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2009年 04月 06日
近代史の読み方
e0130549_2229520.jpg明治大正の人々をして徳川期は封建的だと言わしめたように、前代の価値を否定して当代を正当化することは一個の手段としてはあってもよい。しかし私達の生活する戦後日本という時代の異常は、それを手段に用いるという以上に、その思想と体制の存在意義の全てを前代の否定の上に立脚させている点にある。

したがってマスメディアや言論界が人間の自然の情動として近年進みつつある前代の再評価、即ち明治維新から敗戦までの歴史への再評価という動きを、躍起になって潰そうとするのは時代で糊口をしのぐ者の反応としては当然であろうが、それでも異常なものは異常として戦後日本はいずれ精算されるべきだと私は思う。

そのとき直接の争点となるのは大東亜戦争の敗戦と、時代がそこへ流れ込んでゆく過程をどう考え、どう評価するのかということで、この道のりで最初の分岐点となるのは、時代の運動の原動力を一部為政者の政策に求めてゆくのか、あるいはそれを当時生きていた人々全体の思潮に求めてゆくのかということであろう。

この点で戦後は前者の方法、つまり時代の運動の原動力を一部為政者の政策に求めることが専らで、したがって論者が戦前の歴史に肯定的な立場であれ否定的な立場であれ、その思考の営為は常に一部為政者と一部軍人に対する人物評価に終始し、ここに時代に翻弄される無辜の大衆を対置するという構図を描いてきた。

だが国民国家の歴史を観察するならば、為政者の政治生命存続の是非は如何に大衆の意思を明敏に察知するかにかかっており、また彼等の政策決定の要諦もその延長線上にあるのが実際で、そもそもナショナリズムの源泉が為政者の脳裏にあるのか、大衆の脳裏にあるのかを考えれば、これまでの方法の欠陥は明らかである。

したがって今後大東亜戦争の敗戦とその前史を探るにあたっては、当時生きていた人々の思潮の分析に多くの労力を費やすべきであろう。そのとき有用な資料となるのは大衆の嗜好を反映して生き残ってきた文学作品と多くの著作物で、これに対する検討が戦前の歴史の実相を照らし出す大きな手掛かりになると私は思う。

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by hishikai | 2009-04-06 22:31 | 憲法・政治哲学