カテゴリ:文化( 85 )

2010年 04月 01日
佐野利器『建築家の覚悟』より
e0130549_104682.jpg日本の建築家は何であるべきか、懐中字書に依て直にアーキテクト(即ち芸術家)と早合點すべきでない、大學一覧に建築學科をアーキテクチュラル、デパートメントと譯して有つても、夫れは有合の譯語である、文字や、歴史や、學校組織では凡て満足な答は探し得らるべきでない、此問題に解答を與ふるものは唯一、今日の日本の事情より外ないのである、(中略)

國家の要求、茲に記念銅像の台を作るとき、要求は元より純美術であらふ、神社佛閣を作るとき要求は美術が主であらふ、劇場を作るとき、美術上の要求は少くはあるまい、然し以上の如く美術上の要求に多く迫らるゝ場合は建築事情として多くはない、而して建築事情中の大勢力をなす公共的建築、實利的建築を起こす場合の要求は殆ど全部科學である、茲に市町村が學校を作るとき、市町村の念頭には子弟教育所と云ふ實利の外には多く出でない。茲に銀行を作るとき、着實なる支配人の思慮は事務處理の便と其の永続との外余り多くを考ふる暇ない、之を受取つた建築家が眞先に「ゴシックに仕様か、クラシックに仕様か」など、様式如きに襲はれて居やうなどとは夢にも思つて居はしない、

茲に図書館、博物館と一々同じ様な事を繰り返すには當るまい、早い話が、國家が最も多くの経費を投じて造営しつゝあるものは倉庫工場等の如き純科學體である事を考へたならば國家の要求の主なるものは何であるかゞ推想される。

國家當然の要求、余は財政の事に暗いが聞く所に依ると日本國民は一人につき約五十圓づゝの外債を負つて居ると云ふ事である、そんな事を擔ぎ出す迄もなく我國の富力が残念ながら到底未だ列強の脚下にも及ばざる事は誰しも承知の事であらふ、(中略)

現在の國家は正に臥薪嘗膽の時機である事を自覚せねばならぬ、臥薪嘗膽の時機にある國民の覚悟と其の進路とは自ら他と同一では有り得ない、何事も夫れより割り出されねばならぬ西洋文明の直輸入では何時迄経つても間に合ふ時期が来る筈があるまい、して見ると國家の建築的要求は實利を主としたる科学體であり又あるべき事は當然である、無意味の贅事に浮身をやつして居られる時ではないのである。

着實なる國家現在の要求が以上の如くであり又國家現状に見て國民擧げて實利を主とする要求をなすべきが至當であるとすれば日本の建築家は主として須く科學を基本とせる技術家であるべき事は明瞭である、西洋のアーキテクトは何で有らうとも日本は日本の現状に照らして余は此の結論に到達するのである、科學は日に月に進歩する、「如何にして最も強固に最も便益ある建築物を最も廉価に作り得べきか」の問題解決が日本の建築家の主要なる職務でなければならぬ、如何にして國家を装飾すべきかは現在の問題ではないのである、(佐野利器/『建築家の覚悟』)

佐野利器(さのとしかた)東京帝国大学建築科を卒業してドイツに留学、帰国後に東京帝国大学建築科教授に就任。帝都復興院理事、東京市建築局長、日本大学工学部長、清水組副社長を歴任し、戦後は復興建設技術協会会長。上記文章は佐野がドイツから寄稿し、明治四十四年(1911)七月「建築雑誌」に掲載された。

by hishikai | 2010-04-01 10:49 | 文化
2010年 03月 24日
F.L.ライト『新帝国ホテルと建築家の使命』より
e0130549_12225839.jpg東京広しといえども、日本人であれ、西洋人であれ、建築を理解したつもりで建った建物、あるいは建築と名のつく代物、どちらでもよい。その一つとして真に日本に対する愛を表していると言い得る建物があるか。彼等は何れも、まずい手本を、まずく真似た、まずいまがいものである。(中略)

日本はいわゆる洋館を手際よく造ることを覚えてきた──否、かなり旨くもやった。例えれば、かの三菱銀行の様な──棺桶──日本から遠い遠い何処かの国なら誠にふさわしい建物。これが日本と何の関係があるというのか、──屈辱だ──むしろ笑い草だ。現代日本が、いかに自分の姿を見失っているかを明白に示しているに過ぎぬ。(中略)

真個の進歩を将来する努力には、必ず大法(プリンシパル)なる中軸がある。その大法こそは、研究するに値し、把握するに値するものである。そして一旦把握し得たら、そのほかは誠に刃と迎えて解けるのである。日本の建築界に欠けたるものとは、即ちこの大法の把握である。(中略)

日本はまさに悲惨である。特にかつては美に対する特有の概念と完一性への優れたる天性の完璧があっただけ、それだけ更に悲惨である。今や日本の足下に「渉れ」と妖魔の如く横たわる深淵──世界何れの国民が、かつてかくの如く危険な場合に面接したことがあるか。(中略)

日本がよく、この深淵を渉り得たりとすれば、それは真の日本が自分を見出し、それを発達せしめた時である。日本の「個」の特有なる表現に到達した時である。しかもその「個」は今のままではない。更に普遍性に於いて深まり、広まり、更に自身の精神の力に自覚を持って表れてきた時である。

新帝国ホテルは、この混沌下の日本に対する同情の捧げ物、──日本の古きに負う所の多い一人の芸術家が、報恩の意味で日本の建築界に寄与する捧げ物である。同じく建築にたずさわる日本の諸兄が、これによっていくばくかその個性を発見するの一助となるならばとこい願いつつ。

夕ありき朝ありき。夕と朝との別はただ進歩である。一国の生命にあっては、一世紀はまさに一日である。変化はいかに激しくとも、真の進歩は誠に遅々たるものである。日本にひるがえる旗の日の丸、誰か知る、沈む夕日か、昇る朝日か。(F.L.ライト/『新帝国ホテルと建築家の使命』/訳 遠藤新)

前池に影を落とす帝国ホテル旧館 F.L.ライトの設計により大正十二年に落成した帝国ホテル旧館は、栃木県産の大谷石を壁面の素材として豊富に用いるなど、その国柄を意識した個性的な威容は、まさにナショナルホテルと呼ぶにふさわしい品格を備えていた。

by hishikai | 2010-03-24 12:30 | 文化
2010年 03月 19日
東京は美しくなりつこなし
e0130549_1213296.jpg「外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即ち此の如し」永井荷風が江戸見阪上から震災の焼け野原に快哉を叫んでいたとき、残された人々は早くも余煙の向こう側に自分たちの父祖と同じ、あの文明開化の眼差しで新しい東京を幻視していた。

翌大正十三年七月に時事新報社から発行された『新しい東京と建築の話』には、建築家や芸術家の復興への抱負を述べた小論文が集められている。黄色い布表紙には意匠化された太陽と、その中にやはり意匠化された住宅と植栽とが同じ濃赤色で描かれている。

ページをめくると、ある人は耐震構造を、ある人は耐火資材を述べている。帝都復興院建築局長の佐野利器は復興に採用すべき建築様式を述べている。そうした中で建築家の遠藤新だけは、全く別の視点から見解を吐露していて異彩を放つ。以下に抜粋して引用する。

「私はいふ、東京は美しくなりつこなし。一體地震前に一として碌な建築があつたか。一つもない。出来なかつたのだ。頭がないのだ。腕がないのだ。(中略)
 殊に地震で腰をぬかし、おつかなびつくり、一にも耐震、二にも耐震でこしらへて、よいものが出来る道理なし。(中略)
 全體、建築は地震に耐えなくては困る、然し耐えるのが當然なので、建築家の自慢にはならない。建築の使命は一地震に耐えるや、耐えないの小つぽけな所ではなしに、それを越えて、遥に大きな所にある。人生の真実に徹して、美を将来するの真骨頂に触れて居るものは、天下誠に寡しとする。(中略)
 世間は、所謂研究とは、統計の無機的堆積であること、研究家もまた無機的知識の堆積に過ぎないこと、そこから何等断案を期待し得ないことを知らねばならぬ。」(遠藤新/『建築家を坑にせよ』)

このとき遠藤新は三十五歳。七年前よりF.L.ライトに師事して帝国ホテルの建設にチーフアシスタントとして携わっている。その帝国ホテルは落成の日に震災に遭遇しているが、一部を損壊しただけで大きな被害を免れ、その堅牢は一躍世間に知られるところとなっている。

だが遠藤は(建築は地震に)「耐えるのが當然」と云う。もっと「遥に大きな所」を見よ、「美を将来するの真骨頂」を考えよと云う。世間が帝国ホテルの堅牢にだけその価値を見出していることを、日本人の近代文明に対する気質の問題として憂いている。

『大震災の印象』有島生馬 無論のこと後藤新平を中心とした帝都復興院の人々が都市や建築の美しさに無頓着であったというわけではない。戦後の東京の現状に比較すれば、戦前の帝都復興事業の成果は称賛に値する。だがそこで語られるのは技術者の「景観」であっても、芸術家の「美しさ」ではない。近代日本文明の中で、それら二つの価値観が断絶してきた事態には、看過できない問題が潜んでいるように思われる。

by hishikai | 2010-03-19 12:11 | 文化
2010年 01月 22日
永井荷風の尋常ならざる呪詛
e0130549_0441433.jpg明治四十年も暮れようとする暖かい一日、東京の深川不動境内に永井荷風の姿がある。本殿の屋根が夕日に黒くそびえ建ち、参詣の人が二人三人と上り下りする石段の横には易者の机や二、三の露店が並んでいる。阿呆陀羅経の声が子守や子供や大勢の人を集めている。
 
阿呆陀羅経の隣には塵埃で灰色になった髪をぼうぼう生やした盲目の男が、三味線を抱えてしゃがんでいる。男は三味線の調子を合わせるとチントンシャンと弾き出して、低い声で「秋イーの夜」と引張ったところで、白眼をきょろりとさせて仰向ける顔と共に首を斜めに振りながら「夜はーア」と歌う。
 
夕日が左手の梅林から流れて男の横顔を照らしている。しゃがんだ哀れな影が如何にも薄く後ろの石垣に映っている。声は枯れ三味線も上等ではないが、節回しから拍子の間取りが山の手の芸者には聞くことのできない正確な歌沢節である。荷風は男を見つめながら想う。
 
自分は何の理由もなく、かの男は生まれついての盲目ではないような気がした。小学校で地理とか数学とか、事によったら、以前の小学制度で、高等科に英語の初歩位学んだ事はありはしまいか。けれども、江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な「明治」と一致する事が出来ず、家産を失うと共に盲目になった。そして栄華の昔には洒落半分の理想であった芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであろう。その昔、芝居茶屋の混雑、お浚いの座敷の緋毛氈、祭礼の万燈花笠に酔ったその眼は永久に光を失ったばかりに、かえって浅間しい電車や電線や薄ッぺらな西洋づくりを打仰ぐ不幸を知らない。(永井荷風/『深川の唄』)
 
荷風の近代日本への呪詛は尋常ではない。尋常ではないが、亡父の宅地を売却して得た「弐萬参千参百〇四円弐拾銭」という金銭を懐にして社会の外側に身を置く自由よりする批判は倫理性に乏しい。それは紳士然とした身形で下町を散策する残酷な観察者の言葉である。
 
とは云え同様の批判を社会の内側に身を置く苦悶から発した夏目漱石の言葉が、対照的に教科書に載るほどの倫理性を備えていたとしても、それ故に漱石には自己呵責と口ごもりがあり、却って時代と社会のグロテスクを無遠慮に射抜いたのは荷風であるように思われる。その尋常ならざる呪詛は大正十二年十月三日の文章で最高潮に達する。
 
十月三日。快晴。(中略)銀座に出で烏森を過ぎ愛宕下より江戸見阪を登る。阪上に立って来路を顧れば一望唯渺茫たる焦土にして房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れというも愚なリ。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば所謂山師の玄関に異ならず愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば灰燼となりしとて決して惜しむに及ばず。近年世間一般奢侈驕慢貪欲飽くことを知らざりし有様を顧ればこの度の災禍は実に天罰なりと謂うべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失い国幣亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即ち此の如し。自業自得天罰覿面というべきのみ。(永井荷風/『断腸亭日乗』)

『大震災油絵 本郷より見たお茶の水』徳永柳洲 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分、大地震が関東地方を襲った。激震は昼餉の家々に火災を起こし、火は風を呼び、火勢はたちまち東京市の七割をなめ尽くした。死者九万一千名、被害家屋五十二万七千戸。明治以来の帝都は一瞬にして焦土と化した。

by hishikai | 2010-01-22 00:54 | 文化
2009年 12月 25日
五浦行
e0130549_1129693.jpgホテルの部屋から太平洋の夜明けを見ようと思ったが寝坊した。はだけた浴衣を直して遥か沖に眼を凝らせば空と海は一つの灰色に溶け合い、中空には黒い鵜が寒そうに飛んでいる。浜の白い波を辿った北の方角には、岸壁に波濤を打たせて五浦の岬が見える。

五浦は岡倉天心が明治三十九年に横山大観や菱田春草らを伴って東京から移り住んだ処で、初めて此所を訪れた天心は、草むらに顔を埋めたまましばらく動かなかったと伝えられ、今日でも岩礁に砕け散る怒濤を眼下として松林から遠く大洋を望む景勝の地である。

もっとも天心が五浦に移り住んだのは、東京美術学校の校長職を追われた後に、自ら設立した日本美術院の、その理想が世に理解されずに経営が困窮したためで、それが新聞紙上に「美術院の都落ち」と書かれたように、彼としても本望であったわけではない。

その理想について一つの逸話がある。小林古径が天心の推薦で前田公爵から日英展覧会出品の「加賀鳶」の依頼を受けたとき、天心は下絵を見た後で古径に向かって「加賀鳶が江戸風俗だからといって師宣ぐらいを考えちゃいけません」と云ったという。

古径はこれを、もっと高いところに標準を置け、信貴山縁起ぐらいの高さで描いてみよ、という意味に受け取ったという。江戸風俗を信貴山縁起の高さで描く。これは日本人が鎖国の眠りの中で忘れていた世界史的な高雅であった。

今日でも私達は正倉院や法隆寺にある奈良朝の世界精神に瞠目するが、それは同時に、当時のアジアの豊かさを物語っている。そこに植民地となった近代のアジアを重ねるとき、明治日本の灯すべき美術意識は、そうしたアジアの世界史的変遷と切離すことができない。

だから天心は、アジアに唯一孤塁を護り、アジア文明の博物館である日本国の美術は、奈良朝の高さを保った民族的熱情の具現でなければならず、今度はこれをシルクロードの隊商とは正反対の方向に伝播させることで、アジアに復興の希望を示そうとした。

その果ての五浦行である。それは、凍れる音楽の学校唱歌への敗北、王政復古の文明開化への敗北だった。「神様、あなたのなさることには感心できないことがある」岡倉天心は、そう云って五十一年の生涯を閉じた。大正二年九月二日午前七時三分であった。

五浦の少し南に位置する磯原の浜辺。ここのホテルにはバーラウンジがあると聞いていたが、扉を開けて店にあったのはカラオケセットであった。そこで私は「空の神兵」を歌い、それを聞いたママさんは「お若いのによくご存知ね」と云った。ありがとうございます。瞑目。

by hishikai | 2009-12-25 11:38 | 文化
2009年 11月 14日
大倉ひとみさんの「陋巷画日記」
e0130549_923159.jpg昭和十二年に発表された永井荷風の小説『墨東綺譚』の主人公・大江匡は馴染みの商女お雪から「あなた、おかみさんにしてくれない」と告げられ彼女のもとを去って自ら失恋する。これは大江が妻となったお雪の「一変して救ふ可からざる懶婦となるか、然らざれば制御しがたい悍婦になる」ことを惧れたからである。

戦後、これに否定的な評言をしたのは平野謙である。彼は昭和三十九年『芸術と実生活』の中で「『おかみさんにしてくれない』とさえいえば、懶婦か悍婦たらんと希うものと誤認する根性は、小金持の若旦那が人さえ寄ってくれば金をひきだす算段かと邪推するのと一般ではないか」と荷風の構想を痛罵している。

こうした対立はどう捉えたらよいであろうか。遡って大正四年に発表された『日和下駄』で永井荷風は、近代の思考に移ろう日本人一般と底辺社会との関係、その中で衰微してゆく日本的な美しさについて次のように述べている。

「場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し来ったそのままなる日陰の生活がある。(中略)かくのごときはかない裏淋しい諦めの精神修養が漸次新時代の教育その他のために消滅し、いたずらに覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私はその時こそ真に下層社会の悲惨な生活が開始せられるのだ。そして政治家と新聞記者とが十分に私欲を満たす時が来るのだと信じている」

こうした考えを念頭に『墨東綺譚』を読むならばこう云えると思う。お雪さんは、それが身をひさぐ女性の社会的な弱さから仕方なく強いられたものであるせよ、江戸時代から伝襲し来ったそのままなる日陰の生活、はかない裏淋しい諦めの精神修養の表象である。だがそれが世間並みの自尊心を持つとき、彼女は真に近代社会の悲惨な生活に転落する。大江匡はそれを見るに忍びなかったのだ、と。

しかしこのような解釈に対する戸惑いと拒絶は、戦後人権思想を植え付けられた私たちの脳裏にはいつでもある。平野謙の否定的評言は、その典型的な現れであると云ってよい。だがそうした戸惑いと拒絶は「美を道徳的に判断する」思考に他ならない。

そしてその思考が国風の美の理解と相容れないばかりか、その美しさの国民的理解を妨げてきたのである。むしろいにしえの日本人はその正反対を考えてきた。「道徳を美的に判断する」これである。これは万葉古今以来の古典を素直に読めば明らかで、ここに私たちは人権思想による改竄の一点一画も加えてはならない。

こうした国風の「道徳を美的に判断する」意識は大倉ひとみさんの絵画にもあると思う。それは彼女の個展「陋巷画日記」に銘された「陋巷」が、今日ではマンションや雑居ビルに埋もれるように建っているという現実の中で、大倉さんが周囲の一切を捨象して「陋巷」それ自体に美しさを集めていることからも分かる。

「陋巷」は戦後的発想に従うならば忌むべきものである。試しに現実と同じに周囲の建物を描くならば、比較の上から「陋巷」は貧民窟となり、その印象は私たち戦後人の脳裏で道徳的主張を始めるであろう。それは荷風の言葉を借りるならば、覚醒と反抗の新空気、政治家と新聞記者の私欲、懶婦か悍婦と変わるところがない。

しかし大倉さんの描く、この世を夢とあきらめ暮らすようなぽつねんとした「陋巷」は、古来より伝襲し来ったそのままなる日陰の生活、はかない裏淋しい諦めの精神の表象として、紅い灯や青い灯、時代遅れの丸い窓、小さなステンドグラス、三日月の下に佇む赤錆びたトタンの美しさを教えて呉れる。

そして視る者を、その折れ曲がって先の見えない、昔はアーケードやパラダイスと呼ばれた誰もいない裏路地の奥へと誘う。そんな夢想を許してくれる大倉さんの「陋巷」は、たぶん荷風のお雪さんと同じ夢の中で泣く、哀しいミューズの化身なのである。妄言多罪。

今日の都市で「陋巷」を探すことは至難の業となっている。殊に東京の下町を散策すると一層そのことを実感する。本当は戦前の建物があれば好いのだが、現実は望むべくもない。それは近年の都市開発よりも、むしろ東京大空襲によるところが大きいのであろう。

by hishikai | 2009-11-14 09:05 | 文化
2009年 10月 03日
『上海バンスキング』
e0130549_13403345.jpg明るいシャンデリア 輝く盃 麗しきジャズの音に 踊るは上海リル 今日はあの御方と 明日はあの御方と 悩ましき姿は 私の上海リル いつでも朗らかに見せかける だけどリルおまえは 泣いてるよ 涙をば隠して笑顔で迎える 可愛い 可愛い 私の上海リル(上海リル/訳詞:津田出之 作曲:H.Warren)

『上海バンスキング』の好いところは、私たちの過去にも帰るべき場所のあることを教えて呉れたことである。それは耳なし芳一の墓場の平家屋敷ではなく、歌舞伎十八番の荒唐無稽な享楽でもない。もっとしっかりとした歴史的記憶の桃源郷である。

歴史を道徳で断罪することなく、ありのままの時間を過去へと遡れば自然に辿り着く桃源郷である。それがアジア諸国民の犠牲による悪辣な夢だというのならば、産業革命からの世界史はやり直さなければならず、そんな企ての方がよほど悪辣な夢だと言わねばならない。

アール・デコ様式のクラブ、澱んだ空気と紅い酒、ダンスと一夜の放蕩、朝のアパートメントの白いシーツ、窓から流れ込む風、客船の泊まる港、どこまでも広がる青い空、中国人の馬車、摩天楼に沈む夕日、そしてまたクラブ。

芝居が終わっても、夢の舞台の幕が上がれば桃源郷はいつでもそこにある。たとえ幕切れが失望感と一緒に私たちを現在に戻しても、街に厳然として残る戦前のモダンな建築物たちは私たちがルキアノスのような空想家ではないことを告げている。

そうした歴史的記憶の桃源郷を心に描いて、それを何らかの形で実体化していくことは画一化された価値世界に対するレジスタンスとなる。戦後の白々しい道徳と多数者による民主主義が、私たちの父祖の歴史に有罪判決を下すことへの美意識からの抵抗運動となる。

「光の三原色をあわせれば白色になるわけだが、明るさのことでいえば、スポットライトからカラーフィルターをぬいた方が明るいに決まっている、にもかかわらず三色のフィルターが入っているのは何故か。舞台の上の踊り子の衣装のちょっとしたシワや、影の部分が、かすかに赤や青や黄色ににじむのだ。同じ白色光線でも、この方が華やかに見える。僕たち戦後民主主義の青空は、蛍光灯の明るさだ。なにも、植民地をその経済構造をぬきにノスタルジックに礼讃しているのではない。しかし、僕たちの青春の、あの翳りのない明るさに腹が立つのだ。」(斎藤憐/『昭和のバンスキングたち』)

1934年、黄浦江に架かるガーデンブリッジの畔に完成したアール・デコ様式のブロードウェイマンション。

ブログランキング・にほんブログ村へ

by hishikai | 2009-10-03 14:24 | 文化
2009年 06月 11日
二葉亭の自問
e0130549_3541338.jpg二葉亭四迷は悲劇の人であるという。そうだとしても彼の人生が悲劇なのは、彼が新聞社の通信員としてペテルブルグに赴き、生活の経済苦に悩み、肺病を患い、祖国の家族宛てに遺言状を書き、シベリア鉄道に乗る体力もなく、南回りで帰国する途中のベンガル湾上で眠るように死んだからではないと思う。

彼を有力な文学者であり思想人と認めるならば、彼の人生の悲劇は、彼がその七転八倒の生涯の果てに掴んだあの自問、『平凡』の中に書いたあの自問の意味を、その後の日本人、特に文学者や思想人が理解しなかったことにあると云うべきではないか。その自問を積極的に展開すれば次のO・シュペングラーの文章にもなる。

《行為者、即ち運命の人間だけが結局のところ、現実の世界に生活するからである。これは政治的な、戦闘的な、また経済的な決断の世界であり、そこでは概念や体系は数に入らないのである。そこでは巧みな斬り込みは巧みな結論よりも価値がある。

そして世界史は智能のために、科学のために、または芸術のために存在すると考えた三文文士や紙食虫を、あらゆる時代の軍人と政治家とが軽蔑していたが、その軽蔑には意味がある。我々はそれをはっきり言う。感覚から離れた理解は人生の一面に過ぎないで、しかも決定的側面ではない。》(西洋の没落/O・シュペングラー)

二葉亭以後の人々は考え方の射程を長く取り過ぎたのではないか。長い棹で星を採ろうとして挫折し、政治と芸術、物質と精神を久遠の対極と諦めた。その諦めが政治主義の殺伐と芸術至上の無気力を生んだのではないか。むしろ長い棹など使わずに手許のコインを裏返してみれば、そこに星が映っていたかも知れないのに。

それが二葉亭の云う「物質界と表裏して詩人や哲学者が顧みぬ精神界」で、自然主義文学運動が個人生活の告白に固執し、プロレタリア文学運動が文学を民衆教化の道具とするに固執して、どちらも社会的広がりを喪失したことは、物質界と表裏して在る精神界を考えない人々の、青白くも当然の結果ではなかっただろうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ

by hishikai | 2009-06-11 04:04 | 文化
2009年 06月 09日
二葉亭四迷
e0130549_12173580.jpg明治十四年(1881)五月、長谷川辰之助があれほど執拗にこだわった陸軍士官学校を諦め、東京外国語学校露語学科に入学した動機は「将来日本の深慮大患となるのはロシアに極まっている」(『予が半生の懺悔』)という志士気質で、それが日露戦争勃発の二十三年も前であることを考えれば先見ではある。

だが実際に辰之助がロシア語の授業に発見したのは、ロシア文学に於ける社会性という、謂わば小説という器が聖書や仏典に匹敵する思想を、感性に訴える描写によって盛ることができるという、当時の我国の文学状況からすれば驚くべき感覚であったが、それは同時に国家の必要としない感覚でもあった。

これは辰之助に終生つきまとう経済苦によっても知られる。というのは明治十九年(1886)に彼は矢野二郎校長の説得を振切って退校しており──矢野の鹿鳴館で福沢諭吉に野次を飛ばす凡俗が合わなかったであろう──いかに卓抜な感覚の発見者であろうとも、現実に国家の求めぬ中退者である以上生活の途は少ない。

そして辰之助の胸中に宿ったのは、世界の真理を探り出して衆人の世渡を助ける小説家であるべしという自負と、極東アジア情勢を俯瞰して変革を促す実践家であるべしという二重の自負で、このうち彼の人生に先ず訪れた小説家であるべしの自負が、処女作『浮雲』の発表となって現われる。

『浮雲』は世上の評判も高かったが、辰之助自身は「殆ど読むに堪へぬまでなり」と断じている。つまり二葉亭四迷(くたばって仕舞え!)である。次に訪れたのはアジア変革の実践者であるべしの自負で、それがウラジオ、ハルビン、北京への放浪となって現われる。しかしこの放浪も見るべき成果をあげない。

挫折した辰之助は、やがて自らにこう問いかけている「(私は)所謂物質文明は今世紀の人を支配する精神の発動だと、何故思れなかつたらう? 物質界と表裏して詩人や哲学者が顧みぬ精神界が別にあると、何故思れなかつたらう? 人間の意識の表面に浮だ別天地の精神界と違つて、此の精神界は着実で、有力で、吾々の生存に大関係があつて、政治家は即ち此精神界を相手に仕事をするものだと、何故思れなかつたらう?」(『平凡』)

ブログランキング・にほんブログ村へ

by hishikai | 2009-06-09 12:28 | 文化
2009年 06月 01日
李陵幻想
e0130549_12591493.jpg中島敦に小説『李陵』がある。漢の武帝の天漢二年(前99)武将李陵は匈奴を討つべく歩卒五千を率いて辺境の城塞を発した。アルタイ山脈の東南端がゴビ砂漠に接する丘陵地帯を縫って北行三十日。遂に匈奴の主力十万と遭遇して勇戦奮闘すること十余日、全軍斬死を覚悟して挑んだ最後の一戦で李陵は匈奴に捕らわれる。

匈奴に於ける李陵の待遇は丁重を極めた。だが彼は心を開かない。せめて匈奴王の首を──そう考えている。やがて「李陵が匈奴に軍略を授けている」との誤報が都に知らされると武帝は激怒して李陵の一族を皆殺しにした。涙も出ない──憶えば祖父は廉潔な将軍だが不遇であった。そして今は一族まで。李陵は国を捨てた。

これに先立つ事一年。蘇武という男が匈奴に囚われていた。そもそも彼は漢の使節として来訪したが、匈奴の内紛に巻込まれて幽囚の身となっていたのである。降伏を迫られて応ぜず、穴ぐらの獄で飢えを凌いだ。今は遥かバイカル湖の畔で使節の旗竿を握ったまま孤独に耐えている。李陵と蘇武は旧い友人であった。

李陵は匈奴の高官となり妻を娶り子をもうけている。その彼が蘇武に降伏を促す使節として辺境を訪れ、蒼い水辺で再会した時は互いに感激で言葉もなかった。その夜は丸木小屋に歓笑の声が響いた。数年後、李陵が再び北海を訪れて武帝の崩御を知らせた時、蘇武は南に向かって慟哭した。李陵はその純粋に圧倒された。

やがて蘇武の生存が都に知らされて呼び戻されることになった。自分の過去を決して非なりとは思わない李陵も、さすがに天は見ていたのだという考えに心を打たれた。己の事情は愚痴でしかない。別れの宴席でも李陵は一言もそれについて言わなかった。ただ、宴たけなわにして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌った。

万里を径きて砂漠を渡り、君の将となりて匈奴に奮う。路窮まりて絶え、矢刃くだけ、士衆滅びて名すでに落つ。老母すでに死し、恩を報いんと欲すれど、まさにいずくにか帰らん。歌っている中に声が顫え涙が頬を伝わった。女々しいぞと自ら叱りながら、どうしようもなかった。蘇武は十九年ぶりで祖国に帰って行った。

以前に東京国立博物館の正倉院展で、多くの観客の最後列でようやくのこと背伸びをしながら僅かに螺鈿紫檀五弦琵琶を見たとき、私の脳裏に浮んだのがこの『李陵』だった。時代も起源も異なるが、あの別れの宴で李陵の歌を伴奏したのは、何故かこのような琵琶であった気がしてならない。

ブログランキング・にほんブログ村へ

by hishikai | 2009-06-01 13:10 | 文化