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2008年 12月 05日
中世欧州に於ける詩的文芸の果実
e0130549_12472140.jpg中世欧州、とりわけ十二世紀は後の豊かな欧州の基礎となった。幾つもの大学が設立され、審美的な趣味が大聖堂やフレスコ絵画と多声音楽に発揮された。熱心な教育が洗練された文芸を生み出して浪漫と武勲を語った。中でも吟遊詩人はラテン語の代わりに自国の言葉をその表現に用いて先駆的だった。

最初の吟遊詩人は十字軍あがりの美食家、アキテーヌ公ギョーム九世。彼は自らの筆を詩に染めるだけではなく、多くの詩人と共に暮した。彼の孫娘エレオノールも、夫のフランス王ルイ七世と共に十字軍に参加したが、そのときルイ七世が幾万もの騎士を従えていたのに対し、エレオノールは多くの吟遊詩人を連れていた。

彼女の愛する吟遊詩人とその芸術がドーバー海峡を渡ったのは、彼女が伯父のレイモンやサラセン人の奴隷と浮名を流した華々しい十字軍遠征から帰国した後、ルイ七世との教会離婚を成し遂げてブランタジネット家のヘンリーと結婚し、そのヘンリーがイングランド王ヘンリー二世となった御代のことだった。

彼女のこうした公私にわたる欧州文芸への貢献は、やがて多くの貴婦人達の心に宮廷風恋愛への憧憬という果実を結んだ。それは野蛮で封建的な騎士の妻という立場に甘んじ、これに憤慨していた彼女達の必然の声だった。それが吟遊詩人により各地へ伝えられると、夫達の作法は洗練され、彼女達の地位は著しく向上した。

宮廷風恋愛とは騎士と彼が選んだ貴婦人との恋愛を賛美したもので、この場合の貴婦人とは妻以外の女性を意味した。その掟は恋人達が戯れあう形式ばった庭園のように念の入ったもので、それによると浪漫的な騎士は陽気で、熱烈で、秘めごとを洩らさず、慇懃でなければならなかった。

そしてリヒテンシュタインの騎士ウルリッヒが意中の貴婦人と言葉を交わすまでに十年間も求愛し続けたように、貴婦人がどれほど長く好意を見せなくとも、彼は落胆することなく求愛しなくてはならなかった。そのような彼女達の手鏡の裏には大概、愛の天使が矢を放って地上の男を仕留める様子が象牙に彫られていた。

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by hishikai | 2008-12-05 13:22 | 文化