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2009年 02月 06日
平野謙『永井荷風』より
e0130549_0464738.jpg墨東綺譚』については早く佐藤春夫の解題がある。私は昔から文学翫賞家としての佐藤春夫を信頼している。(中略)しかし、佐藤がこのような解説をさらに一般化し、『墨東綺譚』一篇を目して、文学の大道をゆくヒューマニズムのそれとするとき、私は到底その立言をうべなうことができない。(中略)

売笑は堕落でなく、一家の主婦として懶婦、悍婦となることこそ堕落とする荷風固有の倫理観そのものも、私は普遍性を持たぬ固陋の観念にすぎぬと思うものだが、いましばらくそのことは措くとして、そもそもお雪は「所謂良家に主婦たる」ことを希ったのであろうか。荷風も春夫も、そのみやすい一点にかぎって一種の盲点に陥っている。

作者のくりかえすように、大江匡とお雪とはその本名も生い立ちも知らずにはかなく生別したものである。すなわち、お雪は大江を目して、最後まで「淫猥の書画を商う者」と誤認しており、そのような日蔭ものの中年男なればこそ、「おかみさんにしてくれない」と囁く気にもなったのである。

そのお雪は、大江がすでに六十歳に手の届く老人であることさえ、弁えていない。秘密の出版にしたがうような日蔭ものであれば、と思いたったお雪のいじらしい自卑と謙抑の心根をも汲みとらずしてなんのヒューマニズムぞ。

ここに佐藤春夫の盲点があり、『墨東綺譚』全篇の盲点がある。「おかみさんにしてくれない」とさえいえば、懶婦か悍婦たらんと希うものと誤認する根性は、小金持の若旦那が人さえ寄ってくれば金をひきだす算段かと邪推するのと一般ではないか。(中略)

『墨東綺譚』一篇は決してヒューマニズムの文学などと呼ばわるべきものではない。(中略)作者の描きたかったのは、すでに老境にはいったひとりの男が、はからずも娼婦から愛情告白をささやかれる情景に他ならなかった。紙の上でもう一度丹次郎になってみたかったのだ。(永井荷風/平野謙)

※丹次郎 為永春水による人情本『春色梅児誉美』に登場する唐琴屋の丹次郎のこと。

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by hishikai | 2009-02-06 00:48 | 文学