端に転がる焼けた屍骸をじっと見詰める眼差しが、克明な、そして一種残酷な人間中心主義となって心の底流に流れていたであろうことを考える。そんな時に人々は「狂え唯、遊べ唯、浮世は不定の身じやまで⋯」と唄ったそうであるが、真偽のほどは判らない。

by hishikai | 2008-03-21 12:06 | 文化