2008年 08月 19日 ( 1 )

2008年 08月 19日
磯部浅一
e0130549_0452234.jpg明治三十八年四月一日、磯部浅一は山口県大津郡菱海村大字河原に農家の三男として生まれた。父の仁三郎は左官だったが寒村に仕事はなく、出稼ぎに出たまま家に帰ることは希であった。兄達は村を離れ油谷港で働き、母のハツは二反ほどの畑を耕し、収穫した野菜を塩田の飯場に売って生計を立てていた。

こうした家庭であったので、浅一も小学校から帰ると母と共に畑で働き、飯場へ野菜を売りに行った。背が高く頑丈な体つきで、学業はいつも首席であった。あるとき知事の養子を求める布令が近郷に回って、浅一もどうかと話があったが二者択一の選に落ちた。村の者は「あまりに貧乏な家の子だから」と思った。

やがて浅一は山口の松岡喜二郎という県職員の家に貰われて行った。浅一は予てより軍人になりたいと思っていたし、松岡は家から是非とも軍人を一人出したいと思っていた。夕食を終えると決まって松岡は浅一の部屋に来て、吉田松陰や久坂玄瑞の話を聞かせた。謹厳実直な長州人だったが、浅一には優しかった。

大正八年五月一日、浅一は広島陸軍幼年学校へ入学した。松岡の喜びはひとしおであった。学校の休暇には松岡家で一泊し、翌日山陰本線の滝部で汽車を降り、人の通わない山道を歩いて菱海村へ帰るのが浅一の常であった。貧乏人の小倅が将校生徒では世間が許さなかった。実家に着くと野良着に着替えて母を手伝った。

昭和十二年八月十九日、浅一は陸軍衛戍刑務所処刑場の銃殺用刑架に、頭部と両腕を縛られて正座している。十メートル先の銃架に二丁の歩兵銃がこちらに向けて固定され、各々に一名の射手が配置されている。指揮官が手の合図で発射を号令する。浅一の前額部から鮮血が吹き上がる。罪名は叛乱罪。三十二年の生涯である。

「余は云わん 全日本の窮乏国民は神に祈れ 而して自ら神たれ 神となりて天命をうけよ 天命を奉じて暴動と化せ、武器は暴動なり殺人なり放火なり 戦場は金殿玉楼の立ちならぶ特権者の住宅地なり 愛国的大日本国民は天命を奉じて道徳的大虐殺を敢行せよ 然らずんば日本は遂ひに救はれざるべし」(二・二六事件獄中手記・遺書/磯部浅一)

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by hishikai | 2008-08-19 01:07 | 昭和維新