カテゴリ:文化( 85 )

2010年 06月 30日
軽井沢
e0130549_11504140.jpg明治十九年七月のある日、旧中山道の宿場町。二人の外国人がようやく着いたというように腰を伸ばし青い空を見上げている。一人はカナダ人の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショー。もう一人は帝国大学教授で英国人のジェームズ・メイン・ディクソン。

二人はアーネスト・サトウの旅行案内に紹介された美しい自然を求め、さらには東京の暑さを逃れて、この地に旅装を解いた。旅籠の前では荷馬が桶の中の冷たい水を呑んでいる。自由民権運動もようやく鎮まったかに思えた、静かな夏であった。

こうして保養地としての軽井沢の歴史は始まる。多くの外国人を始め、日本の華族や政財界人が別荘を建て、コミュニティーが作られ、独特な風土文化が育まれ、この地に一夏を過ごすという矜持が暗黙の約束となって人々に洗練をもたらしてゆく。

新渡戸稲造がロッキング・チェアに揺られ、尾崎行雄が乗馬を愉しみ、徳川家の令嬢が高原のピクニックに興じ、少年の日のエドウィン・ライシャワーが草原に佇んでいる。「愉しみを人に求めず、自然に求めよ」それが彼らの合い言葉となった。

だが大衆と民主主義がそれを許しておくことはない。かつてホセ・オルテガ・イ・ガセットは「充満」について、遊園地が大衆であふれているのは、それがもともと彼らための施設ではないために、彼らを収容できないからだと言ったが、今の軽井沢では本当のことだ。

「我々の目はいたる所に彼ら群衆の姿を見出すのだ。いたる所にだろうか? いや、いや、そうではない。他でもなく、人間文化の比較的洗練された所産として、以前は少数者の集団のために、正確に言えば、すぐれた少数者のためにとっておかれた場所に見出すのである」(ホセ・オルテガ・イ・ガセット/『大衆の反逆』)

そんなことを考えながら、ふと窓の外を見ると緑がまぶしい。森の小さなレストランに一人でいる。それにしても初めて訪れた軽井沢で私は何をしたら良いのだろう。主人に尋ねると「散歩です」と言う。なるほど「愉しみを人に求めず、自然に求めよ」か…。

室生犀星旧宅附近の小径。そもそも矜持のないところに個人はなく、個人のない自由は混乱に等しい。そのような社会においては暗黙の約束など無いに等しい。自由が暗黙の約束を条件とした不干渉の秩序だとすれば、そうした暗黙の約束を生み出す矜持こそ、自由な社会の出発点ではないだろうか。

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by hishikai | 2010-06-30 12:01 | 文化
2010年 06月 26日
福永恭助『新帝都のスタイル』に思う
e0130549_325110.jpgたとえばパリの街角に立って周囲を眺めるとき、およそ先進国の名に相応しからぬほど此処では多くの建物が伝統的な様式に彩られていることに気付く。オスマンの改造以来、欧州の「花束」の地位を護り抜いたその姿が、伝統への信念の表現であることは想像に難くない。

顧みて東京に伝統的な様式の少ないのは何故だろう。現在の東京は震災復興事業と戦災復興事業とで造られたが、東京のそうした非伝統化の原因は、それら二つの分岐点に生きた人々の文章の中に、日本の近代化という事情と絡み合うように吐露されている。

福永恭助『新帝都のスタイル』もその一つである。彼はC.ビアード博士の、東京の震災復興事業に際しては伝統的な様式を積極的に採用すべしとする提言に対し「一番先に考へるべきことは新日本の精神とは如何がといふことだ」と述べて、これに反対する。

その「精神」の如何を私は知らないが、仮にそれが列強と伍した国家経営を指すのならば、何も首都の様式を云々するまでもなく、独立国家として当然の目標であろう。むしろ厄介なのは「新日本」という考えの方で、これが福永の主張の全ての前提となっている。

すなわち彼は徳川幕藩体制が「旧」明治国家が「新」日本で、両者は自ずから異なり、したがって「今日の日本人は最早昔の日本人とは違つて居る」のだから、旧い「ハラキリ時代以前の芸術」や「復古的芸術の採用も此際断然と斥けるべきである」と云う。

こうした考えは戦前の人々に一般的なものであったろうし、戦後の人々に馴染み深い戦前悪玉論なども──その意味内容は別として──形式を同じくしている。いつでも過去を否定しながら、現在を初発として将来を描くことが、私たち近代日本人の「未来」である。

それが戦前で云えば、人間の生を瞬間の連続として捉えたモダニズム文学や、日本の世界統理を唱えた極端な八紘一宇思想であったり、戦後で云えば、非武装中立論に代表される平和主義や、現実の財政を考慮しない福祉国家論など、一連の未来志向の源泉となっている。

しかし事実として現在は過去の先頭で、未来は「未だ来ない時間」である。未来への飛距離は、過去という滑空台の距離と角度、現在の踏出しの如何に掛かっていて、その意味で未来は過去の影に過ぎず、過去と絶縁された飛躍的な未来など存在しない。

そうした当然の事実を直視しないことは、それが西洋化を余儀なくされた日本人の、無意識な自己欺瞞であるとしても、やはり哀しい屈折であることに違いはなく、その哀しい屈折を近代史の中に表現したのが、東京という伝統を否定した都市の姿であると私は思う。

昭和初期の銀座にそびえ立つ和光の時計塔。現在でも銀座の象徴として人々に親しまれている。上部手前に垂れ下がっているのが「むーかし、こーいしい(昔、恋しい)」と歌われた銀座の柳。江戸の頃は柳並木と云えば柳原の土手と相場が決まっていて、しかも弱々しいイメージであったために、新興レンガ街であった銀座との取り合わせの評判はどうであったのか、気になるところである。少なくとも明治になってから皇居周辺に植えられた柳の評判は、今一つであったらしい。

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by hishikai | 2010-06-26 03:40 | 文化
2010年 06月 14日
福永恭助『新帝都のスタイル』
e0130549_10593116.jpg関東大震災で壊滅した東京をどのような姿に復興すべきか。この問題について言及したC.ビアード『東京復興に関する意見』に対し、小説家の福永恭助は大正十三年(1924)の『中央公論』二月号に『新帝都のスタイル』という一文を載せて、次のように反論している。

「一番先に考へるべきことは新日本の精神とは如何がといふことだ。(中略)我尊敬すべきビアード博士が、たとへ日本の風物を愛好するの余とはいへ、其意見の中に『骨董品としての日本』を余り多く見て新日本の精神を深く了解されないような言葉を吐かれたことは残念の極みである。(中略)

詮じつめれば、彼等異人の眼には日本人はまだ子供なのだ。(中略)その子供は物心がついてから色々と大人の真似をして見た。政治に経済に教育に司法に軍事に。そして僅計りの取除けを除いてそれ等大部分が概ね成功をかち得たのだから決して笑ふ訳には行かない。(中略)西洋の真似をして作つて見た日本海軍は、物の見事に支那もロシヤも打ち破つて仕舞つたではないか。(中略)

最後に呉々もビアード博士に御断りして置くのは、新帝都建設に当つて、新都が外国旅行客に興味を与えへるや否やと云ふ事を余り問題にすることを謹んで頂き度いと云う事である。(中略)ジャパン・トーリスト・ビユローの仕事やお寺のやうな奈良ホテルを建てて漫遊外国人の意を迎へて居る鉄道省辺りの仕事を見て日本人全体の理想を曲解してはならぬ。而して又仮令日本の現状がその理想の半ばにも到達して居なくても。(中略)

彼等の『日本趣味』の多くは日本人にとつては実は支那趣味であつて、日光の東照宮のやうなゴテゴテした装飾は簡明直裁単純淡白を尚ぶところの吾々日本人の趣味とは本質に於いて相容れない所のものであつて、其点で新時代の日本人は寧ろ泰西芸術の或物に多大の共感を感じて居はしまいか。

尚又復古的芸術の採用も此際断然と斥けるべきである。何となれば今日の日本人は最早昔の日本人とは違つて居るから、それに対してハラキリ時代以前の芸術を望むのは望む方が無理である計りでなく、強いてそれを表現しやうとすればそれは何等の誠意も認められない力の弱いものになつて仕舞ふ筈である。虚偽は常に芸術ではあり得ない。

復興の大業に当る諸君よ。諸君の芸術的標語は新日本の表現である。而してこれが表現に必要なものは、たとへそれが泰西芸術の採用となつて表はれて来たとて諸君は毫も憚る処はない。その昔吾等の祖先が模倣した支那の芸術が、今日となつて多くの日本愛好者を驚かして居るやうに、他日諸君の採用した泰西芸術が換骨奪胎して世界に誇るところのものとなつて顕はれ出た時に、諸君の子孫は諸君の達識と聡明に対して感謝の辞を惜しまないであらう。本質に於て特異性を持つ国民はやがて泰西芸術をも日本化しないでは置かないから。」(福永恭助/『新帝都のスタイル』)

福永恭助(1889~1971)小説家、国語国字問題研究家。海軍大学校卒業。海軍少佐。大正六年、フランス政府から製造を依頼された駆逐艦を佐世保から地中海のマルタ島に回航する特務艦隊の参謀を努めるも、任務を終えた直後に結核を発症して海軍を退役。その後、画家を目指してパリに遊学し、そこで日本の出版社の依頼によってフランス小説の翻訳を手がけて以後は小説家に転身する。『日米戦未来記』『日米戦の用意はいゝか』など、未来戦記や冒険小説を得意とする。

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by hishikai | 2010-06-14 11:10 | 文化
2010年 06月 09日
福永恭助の『日米戦未来記』
e0130549_12242988.jpg福永恭助の『日米戦未来記』は新潮社の月刊誌『日の出』昭和九年新年号付録。そこでは未来の日米戦が次のように語られる。──海軍を脱走して満州のラヂオ店主に身をやつした元駆逐艦一等水兵、河野剛が得意先で耳にした臨時ニュースは信じられないものであった。

「本日午後四時十五分、米国亜細亜艦隊ヒューストン号がウースン沖停泊中、日本駆逐艦『楢』のために撃沈されました」駆逐艦『楢』は河野の所属していた艦で、艦長は牧栄太郎大尉。牧大尉は日米の戦力差を憂え、早期開戦に持ち込むために独断で挙に出たのだった。

そして米国は宣戦を布告。サンフランシスコ湾には艦艇が続々と集結する。黒人はパナマ運河を爆破し、日系人は巨大飛行船を破壊するが、そうした抵抗運動も彼我の戦力差を覆すことができない。やがて編成された圧倒的な規模の米国艦隊が西太平洋に向けて出航する。

日本でも予備役の招集が慌ただしく行なわれている。その中に、あの河野剛の姿もある。だが陸軍によるフィリピン攻略作戦は難航し、真珠湾で米国艦隊を奇襲した日本潜水艦隊は全滅してしまう。ここに至り、遂に大本営は一大艦隊決戦を覚悟する。

日米両艦隊激突の舞台は小笠原島東方二百海里の洋上。先ず敵勢力の減殺を狙って八隻の巡洋艦を中心とした日本の前衛部隊が攻撃を開始。二時間に及ぶ壮絶な死闘の末に米側は二隻の航空母艦を失い、日本側は六隻の巡洋艦を失う。ここで日没となり砲声は一旦止む。

真っ暗な闇の中を牧艦長の駆逐艦が航行している。と、突然目の前に巨大な船影が現れる。「敵空母だ!」たちまち敵の集中砲火で艦上は修羅場と化す。もう駄目だと思われたその瞬間、河野水兵の発射した魚雷が敵の火薬庫に命中。敵の巨大空母は闇の中で轟沈する。

一夜明けてみると日米の航空兵力は逆転していた。前衛部隊の奮戦と、河野水兵の大手柄によって航空母艦三隻を撃沈したのが効いたのだ。さらには父島から陸軍の爆撃機隊も駆けつけている。このときほど米艦隊は遠征軍の不利を噛み締めたことはなかったであろう。

日本艦隊は周囲に煙幕を張って砲撃を開始する。着弾観測飛行機の報告で面白いように弾が当たり、敵は次々と沈められていく。「降伏を勧告してはどうか?」長官の意志が伝達されると、生き残った米艦船の檣頭に白旗が翻えった──。そして物語は、こう結ばれる。

「河野水兵は…逃亡罪の残りの服役を数ヶ月間、大津の海軍刑務所で送つた。刑務所を出て久し振りに妻の千枝子に会つた時に、千枝子は丁度身二つになつてゐた。祖母に似たのか、眼の大きい女の児が生まれた。二人がその女の児を交わる代わる抱きながら、新占領地のホノルルに向かつて横浜を出帆する秩父丸に乗つたのは、それから半年の後だつた。船の中には戦捷を記念するためにワイキキの公園に建てるといふ、牧大尉の銅像が積まれてあつた」(福永恭助/『日米戦未来記』)

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by hishikai | 2010-06-09 13:33 | 文化
2010年 04月 21日
野田俊彦『所謂日本趣味を難ず』より
e0130549_104917.jpg私は今、C.ビアードの公共建築に日本式を採用すべしとの提言に対して、当時内務省の技師であった野田俊彦の反論が、大正十三年九月に総合雑誌『太陽』誌上に『ビアード博士に一言す』と題して表明されたことを内田祥士著『東照宮の近代』によって教えられている。

内田氏の引用によれば、野田の反論は「吾々には迷惑千万な事だ」「今日の吾々は、西洋人の真似をして西洋風を着ているのではない」といった内容で、内田氏はこれを「書かなければ、怒りが収まらないといった文面である」と評していて興味深い。

本来であればこの『太陽』を手に取り、野田の反論をまとまった文章で読んでみたいのだが入手することができなかった。そこで野田が近代建築への日本的な意匠や形態の適用を批判した『所謂日本趣味を難ず』(『建築雑誌』大正六年十二月発行)を読んでみたい。

ここで野田は、構造と材料の自然な適用を目指すべき近代建築に日本趣味を適用する行為は「虚偽」であって「幼稚なる国粋保存主義」である論じている。そして日本の近代建築に伝統的な国民性を表現する企ては無意味であるとして、その理由を次のように述べる。

我々の國民性は現代に於ける我々の特性である。前時代の我國民の特性が我々の國民性を形造る上に於ける一大因子であることは論を待たないけれ共、それは明かに我々の國民性とは別物である。『日本趣味』の内に、建築の上に見られる我國民の特性の表れを求め得るには違いない。けれ共其の特性たるや維新前に於ける我國民の特性である。現代に於ける我々の國民性ではないのである。(野田俊彦/『所謂日本趣味を難ず』)

当時列強各国に追いつこうと懸命に近代化を推し進めていた日本人にとって、殊に野田俊彦のようなエリート官僚にとっては、近代化の象徴であるべき近代建築に伝統様式を採用することなど、それこそ退歩以外の何物でもなかったであろうことは想像に難くない。

だがそれよりも野田の脳裏を占める「現代に於ける我々の特性」という感覚は、私自身胸の奥を探って思い当たる。それは現在から過去を位置付けても、過去から現在を規定されることは御免蒙るという態度である。そのとき過去はせいぜい現在のための訓話でしかない。

いわば「いま」への信仰である。それは明治維新以後に徳川体制を蔑み、敗戦後は大日本帝国体制を蔑むことで、常に「いま」を正当化してきた私たちの歴史と深く関わっている。二度まで棄教を強いられた私たちの苦悶が生んだ宿痾である。

東京歌舞伎座 関東大震災の翌年、大正十三年に竣工。鉄骨と鉄筋コンクリートを使った建築物だが、その外観は大胆に伝統様式を取入れている。設計者は東京帝国大学建築学科を明治三十九年に卒業した岡田信一郎。岡田は昭和九年には日比谷交差点近くのお濠端にある明治生命館も手がけているが、そちらはルネサンス様式である。なお現在の歌舞伎座は今年、平成二十二年五月からの建替え工事が予定されている。

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by hishikai | 2010-04-21 10:17 | 文化
2010年 04月 19日
洋臭畸形の街
e0130549_1104575.jpgC.ビアードの『東京復興に関する意見』は、関東大震災の前年、大正十一年(1922)から十二年の半年を東京に滞在して作成された彼の東京市政への意見書を下敷きとして、これに震災直後に再び来日し調査した内容を加え、大正十三年十月に公表されたものである。

これは街路、運輸、財政問題等についての小冊子だが、この最後に「帝都の尊厳及び美観に関する考察」と題された第十一章があり、ここで彼は東京が「洋臭畸形建築」に有余った都市であるとし、その古代美を忘れ、地に委せられる現状に戦慄を禁じ得ないと記している。

そして東京の復興に際しては帝都建築美術委員会を設置して、これに公共建築物の設計を審査させるよう提言している。この制度によって公衆の美に対する興味を喚起し、以て趣味を向上させ、併せて美観を損なう建築を防止する効果のあることを彼は期待している。

都市に於ける美術委員会の設置は、彼の母国アメリカでの経験を基礎としている。アメリカでは1890年代から全国の市民が美化団体を結成し、租税で購入する美術品や、施工する建築の審査を行なう公式の美術委員会の設置を市に要請し、これを実現している。

その運動の活発であったことは、美化団体の数が1894年に50団体であったものが、1905年には2426団体と急増していることにも伺われ、その啓蒙家としてはジャーナリストのチャールズ・マルフォード・ロビンソン(Charles,Mulford,Robinson)が知られている。

彼の1901年の著書『町と市の美化』は、街路計画、街路の美化としての電線地中化、建築の美的規制、交通の規制、広告の規制、街路樹・公園・遊び場の必要性、そして公衆教育の重要性を訴え、十一版まで増刷を重ねてアメリカの多くの人々に読まれている。

このとき美化団体に参加した人々の美意識は、建築ではフランスの新古典主義、公園ではイギリスの自然美を目指していたといわれる。これは独自の伝統様式を持たないアメリカの人々が、その建国の源流をヨーロッパとイギリスの伝統に見出した自然な発想であろう。

これに対して我国は永い歴史の中で、独自の伝統様式を育んできた。したがって美術委員会のような制度を我国で行なう場合、その美意識を独自の伝統に見出すことは同様に自然な発想である。C.ビアードもそうした発想に立ち、以下の提言をしている。

曰く、日本建築の様式を公共建築物に採用すること、日本式の記念建造物を造ること、公園は日本式となすこと、である。だが進歩とは常に欧化であった我国近代の心理には、過去を呼び戻すこうした施策を、常に退歩と視る不安がつきまとっている。

実際これに対しては二つの反論があった。一つは『建築非芸術論』を著した野田俊彦によるもの、もう一つは海軍を退役して未来戦記の作家となった福永恭助によるもので、そのいずれもが日本人の目指すべき美意識を、現在と未来の中に見出していた人であった。

並木通りの人々「銀座画集」織田一磨 画 たそがれの銀座である。ほのかに夕闇が漂いはじめた並木通りを浮き出るように洋服の人々が行き交う。織田一磨は新しい東京を、そうしてうつりかわる東京の風俗を愛情をこめて描きつづけた。

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by hishikai | 2010-04-19 11:35 | 文化
2010年 04月 16日
ビーアド博士『東京復興に関する意見』より
e0130549_022673.jpg歴史の舞台は大西洋より太平洋に移りつゝある。日本はこの舞台に於いて立役を勤めるであらう。而して東京は多くの印象深い場面の舞台となるであらう。故に日本の帝都が、帝都としての特異性を有たねばならぬといふことには深奥なる意義を有する。蓋し貧弱なる帝都は列強の間に伍するとき、國家の尊厳と威容とを傷けるであらう。

而してこの特異性は米國第三流處の邊陬都市の建築を再現して居たのでは達成されぬ。既に東京は洋臭畸形建築に有りあまつて居る。日本の帝都は唯日本國民の建築的天才を発揮することに依つてのみその特異性を有つであらう。過去に於ける壮観を目睹した私は、かの古代美の精神が再建時代に於いて地に委せらるゝにあらざるかを疑ひ、戦慄禁じ得ざるものがある。勿論私は商舖及び工場の實際的要求が古代建築の或る點と到底両立し得ざるものなることを知る。それ故に私は不可能を強いんとするものではないが、敢えて左の提案を為さうと思ふ。

一 能ふ限り日本建築の様式を總ての公共建築物に取り容れること。
二 洋式の記念建造物及び銅像を斥け、純粹なる日本式の記念建造物を造ること。
三 公園は總て純粹の日本式となすこと。

多くの主要米國都市は、建築美術委員會を設けて總ての公共記念建造物及び建築物の設計を審査せしめて居る。この委員會は公衆の趣味を向上せしむることに非常に成功して居る。勿論建築美術委員と雖も人間なるを以て幾多の誤謬に陥りはしたが、しかし彼等は美に對する公共の興味を喚起し、且つ幾多の畸形的建築物の出現を防止した。故に私は嘗て提案せる永久的帝都建築美術委員會の設置を再び慫慂する。尚保守的な實際家諸君の杞憂を除かんがために、東京に美観及び特異性を與へることは「算盤がとれる」ことを附言したい。世界の各地方から数多の観光客を誘ひ寄せるからである。もしも東京が唯單に近世歐米商業都市の複製に過ぎぬものであつたならば、誰か来遊を思ひ立つ者があらう。もしも日本國民がその帝都に美観と特異性とを與へるために十分なる努力をしなかつたならば、この大災害の傷も癒へ、日本精神が光芒を放つ頃になつて、自ら悔ひ且つ愧づることにならう。(C.ビアード/『東京復興に関する意見』の中から「第十一 帝都の尊厳及び美観に関する考察」)

チャールズ・オースチン・ビアード(Charles A. Beard)大正十二年(1923)九月一日、関東大震災が発生。翌二日に山本権兵衛内閣が成立する。内務大臣に就任した後藤新平は九月五日、ニューヨーク市政調査会専務理事を努めるC.ビアードに招聘を打電。これに応え十月六日、廃墟と化した横浜に上陸したC.ビアードは精力的に被災地を視察。数々の資料と意見とを日本政府に提供した。上記の文章は彼が後藤新平に宛てた意見書を、翌大正十三年十月に財団法人東京市政調査会が冊子で公開した一部。〈Beardのカナ表記は大正当時「ビーアド」だが、本編では便宜上「ビアード」に統一〉

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by hishikai | 2010-04-16 00:19 | 文化
2010年 04月 14日
技術への信仰と不真面目な美
e0130549_1103680.jpg今日明治の建築を仰ぎ見るとき、私たちはそこに様々な様式のあることを知る。あるものはゴシック、あるものはバロック、あるものはルネサンスである。さらに設計者の名前を調べるとき、それら様式が同じ建築家によって使い分けられたものであることを知る。

そのことは明治の建築家にとって様式が技術の一分野であったこと、美しさは構造や材料の問題と同じく技術の習熟によって克服可能な問題で、だからこそ様々な様式に精通し使い分けることが、建築家に必要不可欠の技術であったことを私たちに教えている。

そして明治も暮れようとする頃、我国でも鉄筋コンクリート構造がその堅牢さを以て注目を集める。その先駆者としての佐野利器が『建築家の覚悟』を、やがて教え子の野田俊彦が『建築非芸術論』を発表する。そのとき時代は日露戦役の峠を越え大正となっている。

彼らの論文による衝撃は大きく、野田俊彦は「非芸術論の野田」として有名であったという。今日ではこれを「ヨーロッパ近代建築思想につらなるもの」と評価する見方もあるが、そうした見方は希望的に過ぎるように私には思われる。

明治の建築家が美しさを技術の問題と考え、次世代を継ぐ佐野や野田もまた美しさを技術の問題と考えていたことは同じである。ただ彼らは明治の建築家が必要と考えた「様式という技術」を始め、建築における美の探求の一切を不要だと主張したに過ぎない。

そのような主張からヨーロッパ近代建築思想への、あるかないかの道筋を辿るよりも、もっと直接に彼らの主張に見られる、美しさへの執拗な憎悪、美を不真面目な嗜好品としか認識しない、その歪んだメンタリティーに目を向けるべきではないか。

それは明治を代表する英文学者として「ブルヂヨア文化の最高美を表現した人」と保田與重郎に評された上田敏が我国に紹介した西洋の詩の美しさを、ついに受入れなかった大衆の、胸の奥に秘められた西洋文明への屈折した情念と、同じ情念の暗い炎だと私は思う。

生活に美を考え、建築に美を考え、都市に美を考えることが、日本人の性情にそぐわぬとは思われない。問題は近代を迎えた日本人が、そうした考えを後発国の国情にそぐわぬ嗜好品として拒否した事態にある。その事態は今日でも引き続いて私たちを貧しくている。

『The Bilders』フェルナンド・ロジェ 1950 明るい色を使って人間と技術的環境との調和を楽観的に認めている。こうした絵画を見ると、技術への信仰が日本に限ったわけではないことが知られるが、そうした信仰が日本でとりわけ強かったこともまた一方の事実である。そのことを村松貞次郎は著書『日本近代建築の歴史』で次のように述べている。

「まだ開発途上国であった日本では、機械生産・工業生産の進展こそが、もっとも具体的な近代化であり、極論すれば『善』であったから、そういう望ましい時代の表現を先取りすべき合理的・機械的な設計態度と、そのデザインこそが近代建築のあるべき姿であり、その金科玉条に背くものは唾棄すべき非近代建築とされてしまったのである。ときには『人民の敵』とまでされた」(村松貞次郎/『日本近代建築の歴史』)


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by hishikai | 2010-04-14 01:26 | 文化
2010年 04月 06日
野田俊彦『建築非芸術論』より
e0130549_1025215.jpg※1)建築の實用的目的、自然の気候的壓迫から人間を保護して其生活を完全ならしめんとする目的に何等の貢献もなさないが人に快感を與ふる物がある。凸凹なしに無地にて差支ない壁を縦横に仕切つて之れに繰形を作り柱型を出し彫刻を施したり色分けをしたりする。

見る者に快感を與へんが為である。この種の快感が人間生活を充分に遂行せしむるものとなるとか、其快感が無ければ生きて居られぬとかの理由から人生に貢献するものであり、其快感を生せしむる原因に存在の理由があるかも知れぬと云ふ問題が未だ残つて居る。※2)

而して吾々が若し建築に美が必要であると云ふ事を肯ひ得るとすれば其美は上の如き意味の美でなければならぬ。此れを必要とし不必要とするのは各人の人生観から分かれて来る。快感を感ずる事それ自身人生の幸福を増す物であると考へる者には其美の存在が必要であるかも知れない。

けれ共自分は序に於いて、一も二も無く其の必要を肯定する譯にはいかぬと述べた。※3)吾々には酒や煙草が眞面目な意味で用ゐられては居ない様に其種の美は不眞面目である。酒や煙草は人體に害あるが故に排斥すべきであるが單なる美しきものを作ること事や鑑賞する事は人類に有害ならざる故に許す可きであると言ひ得るであろうか。

酒や煙草を以て自分には事務の進捗に役立つ物であると言ひ、又それが無くては生きて居られぬ故にそれ等は自分には必需品であると言ふ者は必ずやそれ等から受ける快感に慣れて之れから離れる事の出来なくなつた者である。

吾々は快感の刺激物としてより外に意味のない美に慣らされて居る。それから離れる事は出来ない様になつて終つて居るかも知れない。然し決して其の必要を主張し得るものではない。それ等の虚偽な美の無くなる時を理想にしている。斯くて世界は装飾的分子の少しも無くなつた物になる。而かも吾々の人生は其為に荒涼落莫たるものとなるかを怖れる必要は無い。却て眞の美を以て世界が充たされるであろう。(野田俊彦/『建築非芸術論』)

※1)野田は人間の行為の価値は、人類の幸福に貢献するか否かであるとする。そして美を追求する行為は人間を淫らで誤った方向に導くために、無価値であるばかりか有害な行為で、したがって建築を美しくしようとする行為も誤りであると断じている。

※2)この段落に至るまでに※1)の前提から、建築の外観上の装飾についての論駁を終え、あとは野田が言うところの「見る者に快感を與へんが為」の美についての論駁が残るだけであるとの意。

※3)野田は本論冒頭において、例えば食事の目的は栄養素の摂取で、味覚の「快感」を得ることではなく、したがって食事に味覚は必要不可欠の要素とは言えない、それと同じ意味で、建築の目的は自然条件から人間を保護することで、美の「快感」を得ることではなく、したがって建築に美は必要不可欠の要素とは言えないという主張を展開している。

科学で作られた笑い この愉快そうな人は、ギローム・ダッチェン博士が作った電気装置を取り付けられている。装置が強制的に笑いの表情を作り出すのである。19世紀の多くの人々にとって、科学とは信仰と芸術、哲学に代わる希望と幸福への鍵であった。野田俊彦が『建築非芸術論』を発表した大正四年(1915)の日本もまた例外ではなかった。

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by hishikai | 2010-04-06 10:30 | 文化
2010年 04月 03日
無意味の贅事
e0130549_10212174.jpg佐野利器が『建築科の覚悟』で述べているのは、次のようなことであろう。日本の建築家の職務は丈夫で役立つ建築物を廉価に作ることにある、したがって日本の建築家は技術者である、技術者である建築家が芸術を勘案することは不要である。──

その理由として佐野は、日本の富力が到底未だ列強の脚下にも及ばないことを挙げている。列強と同じことをやっていては、富力の差は工業力と軍事力を間にはさみ、現実的な国力の差となって、彼我の距離を加速度的に開かせてしまう、そう考えている。

何か近道を探さねば。実際、明治日本はそうして列強に追いついてきた。案件の成功は外国製の資材を輸入し、国産の設計と運用の工夫で成果を得ることであった。戦艦安芸は一万トンを超える船舶としては、世界で初めてアメリカ製蒸気タービンを積んで快速を誇った。

全てを満足させることはできない、我々は何かを捨て何かを得なければならない。そうした心情は、後発国日本の喫緊の要請であった。そして国民の道徳でさえあった。それが留学中の佐野をして、建築における芸術性を「無意味の贅事」と言わしめたのであろう。

ここで建築における芸術性が不要であるか否かを問う必要はないと思う。一国の文明の表象である建築が、そこに居住する人間の情操に配慮すること無く、ただ丈夫で役に立ち廉価であれば良いなどという議論は成立の余地をもたない。

ただ佐野が「日本の建築家は何であるべきか」に解答を与えた要因に注目したい。「解答を與ふるものは唯一、今日の日本の事情より外ない」そう言っている。「事情」である。ここに「大法(プリンシパル)の把握」を言うF.L.ライトとの根本的な違いがある。

例えば一台の馬車を想像してはどうだろう。車室には御者が乗り、馬を操っている。車室は国家、御者は思想、馬は技術である。佐野は御者(思想)による操縦を拒否している。すると馬(技術)は、道(事情)なりに走るしかない。

そうした姿は日本の近代そのものではないだろうか。馬に曳かれた馬車は風を切って走っていく。御者はまるで玩具のように車室のうえでゴトゴトと揺れている。一体どこで道を誤ったのか、誰にもそれを知る術はない、ただ馬は道のあるままに走っていく。

学士会館 設計は佐野利器と高橋貞太郎。昭和三年(1928)に落成したこの建物は、現在も神保町のオフィスビルの間で佐野の理想を今日に伝えている。二二六事件では第14師団東京警備隊司令部、終戦後はGHQの将校クラブとして接収されている。現在、館内にはレストランやバーが入っていて、なかなか美味しそう。是非一度お邪魔してみたい。登録有形文化財。高橋貞太郎は佐野の教え子で、F.L.ライトの帝国ホテル旧館を取壊した後の、帝国ホテル新館を設計している。高橋は川奈ホテルの設計を手がけるなど、大倉財閥との深い繋がりを伺わせる。川奈ホテルについては稿を改めて紹介したい。彼処はもう最高である。

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by hishikai | 2010-04-03 10:49 | 文化