2009年 04月 17日 ( 1 )

2009年 04月 17日
洲崎
e0130549_113585.jpgいくら泣いても喚いても、町を離れた洲崎の土手。昼でもあるか更ける夜に、往来希な雨上がり。湿りがちなる汐風に、途切れた雲の星明かり、微かに聞こえる弁天の、茶屋の端歌や中木場の、木遣りの声を寝耳に聞き、いなごやばったと割り床に、露の情けの草枕。お主としっぽり濡れる気だ。どうで汚れた上からは、ここで器用に抱かれて寝やれ。(網模様燈籠菊桐/河竹黙阿弥)

歌舞伎狂言『網模様燈籠菊桐』の一場面。稲妻走る洲崎土手、小猿七之助が奥女中滝川を手込めにしようと吐く台詞。洲崎は江戸の昔から、春は潮干狩り、秋は月見で賑わう行楽の地であったが、同時に江戸南端の淋しい海浜の地でもあった。その明暗深い洲崎の原風景と後の歴史への予感を、この台詞は見事に描き切っている。

明治21年、吉原と並び隆盛を誇った根津遊廓が、近隣の帝大生への風紀よろしからずという理由で、──帝大生諸君の無念もよそに──新しい洲崎の埋立て地へと移されたことが洲崎遊廓の始めとなった。東京湾を向うに芝、品川の灯を望む夜景には独特の情趣があったという。広津柳浪は『浅瀬の浪』にこう書いた。

遥かに見ゆる芝浦の料理店には酒客の灯火低く、高きは愛宕の塔か。一点、又一点白金台より伊皿子台に連なり、千点集まる処は品川の青楼か。(中略)点々尽る辺三四高く掛つて星かとも見ゆるは、夜泊夢は穏やかなる帝国の軍艦であつて、その四半時毎に夜を警むる鐘の音は、人をして不覚に無限の感を惹かしむる。(浅瀬の浪/広津柳浪)

柳家三亀松は深川に生まれ、若くして洲崎に遊んだ。その芸歴の始めに新内流しだった頃、彼は此処で三味線を弾き歩いていた。「新内さん」と二階から女の声。「へい」と流しが答える。「蘭蝶をお願いしますよ」「ありがとう存じます」⋯。明治に妓楼160軒で娼妓1700人、大正に妓楼270軒で娼妓2000人を数えた。

日本が降伏した時、洲崎は焼け野原だった。復興後は半分がバラック住宅になり、遊廓は特殊飲食店と名を改めて「洲崎パラダイス」のネオンを灯した。そして昭和33年、売春防止法が施行され、洲崎遊廓は70年の歴史を閉じた。更正寮で女性達の一日の食費は61円66銭、東京都の野良犬勾留所で犬の餌代は79円55銭だった。

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by hishikai | 2009-04-17 11:17 | 文化