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2008年 07月 15日
棄聖と通人と私達
e0130549_1114496.jpg井原西鶴に『人には棒振りむし同前におもはれ』という短篇がある。現代人はこれを読むとき、一種異様の感触に襲われるであろう。主人公の利三衛門が自らの零落した姿を全く恥じないこと。なけなしの金で旧友をもてなそうとすること。旧友の金銭的援助をあくまでも拒絶すること。極貧生活を苦境と感じていないこと。

人が理解の範疇を逸脱するものに対して肯定的評価を与えることはまず無い。だからこの利三衛門に対しても、痩せ我慢、意地っ張りなどという否定的な評価を与えることは容易である。まして彼に妻子があり、その扶養義務を論ずる人であれば、利三衛門に最悪のエゴイストの姿を見い出すかも知れない。

しかし澁澤龍彦は全く別の見方に立って利三衛門を次のように評している。「旧友のお情けを受けたくないというのも、やせがまんや意地ではなくて、むしろ現在のささやかな幸福を他人に乱されたくないという、独立自尊の気持からのことでしょう。こういう境地に達するのが、つまり、遊びつくした通人の、最後の理想だったわけです」(快楽主義の哲学)

唐木順三は更に透徹して利三衛門に棄聖(すてひじり)の伝統を見ている。棄聖とは持てるもの一切を棄て尽くし、あたかも乞食の姿となり各地を遊行して浄土の理想を求める人である。例えば一遍上人があり、古くは『今昔物語』に先例がある。唐木は通人の理想にはその底流として、棄聖の伝統が流れているという。

ここまで来ると現代の私達の理解を超えている。しかし通人の理想にせよ、棄聖の伝統にせよ、それが人間評価と社会的評価とを別個に見る考え方であるのに対して、私達の普通の思考というものが、人間評価と社会的評価とを一体に見る考え方であることには注目すべきだろう。

なぜなら一個の人間に対する評価を、あるいは自己に対する評価を地位や経歴といった社会的評価と固く結びつけて行うことが今や私達の普通の思考となっていることが、一方で人間を個別的絶対的な存在から、社会により相対的に発見されるゲシュタルト、社会の影絵へと転落させることをも普通としているからだ。

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by hishikai | 2008-07-15 10:51 | 日常