カテゴリ:文化( 85 )

2009年 05月 29日
やまと くにばら
e0130549_11211618.jpgみほとけ の うつら まなこ に いにしへ の やまと くにばら かすみて ある らし(會津八一)

奈良を旅して、古い寺の金堂の薄暗い中に佇んで仏を拝し仰ぎ見るとき、まず胸に去来するのがこの感慨で、それを三十二の文字に言い尽くしている會津八一の歌は見事というよりない。仏の眼に映る古の姿は霞んであるらしと詠んでいる。「いにしへ」という過去が「ある」という現在に結びついて頼もしい。

「やまと くにばら」を今日の言葉で云えば、大和地方とか、奈良盆地となるのかも知れない。正確な意味というのではないが、印象として「やまと くにばら」は「まほろば」に近く、それは現実の地理を超えて、日本人の遠い淵源を誇り高く云った言葉であるように思われる。

そして私はこの歌に未来のないことを喜びたい。過去を詠い、民族の淵源を詠い、現在を詠い、そこでふっつりと歌の終っていることを喜びたい。過去と現在の間で、民族の古の姿が匂い立つような霞に包まれ、その光景が、人々の祈りに慈悲の心で応えてきた仏のまなこに宿るという、優しい詩情を喜びたい。

今日では明るい未来と云う。しかしその考えは過去と現在への不服を力としている。明るい未来は、暗い過去と現在のあることを前提としている。かつてあるドイツ人が「これまでの一切の社会秩序を強力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する」と記したのは、その正直な告白である。

明るい未来は必然として明るい未来社会の建設を目指し、明るい未来社会の建設は必然として過去と現在を否定する。そして過去と現在が歴史・文化・伝統を包含するために、明るい未来社会の建設は必然として「強力的に転覆する」対象に、歴史・文化・伝統を選び出す。

それは私達日本人の考え方ではない。私達日本人は未来に身を投げ出すことを自然の感情としない。私達は「やまと くにばら」のあることを信じる。「やまと くにばら」のあることを信じるとは、自身を歴史・文化・伝統の化身と成し、過去の先頭に立ち、かけがえのない現在に踏み堪えて生きることを云う。

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by hishikai | 2009-05-29 11:26 | 文化
2009年 05月 26日
阿修羅王
e0130549_0463778.jpg奈良の阿修羅王はガンダーラの名匠問答師の作と伝えられてきた。ある日ガンダーラの見生王に東方の光明皇后を拝すべしと夢告があり、王は問答師を遣わす。艱難辛苦の末ようやく日本に漂着した彼が皇后に拝謁して彫写を願い出たところ、その条件に示されたのが興福寺西金堂の造仏で、阿修羅王もその一つであるという。

今日では百済の将軍万福の作とするのが定説で、そのことは正倉院文書に記されてあるらしい。純粋学術の方面から云えばそうかも知れないが、阿修羅王の褐色の肌と骨張った体つき、裳からすらりと伸びた細い足と履物には西域の情趣が漂う。問答師の素朴な伝説には人間の感覚の真実が感じられる。

造立は天平六年(734)頃という。長屋王の死を暁鶏とした天平は美しい名にそぐわぬ暗雲を宿していた。朝廷の文物は調和ある写実主義の黄金期であったが、地方では旱魃や地震が相次ぎ、幾度かの大赦は効験を示さなかった。藤原の四卿は疫病に斃れ、聖武天皇が「朕不徳を以て実にこの災」と痛恨のうちに詔せられた。

阿修羅王の眼に映ったのは人間の塗炭の苦しみであったか。後に和辻哲郎が『古寺巡礼』で「その作品はうまいけれども小さい」と評したことは良いことである。人間と同じ高さで地獄に寄添っている。司馬遼太郎が『奈良散歩』で「心の器が幼すぎるために、慈悲にまで昇華しない」と述べたことは本質を衝いている。

それというのも、あの面差しである。その前におそるおそる進んで仰ぎ見ると、はっとした感動を受ける。そこには思いがけずも人間の苦悩を知り、ともに眉を寄せて憂いながら、為す術なく立ちつくす鬼神の哀しい顔が待っている。細い蜘蛛手のような六本の腕が奇怪であればあるほど、その面差しは拝する者の胸を打つ。

これほどの繊細が如何にして為ったかは不思議という他ない。造仏には統率者を中心に様々な部工が集められたという。そして脱乾漆の作業に漆工がいたことは間違いない。ならば彼らが専門として鍛えた伎楽面の人間の喜怒哀楽を凝視する精神が、阿修羅王の面差しに反映されたとは考えられないだろうか。

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by hishikai | 2009-05-26 01:12 | 文化
2009年 05月 03日
一身にして二生を経るが如く
e0130549_23302478.jpg「一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるがごとし」と福沢諭吉は『文明論之概略』に記した。福沢諭吉は実学を尊び開明の精神を説いた人として知られ、それだけに旧時代のわだかまりとは無縁のままに生きた印象があるが、この言葉からは、彼の歴史にもやはり苦い経験のあったことが判る。

それは福沢諭吉一人のみならず、維新の変革とそれにひきつづく急激な価値の転換により、歴史の表舞台が容赦なく場面を換え、これに順応できず、あるいは順応することを潔よしとしなかった人々の、世の中の奈落へと落ちてゆく無念の心までをも云い表しているように思える。

英語や蘭語の小唄が宴席を賑わせ、隅田川から直接に舟で乗り付けてくる芸者達のまなかいには薔薇の花壇を巡らせた洋館があるという、江戸と西洋が交錯して奇妙に光り輝いた桂川サロンは、それでも福沢諭吉を始め、朝野新聞社長の成島柳北、我国化学工業の基礎を築いた宇都宮三郎など明治の成功者を輩出した。

その中で福沢の言葉を身に沁みて聞いたのは桂川サロンの主人、元将軍家奥医師桂川甫周その人であったかも知れない。明治維新の後、甫周は築地の千二百坪の敷地と屋敷を新政府に没収され、本所割下水辺の六畳一間きりの家に住んだ。娘のみねは、眠れぬ夜に有為変転の世をじっと考え続けていた父の姿を思い出すという。

あるいは将軍の小姓役を努めた石川右近は白無垢の礼装で物乞いをした。慶応三年(1867)からパリに滞在して徳川幕府への大規模な借款を交渉しながら、幕府瓦解で空しく帰国し、榎本艦隊への合流も拒絶して帰農した栗本鋤雲は、この話を聞いて「石川右近に先鞭を着けられた、いまいましい」と膝を叩いて叫んだ。

このような精神の形相は、例えば平和主義から戦前を批判する体の歴史からは到底理解できない。敗戦後のことにしてもそうだが、私達は歴史を実用に供し過ぎたか、さもなければ実用に使えぬ歴史に無関心であり過ぎた。そうして、ただ人の心を丹念に追ってゆくだけの歴史を考えなかった。

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by hishikai | 2009-05-03 23:36 | 文化
2009年 04月 29日
終焉の輝き
e0130549_15187.jpg誰も自殺するつもりでしたから、毎日毎日が生きてるそらもなく、こんな遊びで堪えていなければならぬように徳川の方は胸が苦しいのでございます。(中略)桜の咲くころには船を花の下にとめたり、そら雪だ月だと隅田川に日夜を明かして帰るといったわけで、外目には正気の沙汰ではないようですが、ほんとうは国を思い家をおもって青くなってしまったのでございました。(名ごりの夢/今泉みね)

幕末に桂川甫周の屋敷は洋学知識人達のサロンであった。その時代にそぐわぬような典雅、奇妙な輝きについては、例えば「ズーフ・ハルマ」を考えてもよい。ズーフ・ハルマはナポレオン戦争の頃長崎に駐在したカピタン・ズーフが端緒をつけ、その後も通詞らが編纂と補訂を続け天保四年(1833)に大成した蘭和の辞書である。

そのズーフ・ハルマは公式に三部、あとは民間の謄写本が密かに流布していたが、それも大阪の緒方洪庵の塾でさえ福沢諭吉ら塾生五十人に一冊の写本があったという稀少本で、この状況を憂い幕府の公許を得て安政五年(1858)に『和蘭字彙』として刊行し、同本の普及に尽力したのが当時33才の桂川甫周であった。

しかし福沢諭吉が横浜で蘭語の通じないことに衝撃を受けて英語の学習を始めたのが安政六年(1859)、蕃書調所頭取の古賀謹堂が英学の必要を幕府に建言したのが万延元年(1860)と、この頃すでに学問の需要は蘭学から英学へと移り変わっており、ここに桂川甫周が早い遊興の余生を送らざるを得ない背景があった。

これを今泉みねは「こんな遊びで堪えていなければ」と云う。だがもう少し酷薄に見るならば「外目には正気の沙汰ではない」桂川サロンの奇妙な輝きの本当の原因は、無用の人となった桂川甫周の寛容が、未来への野心を隠し持った洋学知識人達に攘夷の嵐からの避難場所を与えたことにあったと云うこともできる。

とはいえ時代の終焉に奇妙な輝きがあることも事実で、源平争乱の最中に輝いた後鳥羽院のサロンがそうであったし、大日本帝国の敗亡にもその輝きはあった。それは橋川文三が大東亜戦争末期を回想して「悠久な夏の季節を思わせる日々であった」と云ったその奇妙さが、冒頭の引用文にある奇妙さと似ていることからも判る。

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by hishikai | 2009-04-29 15:04 | 文化
2009年 04月 27日
江戸の遊びと明治の遊び
e0130549_11305299.jpg昭和十年『なごりの夢』で幕末の実景を語った今泉みねの生家は、代々蘭方医として幕府に仕える桂川家であった。みねの父桂川家七代甫周(ほしゅう)は文政九年(1826)に生まれ、21才で十四代将軍家慶の奧医師となっている。みねの語るところによれば、甫周は役者のような風貌で、重々しい中にも粋な素養を持ち、香を焚き染めた着物をぞろっと着る「まるで婦人のような」人物であった。

住まいは現在の東京都中央区築地七丁目付近の千二百坪の敷地内にあり、そこに成島柳北、柳川春三、宇都宮三郎、神田孝平、箕作秋坪、福沢諭吉といった当時の新知識人達が集い、芸妓を招き端唄を唄い、桜の下に舟を浮かべて詩歌に耽り、月を眺め雪を愛で、ときには彼らが天麩羅を揚げて芸妓をもてなし遊んだという。

しかし明治になると遊びは一変し『東洋百華美人伝』が伝えるところによると、ある晩、長刀美服の高官達が料亭に芸妓を招いて宴を催した時のこと、詩の高吟や剣舞の披露が終ると裸相撲が提案され、芸妓達が戸惑っていると、やおら一人の高官が立上がり真剣を床柱に斬り込んだので、芸妓達はやむを得ず裸で相撲をとる。

高官達はこれに喜び、起って畳七八枚を重ねてこの上に座り、大杯で酒を飲み、勝った者には四五両より七八両を与えた。この乱痴気騒ぎが終り、料亭の主人が彼らを舟で送ったところ、彼らの中に木戸孝允や大久保利通など名士の含まれていたことが判ったという。

これは薩長武士が田舎者であるばかりでなく、明治という時代が価値の正統を立身出世主義に置いたことによる。立身出世主義は社会を自身の成功が試される公器と看做す思想で、その禁欲と解放を表裏とする構造が、実生活での昼の精勤と夜の放埒に対応し、これが「遊び」を「憂晴らし」へと転落させる仕組となっている。

幕末までの遊びが洗練された型へ欲望を飼い馴らしていく行為であるとすれば、明治の遊びは既存の型を破壊し欲望を開放していく行為である。前者は社会生活より上位に優越して廃滅し、後者は社会生活より下位に陋劣して存続した。これが時として社会的制約を逸脱して憚らない現在の「レジャー」の原型となっている。

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by hishikai | 2009-04-27 11:32 | 文化
2009年 04月 22日
隅田川
e0130549_14325685.jpg隅田川が最も汚れていたのは1960年代であろうか。近くの安田学園では授業中も匂いが酷いので困ったということを、当時そこに通った学力優秀な方々が、もつ焼き屋のカウンターでハイボールを片手に真っ赤な顔でゲラゲラ笑いながら話されているのを、先日も私は同じ電燈の下で頬杖をしながら聞いた。

今日ではそれも随分と良くなっているが、それでも東京下町の川の風情というものには、例えば滝田ゆうの絵の猥雑や、例えば嘉村礒多の小説の「川口を通う船の青い灯、赤い灯が暗い水の面に美しく乱れていた」というような哀切を強調する目的から、その汚れを借景として利用する意識が働いている。

ところが『名ごりの夢』という昭和十年に八十一才だった今泉みねの幕末回想記を読んでみると、その頃の隅田川に借景とすべき汚れは存在しなかったようだ。それは『伊勢物語』や謡曲『隅田川』に登場する川の美しさを詠う江戸の風情と、都市生活の猥雑と哀切を詠う東京の風情との端的な違いを示して、こう述べている。

私の幼いころのすみだ川は実にきれいでした。「すみた川水の底まで涼しさの とほりて見ゆる夏の夜の月」とどなたやらのお歌にもありましたように、真底きれいで水晶をとかしたとでも申しましょうか。家はちょうど両国橋とみくら橋との間のようなところにございまして、みちを隔てて大河に面しておりましたから、すみだ川の四季折々の眺めはほしいままでございました。

物見のお窓から背のびして垣間見た私の幼時の記憶にのこっていますものの中で、ただ今も忘られず美しかったとまぼろしのように憶い出でますのは、鏡のような静かな水の面にうかんだ屋根舟でした。それが花見のころとか月のよい晩などには、よけいきれいな人をたくさんにのせて、のんびりと川の面を行き交う風情はほんとに浮世絵そのままでございます。

橋のあたりを舟はすべるように行く、チャンチャラチャンと三下りの都々逸かなにか、三味線の音は水にひびくようです。その調子やひびきに、まったく水は馴れています。そうして船頭は大てい浴衣一枚、それもほんとにちょっと手をとおしているばかりなのを風にふかせて、くるくるっと細く撚った手拭いを頭にのっけてるようにした鉢巻、肥どろかつぎのしているような仕方とはまるでちがって、見るからに威勢はよいのです。

そしてふりまわす棹の雫はパラッと玉のように散る⋯⋯とても今は見られない味わいの深い光景だったと思います。当時は別になんの考えもありませんで見ていたのですけれど、後になってもう一度見たり聞いたりしたいというおもいは止まないのでございます。(名ごりの夢/今泉みね)

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by hishikai | 2009-04-22 14:37 | 文化
2009年 04月 17日
洲崎
e0130549_113585.jpgいくら泣いても喚いても、町を離れた洲崎の土手。昼でもあるか更ける夜に、往来希な雨上がり。湿りがちなる汐風に、途切れた雲の星明かり、微かに聞こえる弁天の、茶屋の端歌や中木場の、木遣りの声を寝耳に聞き、いなごやばったと割り床に、露の情けの草枕。お主としっぽり濡れる気だ。どうで汚れた上からは、ここで器用に抱かれて寝やれ。(網模様燈籠菊桐/河竹黙阿弥)

歌舞伎狂言『網模様燈籠菊桐』の一場面。稲妻走る洲崎土手、小猿七之助が奥女中滝川を手込めにしようと吐く台詞。洲崎は江戸の昔から、春は潮干狩り、秋は月見で賑わう行楽の地であったが、同時に江戸南端の淋しい海浜の地でもあった。その明暗深い洲崎の原風景と後の歴史への予感を、この台詞は見事に描き切っている。

明治21年、吉原と並び隆盛を誇った根津遊廓が、近隣の帝大生への風紀よろしからずという理由で、──帝大生諸君の無念もよそに──新しい洲崎の埋立て地へと移されたことが洲崎遊廓の始めとなった。東京湾を向うに芝、品川の灯を望む夜景には独特の情趣があったという。広津柳浪は『浅瀬の浪』にこう書いた。

遥かに見ゆる芝浦の料理店には酒客の灯火低く、高きは愛宕の塔か。一点、又一点白金台より伊皿子台に連なり、千点集まる処は品川の青楼か。(中略)点々尽る辺三四高く掛つて星かとも見ゆるは、夜泊夢は穏やかなる帝国の軍艦であつて、その四半時毎に夜を警むる鐘の音は、人をして不覚に無限の感を惹かしむる。(浅瀬の浪/広津柳浪)

柳家三亀松は深川に生まれ、若くして洲崎に遊んだ。その芸歴の始めに新内流しだった頃、彼は此処で三味線を弾き歩いていた。「新内さん」と二階から女の声。「へい」と流しが答える。「蘭蝶をお願いしますよ」「ありがとう存じます」⋯。明治に妓楼160軒で娼妓1700人、大正に妓楼270軒で娼妓2000人を数えた。

日本が降伏した時、洲崎は焼け野原だった。復興後は半分がバラック住宅になり、遊廓は特殊飲食店と名を改めて「洲崎パラダイス」のネオンを灯した。そして昭和33年、売春防止法が施行され、洲崎遊廓は70年の歴史を閉じた。更正寮で女性達の一日の食費は61円66銭、東京都の野良犬勾留所で犬の餌代は79円55銭だった。

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by hishikai | 2009-04-17 11:17 | 文化
2009年 04月 14日
『赤線地帯』
e0130549_20543724.jpg『赤線地帯』という映画がある。昭和31年大映の配給で、監督は溝口健二。売春禁止法成立前夜の吉原歓楽街を舞台に、サロン「夢の里」で身をひさぐ女性たちの、苦境にあえぎながらも互いに励まし合って生きる姿を、京マチコ、若尾文子、三益愛子、小暮実千代、町田博子、沢村貞子らの女優陣で描いている。

この脚本は一部が昭和29年頃発表された芝木好子の『洲崎の女』によると言われている。『洲崎の女』は洲崎歓楽街に生きる登代が、実家に預けていた子供から絶縁を宣告されたことを契機に、偶然目撃した近所の子供の溺死と、空襲で子供と海中に避難した記憶とが重なって、やがて洲崎の海に引き込まれてゆく物語である。

これが『赤線地帯』では、三益愛子演じるゆめ子が、仕送りで育てた子供が成長して工場で働き始め、ここに訪ねたところ、子供から「汚い」と罵られ絶縁を宣告されたことで、やがて発狂するという、その人物のモチーフになっていて、これが脚本の一部『洲崎の女』によるということの意味の全部となっている。

では他の女性たちのモチーフは何処か。それは多くが昭和29年に発表された大河内昌子の『よしわら』にある。ここに収められた柳沼澄子の小説『石の上に咲く花』に登場する店の若い衆、栄公は菅原謙二演じる同じ栄公で、彼が連れて来る京マチコ演じるミッキーは小説ではサリーで、共に米兵を客とした経歴を持つ。

同じく京マチコ演じるミッキーの関西出身で、土地の名士であるが放蕩を尽くす父を憎み、虐げられた母に強い同情を示す設定は、あい子の手記『能面』と同じで、稼ぎを分配する席で沢村貞子演じる辰子の言う「やすみちゃんは、はいトップ、あとはドングリの背比べ」という台詞もまた『石の上に咲く花』に同じくある。

また三益愛子演じるゆめ子が子供を預けた田舎に行き、停留所近くの茶店で、何処の村まで行くのかと尋ねられた時の台詞「村なんか聞かないでもさ、また来る時は来るよ」も、あきの手記『帰郷』にあり、川上康子演じるしづ子が親子丼を食べて感激する場面は、より江の手記『親子丼』にある。

そのより江という名前は町田博子演じる女性の名前になっており、小暮実千代演じる病気の夫と小さな子供を抱える通いの女性、はなえという設定は二三子の手記『ある日記』に見られる。このように『赤線地帯』は『よしわら』から多くを得ているが、どうしてか世に知らされた時には芥川賞作家の名前一つきりになっていた。

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by hishikai | 2009-04-14 20:04 | 文化
2009年 03月 25日
一高の野球
e0130549_191198.jpg明治五年(1872)のある日、開校して間もない第一大学区第一番中学の校庭に一人のアメリカ人教師が立った。手にはバットとボールを握っている。彼は生徒達に一声合図を掛けたかと思うと、ボールを空中に放り投げ、バットで打った。彼の名はホーレス・ウィルソン。我国にベースボールを伝えた最初の一人となった。

やがて第一番中学は東京開成学校から東京帝国大学へと名称を改めたが、ベースボールはその予備門である第一高等学校、いわゆる一高へと受継がれた。寮の前庭は朝夕のノック場、土手下はキャッチボール場、グラウンドは昼食後のノック場と試合場になった。終日、一高に球音の絶えることはなかった。

明治二十三年(1890)五月二日。一高と明治学院の試合中に、一高の応援団が明治学院の教師W・インブリーに暴力を加える不祥事「インブリー事件」が発生した。一高はこれを重く受止めた。彼らは自らの実力不足が原因であると考えたのだ。そして名誉挽回のため、悲壮なまでに激しくストイックな練習を積んだ。

明治二十七年(1894)その名称も「一高ベースボール会」から「野球部」と改め、すでに国内に敵なしの状態だった一高野球部は、明治二十九年(1896)五月二十三日、遂に横浜外人アマチュアクラブの美しい芝生のグラウンドに立った。初回に先制を許し、隠し球の洗礼も受けたが、敢然と攻めてこれを29対4で破った。

この試合を報道した『The Gazette』は書いた。「学生軍は我がアメリカ人居住者に、アメリカの国技であるこのゲームは、このようにやるのだということを示してくれた」と。やがて時代は移り、早慶戦華やかなりし時に早稲田大学監督を努めた飛田穂洲は、当時の一高野球を想い起こして、次のように述べた。

「一高の野球は全く精神を基調としたものであり、心の洗練を主にして行われた野球であった。(中略)この武士道こそ、旧一高野球の核心をなした。彼らの野球は人間道をまっしぐらに進んだ。実にわきめもふらなかった。その真摯が全校生徒の魂を引きつけ、日本の全学生を風靡した」(球道半世紀/飛田穂洲)

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by hishikai | 2009-03-25 19:31 | 文化
2009年 03月 20日
平曲
e0130549_13243412.jpg平曲というものがある。それは何といって、要するに耳無し法一が何処ぞの大きな屋敷と思って、実は平氏一門の墓所で弾き語っていたあれで、今日その印象を一言で云えば「死者の声」である。それは確かに音楽に違いないが、現代人の思い浮べる音楽が西洋文明の産物で、それが光であるとすれば、平曲は影である。

時に地を這うような低い声で吟じたかと思えば、時に天空を浮遊する如くに高い声で吟じる。そうかと思えば突如として平易な調子で、昨日の出来事を語り聞かせる如くに話し出す。その歌唱は懸命に生きる人の有様を、草叢の蔭からじっと耳を澄まして観察していた盲人が、誰かにその有様を教えようとする伝聞に聴こえる。

歌唱がひとしきり済むと琵琶が奏でられる。それは単純で、今日私達の云う演奏の語に値しない。演奏が静寂を音で埋めてゆく作業であるとすれば、琵琶の奏では音で静寂を確認してゆく作業である。それは僧が読経の合間に叩く鐘の余韻が、やがて消え逝く刹那に人がはっと周囲の静寂に気付く、あの感慨に等しい。

そうした歌唱と演奏で語られるのは『平家物語』で、他にはない。そして、これを伝えてきたのは琵琶法師と呼ばれた人々で、彼らは唯ひたすらに口から伝えて耳で覚え、風の吹く日も吹かぬ日も、ある時は貴人の屋敷に招かれ、ある時は陋屋の門に立ってこれを語ってきた。『徒然草』はその最初の人を生仏という名で伝えている。

私も以前に第一人者である今井検校勉氏が東下されて一段を聞かせるというので、確か国立劇場に出掛けたことがあった。その時は清元節との抱き合せで、贔屓の清元節を熱心に聴いていた連中が、いざ今井氏の出番になると忽ちに私語を始めるという有様で、あの時ほど東京人の馬鹿さ加減を思い知ったことはなかった。

それ以来、私は部屋の雨戸を閉切った暗闇で独り平曲のCDを聴く。そして暗黒を見詰めて死者を待つ。やがて微かな金色の光が射すと、その中に冠直衣の貴人や、威しも鮮やかな甲冑武者が現れて、今はもう届かない過去を有々と再現してくれる。そこでは昔の風に昔の木の葉が揺れている。昔の花が爛漫と咲き誇っている。

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by hishikai | 2009-03-20 14:00 | 文化