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2008年 03月 09日
遠い影絵
e0130549_11471489.jpg山手線に揺られて秋葉原のビル群を眺めていると、ここがかつて江戸と呼ばれた街なのかと不思議に思えることがある。アキバ系の混沌こそ日本の個性なのだという人もいるが、それでも自国の文化を「和のテイスト」などと聞くとやはり気が滅入る。永井荷風は明治の東京から江戸の風情が消えて逝くのを悲しみ惜しんだが、今やそれすら偲ばれる。

「苫のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸の船頭を照らす。川沿いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、ほりものした裸の男と酒を飲んでいるのが見える。水門の忍び返しから老木の松が水の上に枝を延ばした庭構え。燈影しずかな料理屋の二階から芸者の歌う唄が聞こえる。月が出る。倉庫の屋根のかげになって、片側は真っ暗な河岸縁を新内流しが通る」(永井荷風/深川の唄)

団子坂下で買った江戸錦という、海苔の多めに巻いてある霰せんべいを頬張りながら清元志寿太夫を聞く。さて何を読もうか。樋口一葉は小唄、広津柳浪は新内、清元だとやはり岡本綺堂だろうか。

「若い女をおどしにかけて白状させたと云われちゃあ、御用聞きの名折れになる。おれはおとなしくおめえに云って聞かせるのだ。その積もりで、まあ聞け。宮戸川のお光には此の頃いい旦那が出来て、当人も仕合わせ、おふくろも喜んでいる。ところが、その旦那には女房がある。これがお定まりのやきもちで、いろいろのごたごたが起こる。その挙げ句の果てに、女房は二日の晩にこの大川へ飛び込んだ。亭主もいい心持はしねえから、ひょっとすると、その枕もとへ女房の幽霊でも出るのかも知れねえ。そこで自分も大川へ来て、ひとに知れねえように、南無阿弥陀仏か南無妙法蓮華経を唱えている。話の筋はまあこうだ。大道占いはどんな卦を置いたか知らねえが、おれの天眼鏡の方が見透しの筈だ。おい、どうだ。おれにもいくらか見料を出してもよかろう」(岡本綺堂/半七捕物帳)

遠い影絵を見るようだ。古い日本の色がある。それにしても東京のビル群が教えて呉れていることは、東京は江戸を滅ぼして出来た別の文明ということだ。だから私がいつも思うのは、全てを討ち滅ぼしたその後で、葛籠の中に取り遺された印半纏をひっ被り、澄ました顔で江戸の後裔を名乗ることは精神の偽装じゃないかということだ。江戸っ児じゃあない、東京っ児だ。都合のいい時だけ化けようとしても、そうは問屋が卸しちゃいけない。そうだろう、徳さん。

by hishikai | 2008-03-09 11:48 | 文化
2008年 03月 06日
春信の絵
e0130549_19421993.jpg過去の事象というものを考えるときに、私達は今現在の立ち位置から過去へ目掛けて吹き下ろしていくように思考を巡らせがちであるが、時間の流れの実際に従うならば、私達はその思考を遠い過去から現在の私達に向けて吹き上げるように巡らせるべきであろうと思う。

例えば鈴木春信の絵を目の前に置いて、この絵の背後にはどのような音曲が流れているのであろうかと考えるときに、現在の立ち位置から思考を吹き下ろしたときには、今も歌舞伎座などで演奏されている音程のしっかりとした均整の取れた邦楽を想像するのであるが、これを向う側から吹き上げるように考えるときには、その背後に流れる音曲に琵琶平曲から出雲の阿国を経て彦根屏風に達するであろう、あの不揃いな哀愁を帯びた、華やかさよりもむしろ世の果敢なさを唱うことを旨とした古曲を選びだすのではなかろうか。

鈴木春信が活躍したのは明和年間であるから、あと百年程で明治維新でもあり、そのような絵に古曲をあてるのは余りに中世の余韻を長く想定し過ぎるのではないかと、もしそのように思われた方は試しに清元でも常磐津でも長唄でもよいから現代の名人といわれる人々の演奏と、桃山晴衣により復元された貞享年間の古曲とを聞き比べながら春信の絵を眺めてみて欲しい。

私自信これを試して春信の絵が何のためらいもなく古曲に寄り添うのを感得して驚き、またみるみるうちにその絵が放蕩のデカダンスから、凡俗を軽侮する洗練された文人趣味のそれへと変化するのを目の当たりにするに至り二度驚いたのである。

平曲の仏教的な無常感は、古曲にあって現世的な世の果敢なさへとその重心をシフトしていると私には感ぜられるのであるが、それと同じ歩調で春信の絵は現世の凡俗に歩み寄って対決し、その一切をシャットアウトしている。植物性絵具の穏やかな色彩も、斜に構えた女の姿態も、白いすねを覗かせて風に舞う着物の裾も、それら凡俗の汚濁をひらりとかわして精神で拒絶しているのだ。

したがって鑑賞者が例えば歌磨呂の描く女の向う側にそのモデルを探り、長い射程の全体で歌磨呂の世界を堪能する過程とは対照的に、春信の場合には鑑賞者は紙の上に刷り出された女その虚構そのものに対して性的なアプローチを投げかけることとなる。なぜならば春信が凡俗の汚濁を拒絶した結果として、画中の女は向う側にモデルを想起せしめるに必要な現実的な肉感を失い、果ては女であるのか男であるのかといった両性の境すらも失っているためである。

しかしそれでも鑑賞者が彼の性的なアプローチに対して著しく用意を欠いた、通常の性の対象とはなり得ないその女に対して、あたかも青い渋柿を無理矢理かじり切るように挑みかかるとき、彼の心に発生する淫靡な罪悪感が裏返しとなり、禁忌を犯すエロティシズムとして香り立つ。それが鈴木春信の絵の魅力であろうと思う。

by hishikai | 2008-03-06 20:06 | 文化
2008年 03月 04日
竹生島
e0130549_1256750.jpg夏の一日、桃山の名残りを見ようと竹生島を訊ねたことがある。切立つ島影を琵琶湖の水面に映して悠々と浮かぶこの小島に上陸して散策すると、やがて宝厳寺唐門に出逢う。豊臣秀頼の命で豊国廟から移築されたと伝えられる唐門は華麗な彫物の上に丸みの強い屋根を乗せて、その豪奢を重みとして建物全体を深い緑の中に沈めている。

近くに寄って彫物に触れると、その彫り跡の粗いことが認められる。線も放埒で歪みが多く、シンメトリーな意匠も実際にはそうではない。子供っぽい楽観を危ういバランスで造形に引き留めて、それがために返って生命力溢れる表現となっている。

一体にこういうものは何であろうか。確かに言えることは、ここには万葉や古今の詩魂を意図的な渋味の内に再構築しようとする、人工と慇懃に満ちた京都的な古い教養がないということだ。例えばあの東山銀閣のような計算され尽くした渋味をここに見ることはない。この風通しの良い傍若無人は時代を築いた織田信長と豊臣秀吉の気風であろう。

歴史を顧みると京都的な古い教養に対して武士の採り得る態度は、平氏や足利氏のように迎合し同化してしまうか、木曽義仲のように煩悶の内に破滅するかの何れかであると思われるが、どちらを選ぶにせよ、彼らをしてそうさせるのは己を田舎者と認めるコンプレックスのゆえである。

しかし信長と秀吉にはそれがない。己の田舎者を恥じない人達である。創意工夫によって弱小な一族から身を興した彼らのような人間に、古代の詩魂を二番煎じにした無批判な記憶学問は馴染まない。そのような田舎者を恥じない気風が京都的な古い教養を無視して異形の花を咲かせた、その事態を指して桃山と呼ぶのだろう。

もっともその傍若無人が後の時代に受け継がれなかったことは、東照宮の媚びた表現を思い浮かべると明らかで、歴史の常とはいえ残念でならない。宝厳寺唐門の気風が信長と秀吉であるとして、東照宮陽明門の気風が徳川家康であるならば、あの現実主義者のねちっこい精神が、職人の感性を政治の道具として小さく抑え込んでいることは想像に難くない。

桃山の彫物は親方が大まかな意匠を描き、多くの弟子が手分けをして彫るのであろう。牡丹を彫り、唐獅子を彫り、杜若を彫り、水流を彫る。その際にはのびのびと、多少の歪みは気にかけずに、それよりも小さくせせっこましくならぬように、サッササッサと楽しげに彫ったのであろう。そういうことが四百年を経た今日でも見る者に伝わってくる。それが竹生島に遺る桃山である。

by hishikai | 2008-03-04 12:59 | 文化
2008年 02月 27日
白描女絵
e0130549_21161033.jpg白描女絵というものがある。鎌倉時代末期から室町時代にかけて流行した物語絵の一種であるが、女子の手すさびに描かれたためか、またその制作経緯や内容に不明な点が多いためか、ともかく今日にいたるまで取り立てて評価を与えられずにあるように思う。

墨色のみによる白描画は、それより以前の平安末期から写経の下絵として、或いは似絵の公卿図や歌仙絵として存在しているのであるが、物語絵としての白描画というものは、定家の明月記に『更科日記』を右京大夫尼がとくに墨絵で描いたとあるのが知られるのみで、これが今日にまで伝わっていないので、その様式が不明なままである。

このような事情で鎌倉末期の『隆房卿艶詞絵巻』の出現は、白描女絵という様式が突然、それも名も知られぬ一個の天才によって虚空から掴み出されてきたかのような印象を現在の私達に与える。それほどまで藤原隆房と小督局の悲恋を描いたこの作品は出色の出来なのだ。

特にその第一段は桜の花咲く春の月夜を前景として、寝殿造りの邸内で柱にもたれ掛かる一人の貴公子と、やや離れて座る二人の盛装の女を描き、その濡れたように重く流れる黒髪に落花が白く点々と散りかかる有様は墨色のみによる精緻な構成の内に、永遠に続くかと思われる澄みきった静寂を描き出すことに成功している。

これにやや後れて現われるのが『豊明絵草子』である。実はこの物語の題名は不明で、詞書の冒頭「豊明のよなよなは」から仮に『豊明絵草子』と呼ばれているに過ぎない。この内容は人生の無常を深く想う一人の貴公子が、極楽往生を求めて変転する運命に生きるという、如何にも中世的なものとなっている。

御多分に漏れずこのような話は、富貴の生活を送り貧窮の悩みも卑賤の醜さも知らず、人への憐れみも知らない貴公子が突如として襲い来る非運の中で出家剃髪し念仏三昧の末、阿弥陀の来迎に随喜しながら息絶えるというお定まりものであるが、諸行無常にもマルクス階級史観にも興味のない私のような不届きものは、この富貴の生活が描かれる耽美を最も上位に考えるのである。

『豊明絵草子』は前述の『隆房卿艶詞絵巻』に比較して邸内の調度品に繊細な紋様が加えられ、なおかつ目の表現も一線に点描を加えて愛らしい表情となり、それが全体に工芸的な美観と濃密な雰囲気を醸し出している。とはいえ硬い形式主義に堕することなく、溝引によるであろう御簾の平行線は奇跡的なまでに細かく、それがわずかな風にそよぐ有様は胸を掻きむしられるような風情である。

これと同じ頃の制作と思われるのが『枕草子絵巻』である。こちらは内容がご存知枕草子であるために、更に豪華な宮中の調度品と居並ぶ公卿殿上人と女房たちを描かねばならず、空間の取り方やレイアウトが非常に難しいのではないかと想像されるのであるが、この作者の構成力は驚嘆に値するほどに正確である。また調度品の紋様、服飾の重なり方、黒髪の流麗な流れも洗練されており、おそらくこの作品が白描女絵の最高峰にあるのではないかと思われる。

by hishikai | 2008-02-27 21:25 | 文化
2008年 02月 04日
国の虚構と文学
e0130549_12431193.jpg林達夫は終戦の報に接し、我ながら驚いた人情の自然と述べ、複雑なそして単純な無念の思いに滂沱として落涙する。「日本よ、さらば」それが彼の感慨であった。そのとき林達夫の胸に去来した日本は、もはや一つの心のあり方であったのではないか。心のあり方としての国。これが何によって形作られてきたかということに私は文学の虚構を考えたい。

人は各々の事象に記号が与えられていることを理解した上で、これを整序して世界を把握している。この整序された記号を文法に則って表出すれば、他者に対して何事かを伝達することができるが、こと内容が心のあり方であるときに、これを通り一遍に行うことでは言語はその伝達機能を十分に果たし得ない。

そこで私達の先人は着眼点を一旦事実から切り離して虚構を創作し、そこで用いられる言葉のあやによって心のあり方を伝えようとしてきた。和歌や俳句、物語といった文学はこの位置にある。それは虚構でありながら虚構でしか伝えられない心への必要である。

古事記、古今和歌集、伊勢物語、平家物語、奥の細道等々々々。虚構が堆積して重なりあうところ、更に抽象された虚構が心に結ばれる。それが心のあり方としての国であると断言してよいかどうか、私の力では心許ないが、私はそのような道筋を想像している。

いやそうではない、それを形作ったのは現実の日常ではないのかという見方もあると思うが、その現実の日常で接する人の人情や、ふと感じる自然の美しさの理解を教えたのは、やはり文学の虚構であるとは考えられないだろうか。

「春の花をたずね、秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もなく、何をもかはもとの心ともすべき」と言ったのは藤原俊成だが、これが独り文学者の傲慢であるか否かは各人が各人の胸に問えば答は自ずと明かであると思う。

国の滅亡に想起される国。それが文学の虚構に形作られた国、心のあり方としての国であるといえば、けしからんということになるかもしれないが、そのような実務家の心理の背景には、国民国家形成の過程から文化を引き離そうとする戦後的な怯えが影を落としているのではないか。

国の先行きを憂うときに私達はとかく現実の方面に目を奪われがちであるが、それを重要と認めた上で、それよりもさらに痛切な心で国の虚構を思うべきである。漆の底に沈む金箔をまばたき一つも惜しんで凝視する、そのような心持で国の虚構を思うべきである。

by hishikai | 2008-02-04 18:01 | 文化