2008年 05月 08日 ( 1 )

2008年 05月 08日
保守主義と自由主義
e0130549_2403757.jpg保守主義と自由主義は「人間理性への不信」に立脚した思想である。社会の複雑は人間の知的能力を超えている、従って現実から隔絶された抽象理論で社会をコントロールすることは不可能であるばかりか有害だと考える点でこの二つの思想は共通する。これらは国制及び経済の分野における経験主義の一形態である。

保守主義は「人間理性への不信」ゆえに、国制の原則は時間の試練に耐え、それゆえに多くの世代の承認を得たと認められる伝統的価値観でなければならず、一つの世代の反省や激情から過去の一切を旧弊と決めつけて全てを新しくやり直そうとする態度を、人間理性の傲慢と考えてこれに反対する。

自由主義は「人間理性への不信」ゆえに、経済の原則は人類が長年に渡り交易を通じて獲得してきた自由市場経済でなければならず、一つの世代の反省や激情から自由市場経済を非人道的な誤りと決めつけて、その運営を人間の考案による富の分配や計画に委ねようとする態度を、人間理性の傲慢と考えてこれに反対する。

この二つの主張を我国の現状にあてはめた場合、保守主義の立場からは、その前文に自国の存立を他国の正義に委ねるが如き自嘲的表現を擁し、国の成り立ちや国柄の一切を排除する現行憲法は過った国制の原則であり、自由主義の立場からは、福祉国家や格差解消のかけ声の下で行なわれる富の再分配政策は、人為的な計画経済に傾斜する過った経済の原則であると捉えられる。

一方で両者の対立点は国家観である。保守主義が国家を生成化育する共同体或いは有機体であると考えるのに対し、自由主義は国家を法執行を通して浮かび上がる強制の機構であると考える。この相違は保守主義が国家を考える時に先ず最初に国家の存在を念頭に置き、やがて社会から個人へと、その思考を全体から部分へと展開してゆくのに対し、自由主義が国家を考える時には、先ず個人を念頭に置き、やがて社会から国家へと、その思考を部分から全体へと展開させるためである。

保守主義と自由主義は経験主義的な思考で共通し、同時に国家観で対立する。しかしながら我国の場合、両者が自らの思想的立場を上述したような「人間理性への不信に立脚した経験主義」と明確に認識しているかといえば、昨今の小泉改革を巡る両者の議論を引き合いに出すまでもなく大いに疑問である。

私見を述べれば、この点に関する限り誤謬は保守主義者を自認する人々の側にある。我国の保守主義者はその農業政策、福祉政策、経済政策の何れを取上げても、つとに社会民主主義的な思考が強く、この事は我国の保守主義が、英国に端を発しR・フッカーからE・バークを経て受け継がれてきたConservatismとは異なる思想であるという現実を私達に教えている。

つまり本来であれば保守主義と自由主義は国家観で対立しながらも、その基底部に於いては経験主義的な思考で共通しているのであるから、この事を我国の事情に当てはめるならば、何よりも先ず戦後思想一般に共通する歴史的経験の蓄積に対する軽視と人間理性への過度の信頼、それに基づく福祉政策に代表される富の再分配政策という人為的な設計主義を批判すべきところを、保守主義の側から提出されるのはあいも変わらぬ「市場原理主義」「弱肉強食」というステレオタイプな自由主義への批判があるのみである。

これは我国の保守主義が、戦前の日本主義の一変形態に過ぎず、常に先の敗戦を起点とする反米感情を思考の軸にしているためで(自由主義が米国の思想であるというのも全くの誤謬であるが)これでは両者が戦後体制に対して、経験主義を共通項とした思想的な共同戦線を張るということは期待できない。仮に我国が本当に戦後体制からの脱却を目指すのであれば、真に為されるべきは、戦後体制とは何かという事を思想的側面から考究した上で、その打破のためにはどのような理論展開が有効であるかを、保守主義者自身が戦略的な見地から考え直す事である。

by hishikai | 2008-05-08 02:51 | 憲法・政治哲学