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2008年 06月 26日
らしからぬもの
e0130549_617452.jpg私が幼い頃の大人達は何かというと戦争中の思い出話しをしていた。そこでは偶々近くに落下してきたアメリカ軍の物資を開けてみたらコーヒーが入っていたとか、アメリカ軍のパイロットは撃墜されたら海の上でフィッシングをしながら味方の救出を待つのだというようなことがまことしやかに語られていた。

幼かった私はそれらの話を聞くたびに、塹壕の中でよれよれの軍服を着た祖父や、疎開先でグラマンの機銃掃射に追い回された父の姿を想像して、そこに居合わせなかった自分を何か不甲斐ない者のように思った。そして気が付けば、大人達の話はいつでも「それじゃあ勝てっこない」の決り文句で大円団となった。

今振り返ると、この話はいつも日本軍と連合軍の圧倒的な物量の差を引き合いに出して、だから「勝てっこない」という仕組みになっていたようだが、それでも「勝てっこない」という大人達の決り文句には、物量の差だけでは言い尽くされない、その時代を生きた当事者達としてのもう一層下の心理もあったように思う。

例えば泉鏡花の『凱旋祭』という小説を引いてみる。これは日清戦勝に酔う人々を批判的に描写した作品だが、ここにあるのは全てを「力」へと換算する西欧的世界観の居心地の悪さと、それに提灯行列やグロテスクな観世物で迎合する大衆、その日本人「らしからぬもの」に対する鏡花の嫌悪である。

この感情が独り鏡花だけにあるのではなく、大衆一般の心にも眠っていたであろうことは想像に難くない。しかしこれを明確に認識し得たのは鏡花が世馴れぬ耽美主義者だったからで、普通の人々にしてみれば、居心地の悪さを意識の表面に上らせることは、インドや中国と同じ運命を自らに引き寄せてしまうに等しいことだった。

日本人にとっての近代とは、そういう心の働かせ方のことだったから、日本人は日清日露を日本人「らしからぬもの」となって戦ってきた。ところが大東亜戦争の相手はどうだ。密林にコーヒーを持込み、撃墜されてフィッシングをやる。彼らは彼らのままで戦っている。それは「らしいもの」と「らしからぬもの」の戦いだった。

その光景に日本人はアジアにとっての近代を見た。「らしからぬもの」に成り切ってこそ達成されると信じてきた近代という難事業は、実は「らしからぬもの」に成り切ってしまうような人間達には達成し得ない難事業だった。変装者に近代の所有権が譲渡されることは永遠にない。そう宣言されたのも同じだった。その戸惑いが当時の大人達をして「それじゃあ勝てっこない」と言わせたのだ。

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by hishikai | 2008-06-26 06:23 | 文化