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2008年 09月 04日
福田康夫氏
e0130549_230073.jpg古代ギリシャの都市国家には二つの空間があったという。ひとつは人間の多様性を前提とし、言葉と討論により価値を創り出して政治を司る公共の世界。もうひとつは人間の共通性を前提とし、個の生存と種の保存を目的として生活を司る家政の世界。

福田康夫氏は施政方針演説で基本方針の第一を「生活者・消費者が主役となる社会を実現する国民本位の行財政への転換」と言い、自身の改造内閣を「安心実現内閣」と言い、新しく設置する役所が「消費者庁」で、基本理念が「自立と共生」であった。生活者⋯。消費者⋯。安心⋯。共生⋯。

これら全ては家政の言葉、人間の共通性を前提とした生活の言葉だ。現代は古代ギリシャではないから、家政など政治の範疇に含まれないとは言えないだろうが、やはり政治が第一に標榜すべきは外交・防衛・予算といった公共の世界に関与する言葉だ。家政の世界に関与する言葉を第一に標榜する政治は本来の姿ではない。

病院の前で「医療費が心配⋯」とか、スーパーマーケットで「バターが高い⋯」とか、回転寿司屋で「トロが食べられないとねえ⋯」などとマスコミのインタビューに答えている連中が国民共通の姿を表しているわけではない。年寄りはくだらないバス旅行をやめればよろしい、主婦はバターなど太るから使わんでよろしい、トロなんか食う奴は田舎者だ。

政治家は政策本位であるべきと言われて久しい。だが政策の淵源には必ず思想がある。思想は表明されて始めて存在する。表明されない思想は存在しない。これは言葉への信の問題、言葉の持つ力をどれほど信頼するのかということへの表明でもある。これがなければ公共を作り出すことは出来ない。

福田康夫氏は以前より著作で思想信条を語らない、言葉へのニヒリストだった。この事は福田氏が公共の人ではなく家政の人、討論の人ではなく台所の人、オジサンではなくオバサンである事を示している。福田氏が家政へと流れた本質的な原因は、福田氏と言葉の関係だ。官房長官の頃はよかったのに⋯という声も聞くが、官房長官が総理の女房役とは偶然の一致ではない。後任者には明快な雄弁を期待したい。

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by hishikai | 2008-09-04 03:03 | 憲法・政治哲学