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2008年 03月 24日
日本庭園の好み
e0130549_1622694.jpg日本庭園の第一は何処かと問われて龍安寺石庭の名を挙げる方は多いと思う。かつて志賀直哉は『龍安寺の庭』という短い一文で、この庭を次のように評している。

自分は桂離宮の庭が遠州の長篇傑作であるとすれば、これはそれ以上に立派な短篇傑作であると思う。これ程に張り切った感じの強い、広々とした庭を自分は知らない。然しこれは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りにも厳格すぎる。しかも吾々の精神はそれを眺める事によって不思議な歓喜勇躍を感ずる。(龍安寺の庭/志賀直哉)

私も以前この庭の短篇傑作の妙に与らんと意気込んで拝観したのだが、率直なところ私の如き凡夫にこれを理解するのは無理だと悟った。有り体に言えば挫折したのである。

砂紋をめぐらせた白砂に左から五・二・三・二・三と配列される十五の石は見方によって、大海に浮かぶ孤島であったり何かそれ以上に精神の抽象であるかと思えるのだが、俗を離れて厳しいこれらの造形を濡れ縁から観ただけで把握するのは相応の緊張の持続を強いられる。

にも拘らず私の怠惰な心は正面の油土塀の様子の良さと、そこに乗る檜皮の色の柔らかさ、向うに広がる洛西の鮮やかな緑との美しい対比に視線を向けてしまうため終止緊張は弛緩し、ついに精神が歓喜勇躍するということはなかった。

だが大体が庭なのであるから小難しく考える必要はないのである。『都林泉名所図絵』という江戸期の京都名園案内書には、四人の拝観者が白砂に降りて僧の案内を聞いている図が示してあるが、必ず彼らの内一人ぐらいは石に歩み寄り、ぺたんと手で石を叩きながら「結構な風情でござる」などと言っているに決まっているのである。夢想国師も「山水に得失なし。得失は人の心にあり」と仰っているではないか。己の心の事と割り切って気楽に見れば良いのだ。

と言い訳したところで、私は毛越寺の庭が好きです。とはいえ実際に行ったことはないのだが、本をペラペラと捲っている時など、その中に毛越寺の庭の写真を発見すると決まって手を止め見入ってしまう。なだらかな山を背景として、鏡のように広がる大泉池。それをゆるやかに縁取る州浜。池中のやや傾いた烏帽子のような立石の黒く水面に姿を映して揺れる有様。

造営の頃は中尊寺をしのぐ華麗な伽藍が立ち並んでいたそうであるが、今は戦乱で消失し何一つ残っていない。しかしそれが却って廃園の美を誘い、この庭にとって人慮成らざる幸せであるとさえ思える。遠い平安の往時には、このような園池で盛装の貴人が龍頭鷁首の船を浮かべて弦歌の贅を尽くしたかと想うと、私は胸を掻きむしりながら狭い部屋の中を転げ回るのである。

by hishikai | 2008-03-24 16:22 | 文化