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2008年 07月 28日
渥美勝
e0130549_10445354.jpg渥美勝は明治十年(1877)滋賀県彦根町に生まれている。父は彦根藩士、母は伊井家の分家木俣家の出身、家は代々の武術師範である。彦根中学を卒業後、第一高等学校に入学。先輩に柳田国男、後輩に広田弘毅がいる。明治三十三年(1900)京都帝国大学法科に入学も中途退学。大阪で鉄工所工員となる。

大正二年(1913)東京神田の広瀬中佐銅像前に立ち、毎日のように街頭演説を始める。「桃太郎」と大書した旗のもと、日本神話にもとづく日本人の使命観と生命観を説く。「真の維新を断行して、高天原を地上に建設せよ」と結ぶのが常である。汚れた絣の着物に小倉袴をつけ、腰に手拭いをぶら下げている。職業は土工、人力車夫、映画館の中売、夜回り、下足番。住所は不定。

渥美の数少ない著作の一つに、故郷の白痴を描く『阿呆吉』という回想文がある。町の皆から阿呆吉と呼ばれる吉つあんは、道にある石ころや瓦片を黙々と道傍の溝に蹴落とす。何故そうするかと問えば「人が躓くと悪いからなあ」と答える。

渥美は言う。「耶蘇が高聲に説明しつつ行なつた事を吉つあんは黙つて行つて退けた」イエスと呼ばれる神の子も、その生涯に行なうことは唯一つ、人の道からその躓きになる瓦礫を取り除くことだと考える渥美は、吉つあんにキリストを、そして原罪からの救いよりも先に、至純な魂で国を修理固成(つくりかためなす)ことを命ずる神の愛児を見る。やがて吉つあんは飢え死にする。

「吉つあんは死んだのだ、その十字架は流血でなくて虚血であつた。虚華で無くて質実であつた。而して沈々黙々の裡に死んで仕舞つた。彼れを生むだマリアは誰だらう、はた又彼れの足にナルドの香油を塗りたるマグダラのマリアは彼れに在つたかどうか、そもそも又、彼れ逝いて後、彼に対するペテロ、ヨハネは有りや無しや、是れも誰れも知る者もない」

昭和三年(1928)渥美勝は急逝した。同年十二月九日、日本青年館で葬儀執行。葬儀委員長は頭山満、委員は永田秀次郎、丸山鶴吉、大川周明、赤池濃ら三十余名。参会者二百余名。そのとき渥美の手帳には「一食、一衣、一室を賜いて故旧友人に、改めて申訳なかりし罪を謝す」と書き遺されてあった。

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by hishikai | 2008-07-28 11:19 | 昭和維新