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2009年 05月 23日
公共のある生活
e0130549_13291566.jpg私達はいつでも「生活」のことを考えている。収入、医療、貯金、家事、育児などなど。現在では政治もそのためにあるようなもので、だから政治家は道路の建設や補助金の分配に日夜走り回っている。私達はそういう彼らの姿を眉をひそめるような気持で見ているが、それというのも元を糾せば私達の要求がそうさせている。

しかし、いつでも「生活」のことを考えている、ということは国政全般に対しても生活の側から眺めるに過ぎないのだから、やはり国家なり社会なり秩序の中に生きる人間の態度としては欠陥がある。実際に過去の全体主義体制が問題にしたのは、いつでも生活のことで、それで人々の支持を集めておいて反対者を殺した。

だからそうしたことが嫌ならば、私達はたとえ聖書の原義と違っていても「人はパンのみに生くるにあらず」と言わなければならない。自分達の生活の他にも大切なことがある、そう考えなければならない。それはグルメな料理とも、カワイイ服とも全然関係がない。人は時に生活を捨てる覚悟をしなければならない。

そこに「公共」という観念がある。生活が本能に根差すならば、公共は名誉に根差す。確かに私達が学校で教わったのは、名誉ある公共なんて嘘だ、そうしてみんな戦争に引っ張られたんだ、ということだった。しかしナチス政権や共産党政権の台頭に、生活から考える態度が無効だったことは歴史が教えている。

例えば今日よく言われる「生活者重視」という気持の持ち方は、ひとたび安定した生活を約束されてしまえば、その後は真実を見ようとする力を失う。そうではなく「私達は腹が空いてもかまわない。あの人達を殺してはいけない。それは私達の『名誉』が許さない」そう言えなければ、政治の悲劇を防ぐことはできない。

ここで名誉を言うのは、その発言に勇気がいるからで、勇気は金銭や食物という「生活」の産物とは交換できないからだ。そういう気持の持ち方を、H・アレントは建国期のアメリカを例に引いて「卓越への情熱」と呼び、その情熱が目指すのは公的幸福(public happiness)だと言っている。

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by hishikai | 2009-05-23 13:32 | 憲法・政治哲学