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2008年 03月 26日
近代の文章
e0130549_2331449.jpg私は古典を読むことができない。もちろん先ずもって昔の字を読むことができないという問題はあるが、そこのところを全て活字に直したとしても、やはり読めない。だけど、はい、と源氏物語か何かを手渡されて、すらすらと読み下し、これは面白うございますなどと言えるのは学者のような専門家だけだ。

教育テレビの古典の朗読を聞いても酷いときには一言半句も解らないことさえある。こういうことが外国であるのかどうか、例えば現代のイギリス人がシェークスピアをどの程度理解するのか、ということは英語に通じていない私には知る由もないのだが、どうも私達日本人程には酷くないのではないか。

もっともこのような読解の断絶は、明治日本が性急な西欧化を推し進めなければならなかった、そこに国運が掛かっていたという事情によるもので、残念ではあるが仕方がない。その結果として明治の中頃から昭和十年頃までの時間をかけて、人称代名詞や時制の一致という英文法の影響下に口語体が成立してゆく。

だがこの口語体には明治大正の文語体が持っていた格調がない。そういうことの背景には西欧化による社会の変化、関東大震災や世界恐慌といったことがあるのだが、ともかくもこのような事態を憂慮して書かれたのが谷崎潤一郎の『文章読本』であるらしい。そこで彼は簡素な国文の形式に復れと訴える。

しかし丸谷才一は『小説家と日本語』という文章で、谷崎潤一郎が『文章読本』で「文法に囚われるな」と強調するとき、谷崎自身はそれを国文法の意味に言っているが、実のところそれは英文法のことであると指摘して『文章読本』の「文法」という言葉を「英文法」に置き換えてみるという実験を行なっている。

斯様に申しましても、私は(英文法)の必要を全然否定するのではありません。初学者に取っては、一応日本文を西洋流に組立てた方が覚え易いと云ふのであったら、それも一時の便法として己むを得ないでありませう。ですが、そんな風にして、曲がりなりにも文章が書けるやうになりましたならば、今度は余り(英文法)のことを考へずに、(英文法)のために措かれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国文の持つ簡素な形式に還元するやうに心がけるのが、名文を書く秘訣の一つなのであります。(小説家と日本語/丸谷才一)

こうすると意味がすっきりと通る。確かに谷崎のいう文法とは英文法のことであるようだ。谷崎潤一郎といえども英文法の束縛を脱し得ないというのは傷ましい。だが口語体を全くの和文脈へ戻してしまっては、その文章は伝達の用を為さない。だから如何に日本的な小説であろうとも、文章は英文法を骨格としなければならず、その現実は谷崎自身も自覚していたであろう。ただ日本的な情緒を伝えようとする程、却って日本的な伝達方法から離れざるを得ないというディレンマはあっただろうが。

by hishikai | 2008-03-26 23:44 | 文学