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2009年 09月 23日
美しい文体
e0130549_12105970.jpg私は文章を読むより、文体の愛玩を好む。自分の意に叶わぬ文章でも文体が美しければ二度も三度も読み返すことがあり、また内容の立派な文章でも文体が気に入らねば、すぐに放り出してしまう。そういうわけで、内容についての記憶は希薄であるから困る。

近頃愛玩した文体では幸田文のものが美しく、芯のある語り口を基調としながら、それでいて女性らしいふわりとした柔らかさが表面を覆い、そのことで頼もしい色気といったものが漂う。あたかも年増の装う銀鼠の鮫小紋といった風情がある。引用する。

夕立。暗くなったとみるまに、ぽつりとくる。あとは早い。どおっと降る。たちまち往来に人がいなくなって、雨と雨の音だけになる。いきなり光って、鳴る。こうなってはおそれおおくて、御通過を待つ間しばしは、縮んでいるよりほかない。だが、むしむししてかなわない。二階から雨戸を細目に、みていた。雨はまだ白くしぶいて大降りだし、道は川になって流れている。蛇の目のひとが、たった一人でくる。顔は傘でみえないが、まだ若い。紺地に白く竹を抜いた、大模様の浴衣だからである。片手で裾をからげあげ、下着の水色が急ぎ足にからむ。その足、つま皮をかけない男ものの下駄をはいていた。男ものの下駄を──法界悋気のおきるほど、その男下駄にいろけがみえた。(幸田文/『ゆうだち』)

句点の使い方が絶妙で、短く切られた文節が演劇的でさえある。「雨戸を細目に、みていた」と、突然現れる過去形から一転して続く現在形は視覚をズームアップし、これが再び「男ものの下駄をはいていた」の過去形で二階の小暗い部屋に引き取られる。実に巧い。

佐藤春夫は日本語の文体を省略や飛躍を生命とするために、読者と作者による協力的進捗と心読を要求する貴族的なものだと云ったが、してみると三島由紀夫などは独りで喋り過ぎるし、谷崎潤一郎は名人芸が過ぎて恐れ入る。そこへいくと幸田文は加減を心得ている。

名所江戸百景『大はしあたけの夕立』歌川広重 19世紀

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by hishikai | 2009-09-23 12:01 | 文学