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2008年 05月 31日
『蜘蛛の糸』
e0130549_1230295.jpg『蜘蛛の糸』は児童文学である。作品の出自から言えばそれも誤りではない。1918年7月、児童雑誌『赤い鳥』の創刊号に発表され、主幹の鈴木三重吉が「芥川が世間で持て囃されるのは当り前だ。まるで他の奴等とはモノが違ふ。(赤い鳥)始まって以来、こんな傑作を書いた奴は一人もゐやしない」と評価するこの作品は、しかしその位置付け故に、後世その読み方にある方向付けを余儀なくされる。

1937年、『国語解釈』(龍之介の『蜘蛛の糸』について)は次のように言う。「カンダタの様に無慈悲な利己主義を出した男は、やはり無限地獄に落ちること、強ひて教訓的に敷衍すれば、人間は自分の運命に甘えて高上りになつてはいけないということ等の意味が象徴されてゐると見るべきである」

エゴイズム。この読み方は戦後も変わらない。1962年の学校図書版『教師用指導書』は作品の主題を「お釈迦様の慈悲をもっても救い出せなかったカンダタの利己心」と画定し、1992年の大阪書籍版『小学道徳生きる力 6年』は作品を通じて「思慮深く節度ある生活をしようとする気持を育てる」ことを薦める。

『蜘蛛の糸』は三つの章から成り、一章はお釈迦様が極楽より蜘蛛の糸を垂らすまで、二章はカンダタが糸を上り落ちるまで、三章はカンダタの落下を視たお釈迦様が再び歩き出すまでを描く。エゴイズムを軸に読むならばこの作品は二章で結実する。その為か東京書籍と大阪書籍の副読本では三章が削除されている。

こうした読み方は、お釈迦様の問いにカンダタが応答しなかった浅ましさに教訓の果実を収穫しようとするものだが、読み方を変えることで、お釈迦様とカンダタという二つの存在の、この問いを介して互いの光と影を照らし深めるその経緯の中に、問い問われる両者の絶望と不信の果実を収穫することもできる。

ある者が他者のエゴイズムを悲しみ、なお自らのエゴイズムを棚に上げるという欺瞞を回避しようとするならば、その者は超越者であるより他にはない。その時に超越者は善悪をも超えるだろうが、しかし人が知るのは善悪である。善悪の彼岸にある者の問いに、善悪の手前にある者は何を頼みとして答えるのか。

手許で切れた糸を握りしめてカンダタはくるくる回りながら落ちていく。そうしながらカンダタは罪人達に「下りろ」と叫んだことを悔いるだろうか。いや、あの罪人達さえ問いが見せた幻だったのかも知れない。そうだとしたらカンダタは叫んだことを悔いるのではなく、人間に生まれてきたことを悔いるのではないか。

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by hishikai | 2008-05-31 12:51 | 文学