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2010年 06月 14日
福永恭助『新帝都のスタイル』
e0130549_10593116.jpg関東大震災で壊滅した東京をどのような姿に復興すべきか。この問題について言及したC.ビアード『東京復興に関する意見』に対し、小説家の福永恭助は大正十三年(1924)の『中央公論』二月号に『新帝都のスタイル』という一文を載せて、次のように反論している。

「一番先に考へるべきことは新日本の精神とは如何がといふことだ。(中略)我尊敬すべきビアード博士が、たとへ日本の風物を愛好するの余とはいへ、其意見の中に『骨董品としての日本』を余り多く見て新日本の精神を深く了解されないような言葉を吐かれたことは残念の極みである。(中略)

詮じつめれば、彼等異人の眼には日本人はまだ子供なのだ。(中略)その子供は物心がついてから色々と大人の真似をして見た。政治に経済に教育に司法に軍事に。そして僅計りの取除けを除いてそれ等大部分が概ね成功をかち得たのだから決して笑ふ訳には行かない。(中略)西洋の真似をして作つて見た日本海軍は、物の見事に支那もロシヤも打ち破つて仕舞つたではないか。(中略)

最後に呉々もビアード博士に御断りして置くのは、新帝都建設に当つて、新都が外国旅行客に興味を与えへるや否やと云ふ事を余り問題にすることを謹んで頂き度いと云う事である。(中略)ジャパン・トーリスト・ビユローの仕事やお寺のやうな奈良ホテルを建てて漫遊外国人の意を迎へて居る鉄道省辺りの仕事を見て日本人全体の理想を曲解してはならぬ。而して又仮令日本の現状がその理想の半ばにも到達して居なくても。(中略)

彼等の『日本趣味』の多くは日本人にとつては実は支那趣味であつて、日光の東照宮のやうなゴテゴテした装飾は簡明直裁単純淡白を尚ぶところの吾々日本人の趣味とは本質に於いて相容れない所のものであつて、其点で新時代の日本人は寧ろ泰西芸術の或物に多大の共感を感じて居はしまいか。

尚又復古的芸術の採用も此際断然と斥けるべきである。何となれば今日の日本人は最早昔の日本人とは違つて居るから、それに対してハラキリ時代以前の芸術を望むのは望む方が無理である計りでなく、強いてそれを表現しやうとすればそれは何等の誠意も認められない力の弱いものになつて仕舞ふ筈である。虚偽は常に芸術ではあり得ない。

復興の大業に当る諸君よ。諸君の芸術的標語は新日本の表現である。而してこれが表現に必要なものは、たとへそれが泰西芸術の採用となつて表はれて来たとて諸君は毫も憚る処はない。その昔吾等の祖先が模倣した支那の芸術が、今日となつて多くの日本愛好者を驚かして居るやうに、他日諸君の採用した泰西芸術が換骨奪胎して世界に誇るところのものとなつて顕はれ出た時に、諸君の子孫は諸君の達識と聡明に対して感謝の辞を惜しまないであらう。本質に於て特異性を持つ国民はやがて泰西芸術をも日本化しないでは置かないから。」(福永恭助/『新帝都のスタイル』)

福永恭助(1889~1971)小説家、国語国字問題研究家。海軍大学校卒業。海軍少佐。大正六年、フランス政府から製造を依頼された駆逐艦を佐世保から地中海のマルタ島に回航する特務艦隊の参謀を努めるも、任務を終えた直後に結核を発症して海軍を退役。その後、画家を目指してパリに遊学し、そこで日本の出版社の依頼によってフランス小説の翻訳を手がけて以後は小説家に転身する。『日米戦未来記』『日米戦の用意はいゝか』など、未来戦記や冒険小説を得意とする。

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by hishikai | 2010-06-14 11:10 | 文化