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2009年 08月 27日
『革命について』(「大審問官」への解釈)
e0130549_9281798.jpg フランス革命の別の非理論的な側面を扱った古典的物語、つまり、フランス革命の主役たちの言葉と行為の背後に潜む動機の物語は「大審問官」であり、そのなかでドストエフスキーは、イエスの無言の同情と審問官の雄弁な哀れみを対照的に扱っている。同情とは、まるで伝染でもするかのように他人の苦悩に打たれることであり、哀れみとは、肉体的には動かされない悲しさであるから、両者は同じものでないだけでなく、互いに関連さえもないのであろう。同情は、それ自体の性格からいって、ある階級全体、ある人民、あるいは──もっとも考えられないことではあるが──人類全体の苦悩に誘発されるものではない。それは独りの人間によって苦悩されたもの以上に先に進むものでなく、依然としてもとのままのもの共苦にとどまっている。その力は情熱自体の力に依存している。すなわち、情熱は理性とは対照的に、特殊なものだけを理解できるのであり、一般的なものの概念を持たず、一般化の能力も持たない。大審問官の罪は、彼がロベスピエールと同じように「弱い人々に引き寄せられた」という点にあった。なぜそれが罪かといえば、このように弱い人々に引き寄せられるということが、権力への渇望と区別することができないからであり、のみならず、彼は受難者たちを非人格化し、彼らを一つの集合体──いつも不幸な人々、苦悩する大衆等々──へとひとまとめにしたからである。ドストエフスキーにとって、イエスの神聖のしるしは、万人に対する同情を、一人一人の特殊性において、すなわち、彼らを苦悩する人類というようなある実体に総括することなく持ちうる彼の能力のなかにはっきりと現れていた。その神学的な意味は別として、この物語の偉大さは、もっとも美しく見える哀れみの理想主義的で大袈裟な文句が同情と対決するとき、いかに空虚に響くか、それをわれわれに感じさせる点にある。
 この一般化できないということと密接に結びついているのは、徳の雄弁と対照的に、善のしるしである奇妙な無言、あるいは少なくとも言葉に対する戸惑いである。それは哀れみの多弁さに対する同情のしるしである。情熱と同情は言葉を持たないのではなく、その言葉は言葉よりもむしろ身振りや顔の表情から成り立っているということである。イエスが沈黙し、大審問官の延々と続く独白の淀みない流れの背後に潜む苦悩にいわば打たれていたのは、彼がその敵対者の言葉に同情をもって耳を傾けていたからであって、言うべきことがなかったからではない。この耳を傾けるという行為の強烈さによって独白は対話に変るが、それは言葉ではなく、身振り、接吻の身振りによってのみ終わりとなる。(中略)そして徳が、不正をなすよりは不正を耐え忍ぶほうが良いということをいつも主張しようとしているとすれば、同情は、他人の受難を見るよりは、自分が苦しむことのほうが楽であると、まったく真剣に、時にはナイーヴにさえ見えるほど真剣に述べ、それによって、徳の主張を乗り越えるのである。
 同情は距離を、すなわち政治的問題や人間事象の全領域が占めている人間と人間のあいだの世界的空間を取り除いてしまうので、政治の観点からいえば、同情は無意味であり何の重要性もない。(中略)同情はただ情熱的な激しさで苦悩する人そのものにむけられる。同情が語るのは、それによって苦悩がこの世界で耳に聴こえ眼に見えるようになるところの、まったく表現主義的な音や身振りに対して直接答えなければならないその範囲だけである。一般に、人間の苦悩を和らげるために世界の状態の変革に乗り出すのは同情ではない。しかも同情が変革に乗り出す場合でも、それは法律や政治のような、説得とか話し合いとか妥協のようにだらだらと続く退屈な過程を避け、その声を苦悩そのものに向けるだろう。ひるがえって苦悩は、迅速で直接的な活動、すなわち、暴力手段による活動を求めるはずである。(H・アーレント/『革命について』より抜粋)

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エッチング:K・コールウィッツ 1899年

by hishikai | 2009-08-27 03:44 | 資料
2009年 08月 25日
「大審問官」
e0130549_9362025.jpg彼は指を差しだし、その者を召し捕れと護衛たちに命じた。…護衛たちは囚人を神聖裁判所の古い建物のなかにある、狭くて陰惨な丸天井の牢獄に連れていき、そこに閉じ込める。…深い闇のなかでふいに牢獄の鉄の扉が開かれ、手に燭台をたずさえた老審問官がゆったりと中に入ってくる。…やがて静かに歩みより、燭台をテーブルに置いて彼に言うのだ。

「で、おまえはあれか? あれなのか? …答えなくともよい…そうとも、おまえは、むかし自分が言ったことに何ひとつ付けくわえるべき権利を持ってはいないのだ。…おまえが地上にあったときにあれほど擁護した自由を人々から奪うこともできない。おまえがふたたび告げることはすべて、人々の信仰の自由をおびやかすことになるのだ。…それでもわれわれはこの仕事を、最後までやり遂げたのだ。おまえのためだ。十五世紀間、われわれはこの自由を相手に苦しんできたが、いまやその苦しみも終わった。…知るがいい。…彼らは自分からすすんでその自由をわれわれに差しだし、おとなしくわれわれの足もとに捧げた。…なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ! …ところがおまえは、人間から自由を奪うことを望まずに、相手の申し出をしりぞけてしまった。なぜなら、もしその服従がパンで買われたなら、何が自由というのかと考えたからだ。で、おまえは、人間はパンだけで生きているのではないと反論したわけだ。…しかしわかっているのか。…お前は知っているのか。何百年の時が流れ、人類はいずれ自分の英知と科学の口を借りてこう宣言するようになる。…『食べさせろ、善行を求めるのはそのあとだ!』…おまえの神殿の跡地には新しいバベルの塔がそびえ立つのだ。…そのとき、このわれわれが彼らの塔を完成させてやるのだ。…そう、人間どもはわれわれなしでは絶対に食にありつけない。彼らが自由でいるあいだは、どんな科学もパンをもたらしてくれず、結局のところ、自分の自由をわれわれの足もとに差しだし、こう言うことになる。『いっそ、奴隷にしてくれたほうがいい、でも、わたしたちを食べさせてください』こうして、ついに自分から悟るのだ。自由と、地上に十分ゆきわたるパンは両立しがたいものなのだということを。…非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目から見て、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか? それに、もし天上のパンのためにおまえのあとから何千何万という人間どもがついていくとしても、天上のパンのために地上のパンをないがしろにできない何百万、何千万というほかの人間たちはどうなるのか? それとも、おまえにとって大事なのは数万人の大いなる強者だけで、残りの何百万人、それこそ浜辺の砂のような無数の、たしかにお前を愛してはいるが弱者である人間たちなどは、大いなる強者たちのための人柱に甘んじるしかないというのか? …いや、われわれには弱者も大事なのだ。彼らは罪にまみれた反逆者ではあっても、最後にはそういう彼らも従順になる。…われわれからパンを受け取るさい、彼らははっきりと目にする。われわれが彼らの手で収穫されたパンを取りあげるのは、どんな奇跡もなしに彼らに分配するためだということを。…そうとも、われわれは彼らを働かせはするが、労働から解き放たれた自由な時間には、彼らの生活を、子供らしい歌や合唱や、無邪気な踊りにあふれる子供の遊びのようなものに仕立ててやるのだ。…われわれは彼らにこう言ってやる。かりに、われわれの許しを得て犯された罪であるなら、どんな罪でもあがなわれる、と。…妻や愛人を持つことも、子供を持つか持たないかも、すべてわれわれが、彼らの従順さの程度にかんがみて許可もすれば禁止もする。…そして彼らの幸せのために罪を引き受けたわれわれは、おまえの前に立ってこう言う。『できるものなら、やれるものなら、われわれを裁くがいい』と。」

審問官は口をつぐむと、囚人が自分に答えてくれるのしばらく待つ。…囚人は自分の話を終始感慨深げに聴き、こちらを静かにまっすぐ見つめているのに、どうやら何ひとつ反論したがらない…ところが彼は無言のままふいに老審問官のほうに近づき、血の気のうせた九十歳の人間の唇に、静かにキスをする…これが、答えの全てだった。(ドストエフスキー/『カラマーゾフの兄弟』〈亀山郁夫訳〉より「大審問官」抜粋)

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by hishikai | 2009-08-25 02:10 | 資料
2009年 08月 24日
『焼跡のイエス』
e0130549_9571097.jpg昭和二十一年七月晦日、炎天下の土ほこりにむせかえる上野ガード下の闇市。焼跡から自然に湧き出たような生き物たちが大声で食い物を売り、往来をゆくこれもまた有象無象どもがその声に応じてしわくちゃの十円札を投げ出し不潔な食い物にかぶりついている。

と、突然姿を現した芥と垢にまみれてどす黒い肌の頭から顔にかけ得体の知れぬデキモノにおおわれた少年が、一つの露店に飛び込み蠅のたかる握り飯に噛みつき、その素早さのまま今度はシュミーズで店番をしている若い女の驚いて立ち上がろうとする足に抱きつく。

女は悲鳴をあげて振り払おうとするが少年は離れない。半ズボンに兵隊靴をはいた市場の見回りらしいのが駆けつけるが、少年の異様な風態を怖れて引き離すことができない。やがて少年と女は煙草に火をつけようとしていた私にぶつかり、三人はもんどりうって倒れ込む。

私がやっと起き上がったときすでにに少年の姿はなく、女は煙草の火でシュミーズに穴があいた私を罵り、取り囲む人だかりは殺気立っている。私はあの瞬間に女の柔らかそうな肌に抱きつきたいと願った自分の色情を見透かされたような気がして夢中で市場を逃れる。

気をしずめて上野の森を歩き、私の今日ここへ来た目的は谷中のある寺に拓本を採りに行くことだと思い返しながら、ふと後ろを振り返ると先刻の少年がこちらに向かって歩いてくる。しばらく歩き再び振り返ると、やはり少年が、今度はぐっと距離を縮めて追ってくる。

決心をした私が東照宮の境内に入り振り向くその途端、少年が猛然と襲いかかって来る。悪臭にむせかえりながらの格闘。そして、ようやうのことで意外に滑らかな肌理をした少年の腕を押さえつけ地面に組み伏せると、私は一瞬にして恍惚となるまでに戦慄する。

「わたしがまのあたりに見たものは、少年の顔でもなく、狼の顔でもなく、ただの人間の顔でもない。それはいたましくもヴェロニックに写り出たところの、苦患にみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった」(石川淳/『焼跡のイエス』)

翌日闇市は取り払われ、昨日まで露店がずらりと並んでいたあとには、ただ両側にあやしげな葭簀張りの小屋が閑散として残るばかりで、そのきれいに掃きならされた土の上に何やら物の痕の印されているのが、あたかも砂漠の上に踏み残された獣の足跡のように見えた。

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by hishikai | 2009-08-24 10:11 | 資料
2009年 07月 15日
『大衆の反逆』(抄録)
e0130549_0191491.jpg大衆の反逆というこの歴史的現象に近づく最良の方法は、おそらく、我々の視覚的な経験に訴えて、我々の時代の肉眼で見ることのできる一つの相貌を強調することだろう。その事実は分析することに容易でないが、指摘するだけならきわめて簡単であり、私はそれを密集の事実、「充満」の事実と名づけている。

都市は人々で満ちている。家々は借家人で、ホテルは泊り客で、汽車は旅行客でいっぱいである。喫茶店は客で、街路は通行人で、有名な医者の待合室は患者であふれている。映画・演劇は出し物がひどく時期はずれでない限り観客で満員となり、海浜には海水浴客がうようよしている。⋯(これら)全ての事実は、大衆が社会の前面に進み出て、以前には少数者だけのものであった設備を占領し、利器を使用し、楽しみを享受しようと決断したことを示している。

例えば、彼らが占領した設備は規模がたいへん小さく、人々が絶えずあふれているところから見て、大衆を予測していなかったことは明らかであるし、人のあふれ方は、我々の目にはっきりと新しい事実を、つまり大衆が大衆であることをやめないままで少数者に代わって、その地位に就いていることを証明している。⋯

私は近年の政治的変革は、大衆による政治の支配以外の何ものでもないと信じている。かつてのデモクラシーは、自由主義と法に対する情熱という効き目のある薬のお蔭で穏やかに生き続けてきた。これらの原則を尊奉するにあたって、個人は自己のうちに厳格な規律を保持するように義務づけられていたのだ。

少数者は自由主義の原則と法の庇護のもとに活動し、生活を営むことができた。デモクラシーと法は合法的共存と同義語であった。ところが今日、我々は超デモクラシーの勝利に際会しているが、そこでは大衆が法を無視して直接的に行動し、物質的な圧力によって自分たちの希望や好みを社会に強制しているのである。

この新しい事態を、あたかも大衆が政治に飽き、その仕事を専門家に委せているかのように解釈するのは間違いである。事実はその反対である。政治を専門家に委せていたのは以前のことであり、それは自由主義デモクラシーのことである。

当時の大衆は、政治家という少数者には様々な欠点や欠陥があっても、こと政治問題に関しては、結局のところ彼らの方が自分たちよりは少しばかり良く分かるのだと考えていた。しかし現在の大衆はその反対に、自分たちには喫茶店の話から得た結論を社会に強制し、それに法的な効力を与える権利があると思っているのだ。

『大衆の反逆』/著:J・オルテガ/訳:桑野一博

ホセ=オルテガ=イ=ガセット(Jose Ortega y Gasset 1883-1955)スペインの哲学者、著述家、教育者。「人間の生は数学の教科書のように原理によって支配されることはなく、またされるべきではない。理性を守って生を滅ぼす合理主義も、生を守って理性を捨てる相対主義も、ともにあるべきことではない」との立場から、人間の生はこれを取り巻く環境と一体に考えられるべきであると主張する。そこから社会における慣習を重視し、これを断絶しようとする教条的な民主主義と、その結果としての全体主義を批判する。

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by hishikai | 2009-07-15 23:57 | 資料
2009年 06月 12日
おとぎの国の倫理学(抄録)
おとぎの国では「法則」という言葉は使わない。ところが科学の国では、みんなこの言葉が特別お気に入りのようである。たとえば、今は死に絶えた昔々の人びとがアルファベットをどう発音していたか、面白い仮説を作って「グリムの法則」と呼んでいる。

しかし、グリムのおとぎ話のほうが、グリムの法則よりはよほど理屈として筋が通っている。お話のほうはともかくも話であるが、法則のほうは実は法則でも何でもない。いやしくも法則と言うからには、一般化ということの本質と、法則化ということの本質を正確に知っていなければならないはずである。

たとえばこれが、スリは牢屋に入れるべしという法律の場合なら、話はなるほどよくわかる。スリをするという観念と、牢屋に入るという観念との間には、なるほどある種の精神的関連のあることはわれわれにも理解できる。人の物を自由にする奴は、なるほど自由にはさせておけぬ道理である。

けれども、なぜ卵がヒヨコになるかというような問題になると話は少々変ってくる。この問題は、なぜ熊が王子に変ったかという問題と同じくらいむずかしい。純粋に観念として見るならば、卵とヒヨコの関係は熊と王子の関係よりもっと無関係である。卵にはヒヨコを連想させるものは皆無であるのにたいして、王子の中には熊を連想させる例もなくはないからだ。

さてそこで、ある種の変身というものが現に起こることは認めるとしても、大事なことは、おとぎの国の哲学的方法によってこの変身を見ることである。科学といわゆる自然法則の、まことに非哲学的方法によって見ることは断じて許されない。

では、なぜ卵は鳥になり果実は秋に落ちるのか。その答は、なぜシンデレラの鼠が馬になり、彼女のきらびやかな衣装が十二時に落ちるのか、その答とまったく同じである。魔法だからである。「法則」ではない。われわれにはその普遍的なきまりなど理解できないからである。必然ではない。

なるほど実際には必ず起るだろうと当てにはできるが、しかし絶対に起らねばならぬという保証はまったくないからである。普通はそういうことが起るからといって、それがハックスリーの言うような不変の法則の証明だということにならぬ。われわれはそれを当然のこととして当てにすることはできない。

われわれはそれに賭けているのである。おやつに食べるパンケーキには、いつ毒が入っていないともかぎらない。巨大な彗星がやって来て、いつ地球を粉々にしないともかぎらない。たとえその確率がどれほど小さくても、ともかくわれわれはいつでもその危険を冒して生きているのだ。

e0130549_1150986.jpgいつ奇蹟が起こって、当たり前のことが当たり前のことでなくならないとは誰にも断言できはしない。どんなに小さな確率でも、われわれがいつもその危険に賭けていることは変わらない。われわれが普段はそれを考えないで暮しているのは、それが奇蹟であり、したがって起こりえないことであるからではなくて、それが奇蹟であり、したがって例外にほかならないからなのである。

科学で使う用語はみな「法則」にしろ「必然」にしろ、「順序」にしろ「傾向」にしろ、すべて本当は意味をなさぬ。みな内的な連関、統一を前提にした言葉だが、われわれにはそういうものは本当に理解はできないからである。自然を説明する言葉として、私が納得できた言葉はたった一つしかない。おとぎ話で使う言葉だ。つまり「魔法」という言葉だけである。

(『正統とは何か』より「おとぎの国の倫理学」抄録/著:G.K.チェスタトン/訳:福田恆存 安西徹雄)

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by hishikai | 2009-06-12 14:46 | 資料
2009年 04月 13日
『よしわら』より 女のからだ
e0130549_0374564.jpg女のからだ 江戸二 D楼 みずよ

どうしてまた、こんなところへ戻つてきたんですかつて?そうね。あんたのような人の目から見たら、こんな四十づらさげてさ、紅いもんや、白いもんぬつたくつて、このランプの下に立つているあたしを、よつぽどあわれな人間だと思うにちがいないよ。

だけどさ、このハデな着物ぬいで、すつぱだかになつたあたしはさ、どつちみち女だよ。おしろいの下にかくれてるあたしの肌には、長年の苦界のしわが、いつぱいあるかもしれないよ。けどね⋯、しわを一枚ヒンムケば、その下にやあ、まだ女の血がながれてるのさ。年をとつて、ますます自分のからだのうまみを知つた女の血がね。(中略)

あたしア、三十にならないうちに、このくるわからとび出したの、とび出したからつて、あたしが今までとおつてきたみちつてば、やつぱり紅いあかりのついたのれんの下さ。のみ屋、料理屋、おでん屋、かたいところじや旅館のお女中さんにもなつた。けど、駄目だつたのさ。あたしア正直いつて、男が欲しかつたのさ、いつも⋯。(中略)

考えてみりやア、つくづく女のからだつてぇヤツは、インガなもんさ。女の星つてのはかなしいもんさ。それが四十の坂をこして、いたいほど、思い知つたもんだ。この世の中の女つて女は、みんな男あつての女さ。それでなくて、なんのために女つていうりつぱなからだがあるんだよ。(中略)

男が夢中になつて入れあげる女の期間つてのはほんとにみじかいもんさ。花のいのちみたいに、はかないもんだよ。けどね、それからさ、それからなんだよ。きれいな花びらが散つてからなんだよ。女のからだが、ほんとうにもえてくるのは──。これが女つていうからだのさだめなんだよ。(中略)

あたしが女のからだの動きのおもしろみやくるしみを知つているかぎり、そして、男つていう男のあらゆる瞬間のからだのうごきを知りつくした今になつては、あたしやそうしか云えないのさ。なるようにしかなれないつて⋯。いまのあたしア、ただ待つてるだけだよ。あたしを頭のてつぺんから、足のつまさきまで夢中にさせてくれるひとのことをね──。(よしわら/大河内昌子 編)

by hishikai | 2009-04-13 00:40 | 資料
2009年 04月 12日
『よしわら』より 親子丼
e0130549_1574354.jpg親子丼 S店 より江

なんていつたつて、ここへ来てはじめてオヤコドン食べた時の味、忘れられないナ。ウマカツタ。ほんとにウマカツタ。世の中にこんなウマイモンあるかと思つた。きいろいきれいげなイロした玉子のトコロドコロにホキホキした肉、マツシロイごはんの上にのつかつた、こんなゴチソウははじめて食べた。あつたかいドンブリのフタをとつた時、あたしが何時もクイタイ、クイタイと思つてたニオイがプーンとした。

このニオイだ。このニオイだ。あたしがねえやをしていた時に、毎日、そこのダンナサンにはこんだベントーの中からしていたニオイは⋯ とうとう、あたしは食べた。ああ、あの時は、あたしは、そのダンナさんに持つてゆくベントーが死ぬほど食いたかつた。

あつたかいベントーをかかえて、おやしきを出るあの時のあたしは、何時も、いつも、ハラがへつてハラがへつて、たまらなかつた。ああ、ハライッパイ、クイタイ。それが、ねえやのあたしのさいじようの、のぞみだつた。そして或日、あたしは、死にたいほど食いたかつた。アッ、コロサレテモイイ、コノベントー、クッテシマウベ。

あたしは、とうとう、道のまん中に立ちどまつて、さげていたベントーのつつみを胸にだいた。あつたかいベントーの底で、胸が、ドクッ、ドクッとなつていた。そして、あたしは思わず泣いた。ナミダがボロボロ出てとまらない。だつて、その時のあたしは死ぬほどハラがすいていたんだつた。(中略)

あたしは何故ここから出ていかないのだろうか。あたしにとつて、この問いは、いいたくない、あたしの心の底をあばかれるような気がする。カタギになれ、アンタなら出来るといつてすすめてくれた人の前では、あたしは、早くカタくなつて、どんなことでもやつてみようと思つてもみる。けれども、正直を云えば、あたしは、一歩世の中に出たら、どんな風が吹くか、それがおそろしいのだ。(中略)

あたしが、あたしという女の運命について考えるとき、あたしの頭の上で、その星は、これで、この現在で、まんぞくしろとささやいているような気がするのです。もし、あたしがこれから先、ここを出たとしても、いまのあたしにあるような幸福はないだろう。

あたしはほんとうにそう思つている。苦労に苦労をしてたどりついたこのくるわの中で、あたしのいままでの苦はみんな消えていつた。これに満足し、いまの生活から出ていこうとしない自分を、あたしは、いとしいとさえ思う。(よしわら/大河内昌子 編)

by hishikai | 2009-04-12 02:00 | 資料
2009年 04月 03日
『よしわら』より 運河
e0130549_051288.jpg運河 M店にて みよ子

身の上ばなしなどということを私は好まない。はなしをすることによつて現在の私自身には何の変化もないからである。

しかも、このような運河の流れのまにまに流されてゆく女になつたわたしに、身の上ばなしなどということは、あまりにも意味がないからである。私のまわりの、誰彼がもつているありきたりの過去が、現在のわたくしの過去でもある。

私の魂は、悲しんだり、怒つたりすることを、ここ幾月かの間やめてきた。そしてその忘れられた魂に、もう一つの上ぬりした別の魂が、ここで生まれたのである。そうしなければ、ここでは生きてゆけないからだ。

「大学を出たんだつてね」

ある客が、そう言つて、私の前に、英語の詩集をおいた。それは、一生涯かかつて、愛する人をもとめてさすろう、あまりにもいたいたしい純情な女の姿をかいた長い叙情詩であつた。エヴァン・ジュリン──その詩を見た時、忘れていた魂が、鈍い痛みでわたくしの現在をおしのけようとしていた。

私の「忘れようとしていた魂」が、その詩をそらんじた。おそらく、この男達にとつてその時の私は、手品をつかう女奇術師に見えていたかもしれないのだ。わたしは彼等の目の中にそれを見た。吉原の女が、原書の英詩を読む──というマジックにひとしい手ぎわは、彼等の好奇心を充分に満足させた。

思わず二、三行読んで、私は何時もの私にかえつた。私はひそかに笑つた。英詩を読む──それがいつたい今の私にとつてなんであろう。今となつては、それはかくし芸のひとつであるにすぎないのだ。

(よしわら/大河内昌子 編)

by hishikai | 2009-04-03 00:54 | 資料
2009年 04月 02日
『よしわら』より えらい人
e0130549_2382713.jpgえらい人 京一 路子

菊花のバッジをつけた偉い婦人が
私達を前に話している

一人の婦人はこう言つた
「私にもあなた方と同じ年頃の娘がいます、それを考えると胸がつぶれそうです」

白いお揃いのかつぽう着をきて
みんな一生けんめいに話をきいた
そっと隣の、のりちゃんを見たら
鼻の頭は汗でぶつぶつだつた

一人の婦人はこう言つた
「でも皆さんは若くてお美しい 心の中まで汚さずがんばつてね」

みんなうつむいてしまつた
私たちはちつともお美しくなんかない
心が汚れるつてどういうことかしら

「みなさんはちつとも悪くないのです みなさんをほつとく政治が悪いのです」

それから悪い政治の話を聞いた

──法 ──法 ──法

そうすればみんな救われて
社会は明るくなるのです、と

政治つて一体なんだろう

私は
もう四時をすぎてしまつたし
店から迎えがこないかと思つて
ひやひやしてしまつた

(よしわら/大河内昌子 編)

by hishikai | 2009-04-02 02:50 | 資料
2009年 04月 01日
『よしわら』より 佛だん
e0130549_150232.jpg佛だん S店 澄子

わたしの四畳半のへや──。床の間には、菊の花がいけてあり ちがい棚にはガラスのケースの中に はなやかな人形もかざられてありますのに なんだかわたしには、もの足りないのです

スーパーも、時には、にぎやかになりたてて さびしいはずもないのですが── やつぱりわたしはさびしくてなりません それは わたしの小さなねがいが果たされないからです

さまざまの苦しみにたえてきたわたしという女のあしあとが この部屋で消え去り わたしのいじけた、しぼんだ心が あきらめといつしよにふくれあがつたとき わたしはねがうようになつたのです

この色とりどりの部屋のどこかに わたしの父母たちの位はいをかざりたいと。 古びて、すみの色もにじんだおいはいですが わたしにとつてはなつかしい親たちなのです

「とんでもない。ブツダンなんて── そりアね こおいう部屋にかざつておくもんじアないよ」 おばさんは、いいました 「そりアねあんたの心の中にかざつておくもんだよ そつとね」と。

わたしは心の中に、おいはいをもつているのは重くて仕方がありません。 わたしの心の中だけではとても ささえきれません この部屋の誰の目にふれないところ 押入れの片すみでもいい。 

この古びた父母の位はいを かざつてみたいのです ひそかにささげた線香のにおいが この部屋にただよう日のことを わたしは思つてみるのです。

(よしわら/大河内昌子 編)

by hishikai | 2009-04-01 15:02 | 資料