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2010年 06月 26日
福永恭助『新帝都のスタイル』に思う
e0130549_325110.jpgたとえばパリの街角に立って周囲を眺めるとき、およそ先進国の名に相応しからぬほど此処では多くの建物が伝統的な様式に彩られていることに気付く。オスマンの改造以来、欧州の「花束」の地位を護り抜いたその姿が、伝統への信念の表現であることは想像に難くない。

顧みて東京に伝統的な様式の少ないのは何故だろう。現在の東京は震災復興事業と戦災復興事業とで造られたが、東京のそうした非伝統化の原因は、それら二つの分岐点に生きた人々の文章の中に、日本の近代化という事情と絡み合うように吐露されている。

福永恭助『新帝都のスタイル』もその一つである。彼はC.ビアード博士の、東京の震災復興事業に際しては伝統的な様式を積極的に採用すべしとする提言に対し「一番先に考へるべきことは新日本の精神とは如何がといふことだ」と述べて、これに反対する。

その「精神」の如何を私は知らないが、仮にそれが列強と伍した国家経営を指すのならば、何も首都の様式を云々するまでもなく、独立国家として当然の目標であろう。むしろ厄介なのは「新日本」という考えの方で、これが福永の主張の全ての前提となっている。

すなわち彼は徳川幕藩体制が「旧」明治国家が「新」日本で、両者は自ずから異なり、したがって「今日の日本人は最早昔の日本人とは違つて居る」のだから、旧い「ハラキリ時代以前の芸術」や「復古的芸術の採用も此際断然と斥けるべきである」と云う。

こうした考えは戦前の人々に一般的なものであったろうし、戦後の人々に馴染み深い戦前悪玉論なども──その意味内容は別として──形式を同じくしている。いつでも過去を否定しながら、現在を初発として将来を描くことが、私たち近代日本人の「未来」である。

それが戦前で云えば、人間の生を瞬間の連続として捉えたモダニズム文学や、日本の世界統理を唱えた極端な八紘一宇思想であったり、戦後で云えば、非武装中立論に代表される平和主義や、現実の財政を考慮しない福祉国家論など、一連の未来志向の源泉となっている。

しかし事実として現在は過去の先頭で、未来は「未だ来ない時間」である。未来への飛距離は、過去という滑空台の距離と角度、現在の踏出しの如何に掛かっていて、その意味で未来は過去の影に過ぎず、過去と絶縁された飛躍的な未来など存在しない。

そうした当然の事実を直視しないことは、それが西洋化を余儀なくされた日本人の、無意識な自己欺瞞であるとしても、やはり哀しい屈折であることに違いはなく、その哀しい屈折を近代史の中に表現したのが、東京という伝統を否定した都市の姿であると私は思う。

昭和初期の銀座にそびえ立つ和光の時計塔。現在でも銀座の象徴として人々に親しまれている。上部手前に垂れ下がっているのが「むーかし、こーいしい(昔、恋しい)」と歌われた銀座の柳。江戸の頃は柳並木と云えば柳原の土手と相場が決まっていて、しかも弱々しいイメージであったために、新興レンガ街であった銀座との取り合わせの評判はどうであったのか、気になるところである。少なくとも明治になってから皇居周辺に植えられた柳の評判は、今一つであったらしい。

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by hishikai | 2010-06-26 03:40 | 文化