カテゴリ:大東亜戦争( 10 )

2011年 03月 08日
『太平洋の奇跡』を観て
e0130549_16142913.jpg私は谷崎潤一郎の『細雪』を読みながら、映画『太平洋の奇跡』の上映を待った。『細雪』の日本人は友禅を纏い嵐山に花見をし、神戸港に洋行の客船を見送り、オリエンタルホテルで見合いをし、歌舞伎座で六代目菊五郎に陶然とし、銀座のローマイヤーで食事をする。

そして『太平洋の奇跡』を観て、そこに展開される光景、バンザイ突撃、洞窟での自決、汗じみた白いブラウスにモンペ、山中を彷徨う人々、焼けたトタン板、収容所、密林に息をひそめる兵隊、それらが、どう考えても一種の奇観であるように感じられた。

それはおそらく、昭和十一年から十五年の『細雪』と昭和十九年から二十年の『太平洋の奇跡』とでは、豊かさも風俗も違うことを承知していながら、昭和モダニズムとサイパン島を同じ時間上に並べて見る実感が、少なくとも私には無かったということであろうと思う。

つまりは、あのバンザイ突撃で次々と倒れてゆく兵隊のうち幾人かは、かつてのモダンボーイで、汗じみた白いブラウスにモンペ姿の女性たちの幾人かは、かつてのモダンガールであったということを、これまで本当には考えてこなかったということであろう。

モダンボーイやモダンガールだけではなく、あの戦争の死者たちが、日本書紀の遠い昔から抜出してきたのではなく、少し前まで小説を読み、映画を観て、美衣美食を愉しんだ人々であったことをもっと考えなければ、私は人間の歴史を取り逃がしてしまうと思った。

by hishikai | 2011-03-08 16:23 | 大東亜戦争
2009年 08月 18日
親泊朝省
e0130549_2382811.jpg保元元年(1156)いわゆる保元の乱で、崇徳上皇の招に応じた源為朝は敗れ近江で捕えられたが、斬らるべき運命を後白河帝に赦され伊豆大島に流された。やがて為朝は旧臣らと共に琉球へ渡り、此の地で豪族の妹を妻として男児をもうけ、その子が後の舜天王となり尚王朝の祖となったことは琉球正史『中山世鑑』の伝えるところである。

それから七百年後の明治三十六年(1903)著名な教育者であった親泊朝擢(おやどまり・ちょうたく)の子、親泊朝省(ともみ)は尚王朝の一族として先祖と同じく「朝」の一字を継いで沖縄に生まれた。幼い頃より読書が好きで作文を得意とした温順な少年は、自ら一念発起して熊本陸軍地方幼年学校へ入学した。

親泊朝省はここで終生の友となる菅波三郎と出会う。二人は同じ熊幼出身生徒として三ヶ年の後には、共に東京市ヶ谷の陸軍士官学校へ進み、大正十二年(1923)陸軍士官学校予科を卒業した。その後、親泊は羅南の騎兵第二十七聯隊第二中隊に士官候補生として入隊。そこで中隊教官を努める西田税(みつぐ)少尉を知る。

「羅南には素晴しい先輩がいる。是非君に会わせたい人だ」その頃、鹿児島の歩兵第四十五聯隊にいた菅波三郎に届いた親泊の手紙には、西田税の名が誇らしげに記してあった。それから二年後の大正十四年、陸軍士官学校本科を首席で卒業すると再び羅南の原隊に復帰。昭和五年には菅波三郎の妹英子を妻に迎えた。

昭和六年(1931)満州事変勃発に伴って出征し翌七年、南満州錦西城で張学良軍に包囲された第二十七聯隊本部を奪還。聯隊長が戦死という激戦の中で小隊を率いて本部へ突入して軍旗を護る。昭和十年、長女靖子誕生。昭和十一年、二二六事件。軍当局による一審即決の裁判により西田税は死刑。菅波三郎は禁錮五年の刑を受けて軍を追われた。

騎兵少佐に進んだ昭和十四年、陸軍大学校専科に進み翌十五年に卒業すると広東方面に展開する第三十八師団の作戦主任参謀に就任。この年、長男朝邦誕生。昭和十六年、大東亜戦争勃発。第三十八師団は香港攻略戦に従い、次いでジャワ攻略戦、十七年秋には米軍の反攻が本格化したガダルカナル島にその鉾先を転じた。

極端な糧食の不足と疫病の蔓延により損耗の激しいガ島守備隊は翌年二月に撤収。そのとき迎えの艦船に乗り込む守備隊兵士の、あるいは杖にすがり、あるいは軍刀を突き、あるいは戦友相扶け、あるいは戦友の背に負われ疲弊した姿に、迎えの兵士たちは男泣きに泣いた。親泊朝省も見る影もなく痩せ衰えていた。

大本営情報部勤務を命ぜられ昭和十八年秋、東京に帰来。民間の報道機関に戦況を報知する任務に従事するも「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することができない。心の中では申し訳ないと詫び続けている。ほんとうに辛い職務だ」と羅南時代の部下に洩らしていた。そして昭和二十年、終戦。

同年九月三日早朝、目黒の菅波三郎宅に親泊の隣家なる米屋が駆けつける。──「親泊様、御一家御一同御自害、相果てられました」──菅波は小石川の親泊宅へ急行する。玄関の扉を排して二階へ駆け上がると、八畳間に盛装をした親子が四人、右から朝省、英子、靖子、朝邦の順に並び、朝の光の中で眠るように息絶えていた。

軍服の朝省と盛装をして薄化粧の英子は拳銃でこめかみを射ち抜き、十歳の靖子と五歳の朝邦は青酸カリを呑んでいた。菅波の発見は三日であったが自決はその前日、九月二日であったかも知れない。だとすれば、それはミズーリ艦上で大日本帝国の降伏文章調印式のあったその日、また『中山世鑑』の伝える源為朝が近江で捕えられた、その日である。

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by hishikai | 2009-08-18 23:25 | 大東亜戦争
2009年 08月 14日
雑考三題
e0130549_10404679.jpgモツ焼屋でハイボールを飲む。お盆だというのに客が多い。古い店には不似合いな白い蛍光灯に蛾が一匹とまって、その下で扇風機がブーンと唸って首を振る。カウンターに若いサラリーマンの一団。その中の一人がワイシャツの袖をまくりながら「僕は小泉純一郎も竹中平蔵も嫌いです。彼らはついに責任をとらなかった」と云う。悲憤慷慨の様子。

深夜帰宅して野坂昭如の『「終戦日記」を読む』を読む。《近衛、鈴木、米内、阿南、十日から十四日までの、胸のうちは計り難い。御聖断という形に委せ、各自が、責任をとらなかったことは確かであろう》の一文が目を引く。近衛さんと阿南さんは自殺している。仮に彼らが生きて奮闘しても、それで責任をとったと人は云うだろうか。責任とは一体何か。

                    ◆

『火垂るの墓』は一度観て、もう観ないことに決めた。理由は自分でもよくわからないが、どうもいけない。もう亡くなったが私の義父があの世代で、彼もあれを観なかった。理由を尋ねたこともなければ、話すこともなかったが、ただテレビで偶々あれがかかると、彼は黙ってチャンネルを回してしまう。以下は野坂昭如が自身の妹の死について書いた一文。

春江で、新聞、ラジオ、大人と無縁の生活をしていたぼくは、そのような世間の動きすら、知らない。変化といえば、ぼくの妹が餓死したこと。妹の無惨非業の死を悲しみはしない。重荷から解放された気分が強い。妹の遺体を、猛々しく葉先をのばす、一面水田の中の、五坪ほどの石のカマドで荼毘に付した。(野坂昭如/『「終戦日記」を読む』)

                    ◆

昭和二十年八月十五日に天皇陛下の御放送があり、その後、日本人は変わったという。二十八日に占領軍が進駐し、その半月後に言論統制が始まり、十二月に「太平洋戦争」という呼称が使われる。ジャーナリズムはそれら占領政策と歩みを一つにして、軍閥の腐敗、大本営発表の虚偽、精神主義の愚劣を書き立て、やがて日本人は一億総民主主義者となる。

それら民主主義者はどこから来て、それまでどこにいたのか。あるいは天から降り、あるいは地から湧いたのか。占領政策の影響もさることながら、日本人には省みるべき軽佻があり、浮薄があるのではないか。今もそれは同じで、最近の世論調査やインターネットに表れる強烈な民主党支持者たちは、一体どこから来て、それまでどこにいたというのであろうか。

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by hishikai | 2009-08-14 22:00 | 大東亜戦争
2009年 08月 12日
『海底のやうな光』
e0130549_7273753.jpg
 朝や黄昏など、特に風景の美しかつた太田川の下流、私どもの住んでゐた町の土手から降りて行く河原に火事をさけてすごした六日、そして七日と八日、その間に見た現実は、この世のほかの絵巻であった。私はそれを凄惨だつたとは思ひたくない。危険と忍耐と、純粋な民族感への満ち足りた感情との三日間乞食のやうに河原に起き伏した短い日、私たちはどんな貴族よりも高い精神のなかに呼吸してゐた。死骸と並んで寝ることも恐れぬ忍耐の限度を見た。おびただしい人の群のたれも泣かない。誰も自己の感情を語らない。日本人は敏捷ではないが、極度につつましく真面目だといふことを、死んで行く人の多い河原の三日間でまざまざと見た。
(中略)
 七日になつて河原に来た救護班の手当てをうけた。この日になつて昨日の異様な空襲が、新兵器のはじめての使用であつたことをきいた。七日の夜から八日の朝、また昼にかけて人々はばたばたと倒れた。七日の夜は朝まできれいな東京の言葉で「お父さまアお母さまアーいいのよウーいいのよウ。おかへりあそばせエー」と絶叫しつづける若い娘の声が聞えた。「気がちがつたのね」私たちは涙を流しとほした。
 新兵器の残忍性を否定することは出来ない。だが私は精神は兵器によつて焼き払ふ術もないと思つた。あの爆弾は戦争を早く止めたい故に、使つた側の恥辱である。ドイツが敗北した。ドイツを軽蔑できなかつたと同じに、あの新型爆弾といふものを尊敬することはできない。広島市の被害は結果的に深く大きいけれど、もしその情景が醜悪だつたならば、それは相手方の醜悪さである。広島市は醜悪ではなかつた。むしろ犠牲者の美しさで、戦争の終局を飾つたものと思ひたい。

(大田洋子 著/『海底のやうな光──原子爆弾の空襲に遭つて』「朝日新聞」昭和二十年八月三十日)桶谷秀昭 著『昭和精神史』より引用

写真:長崎に投下された原子爆弾〈Fat Man〉によるキノコ雲

by hishikai | 2009-08-12 07:50 | 大東亜戦争
2009年 08月 04日
平泉澄のこと
e0130549_1625861.jpg丸山眞男は1938年に国史学担任であった平泉澄の授業を聴講し、後年その様子をこう述べている。新田義貞の後醍醐天皇への忠誠を話す時に澎湃(ほうはい)として涙をながすんですね(笑)、北畠親房と呼び捨てはダメ、必ず卿を付けねばいけない。皇室を中心にして忠臣と逆賊しかいない。「そういう『日本思想史』です」(笑)。

ここでの笑いは滑稽なものを眺める時のそれではなく、特高警察にビンタを喰らい、簑田胸喜ら国粋主義者に散々脅かされた記憶の、その〈無法者〉の価値観と、その源泉であるかのような学者を帝大の教授に据えた人々に対する深い軽蔑が笑いとなって現れたもので、場面としてはグロテスクでさえある。

こうした嘲笑には他者を否定する愉悦があり、聞く者も少しばかり利巧になった気がするために受入れられやすい。そして、その愉悦を噛み締めながら読むのが丸山眞男の魅力であろうが、しかしながら、それは人間の自然な感情を揺さぶる力を持たない。そのような力はむしろ嘲笑された平泉澄の、例えば以下に引用する文章に多く含まれている。

 昭和二十七年四月、占領は解除せられ、日本は独立しました。長い間、口を封ぜられ、きびしく監視せられていた私も、ようやく追放解除になりました。
 一年たって昭和二十八年五月二日、先賢の八十年祭に福井へ参りましたところ、出て来たついでに成和中学校で講話を頼まれました。その中学を私は知らず、中学生は私を知らず、知らぬ者と知らぬ者とが、予期せざる対面で、いわば遭遇戦でありました。講話は極めて短時間で、要旨は簡単明瞭でありました。
 「皆さん! 皆さんはお気の毒に、長くアメリカの占領下に在って、事実を事実として教えられることが許されていなかった。今や占領は終わった。重要な史実は、正しくこれを知らねばならぬ。」
 と説き起こして、二、三の重要なる歴史事実を説きました。その時の生徒の顔、感動に輝く瞳、それを私は永久に忘れないでしょう。生徒一千、瞳は二千、その二千の瞳は、私が壇上に在れば壇上の私に集中し、話し終わって壇を下りれば壇下の私に集中しました。見るというようなものではなく、射るという感じでした。
 帰ろうとして外へ出た時、生徒は一斉に外へ出て私を取巻き、私がタクシーに乗れば、タクシーを取巻いて、タクシーの屋根の上へまで這い上がって来ました。彼らは黙って何一ついわず、何一つ乱暴はしない。ただ私を見つめ、私から離れまいとするようでした。ようやくにして別れて帰った私は、二三日後、その生徒たちから、真情流露する手紙を、男の子からも、女の子からも、数通貰いました。私の一生を通じて、最も感動の深い講演でありました。

(平泉澄 著/『物語日本史』〈序〉より)


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by hishikai | 2009-08-04 16:33 | 大東亜戦争
2009年 01月 04日
人間宣言
e0130549_13203627.jpg朕ト爾等國民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。(年頭、國運振興の詔書/昭和二十一年一月一日)

今日の風潮からいえば、天皇が人間であるか否かを問うことは狂気に等しいのかも知れない。しかしこの詔書、いわゆる「人間宣言」が渙発された当時は、少なからぬ驚きが日本人の心にあったようだ。中野重治は「あらゆる偽ものも、天皇ほどのづうづうしさをみせたものは一人もいない」と『アカハタ』に書いた。

また橋川文三は「この宣言が引きおこしたある名状しがたい衝撃の記憶は、私自身の内部に今もなお明らかに残っているばかりか、それにともなって生じた日本人の生命そのものの意味の転生についても、私はいくつかの忘れえない事例を知っている」と『中間者の眼』に書いた。

「現御神」はCIE(総指令部民間情報局)による原文では「divine」、これを邦訳した詔書原案では「神の裔」とある。これが「現御神」と訂された経緯には木下道雄侍従次長の介入があり、それは天皇が「生き神」であることを否定しながら、同時に紀記神話との連続性を確保しようとしたかのようだ。

ともかくも日本人に示されたのが『年頭、國運振興の詔書』であったことに変わりはない。そして、これを一個の数式として戦前と戦後の間に置いてみるならば、右辺と左辺の関係に明らかな矛盾がある。これまではここを、当時の新聞は概ね歓迎の論調であったとか、象徴天皇制こそ本来の姿だなどと言って切り抜けてきた。

だがそうしたことは、玉砕という「高貴な事柄」が敵に理解されない事を天下の不思議と考えた戦中の発想と表裏ではないのか。それは時節に迎合するあまりに、自己の感情を通して見た現実を普遍的な事実と見てしまうことに他ならないのではないか。

多くの人々の尊い血で書き綴られた日本近代史を俯瞰してみるならば、三島由紀夫が『英霊の聲』に書いたように「人間宣言」は、それら死者達への裏切りだという見方が、最も率直に事実を言い当てているのではないか。

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by hishikai | 2009-01-04 13:44 | 大東亜戦争
2008年 12月 19日
廃虚の季節
e0130549_14595223.jpg「じっさいあの『廃虚』の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた希有の時間であった。ぼくらがいかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に超歴史的で、永遠な要素がそこにはあった。(中略)ぼくらはその一時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に変えてしまうこともできるように思ったのである。(中略)そのせいか、ぼくには戦前のことよりも、戦後数年の記憶の方が、はるかに遠い時代のことのように錯覚されるのだが、これはぼくだけのことであろうか?
 ともあれ、そのようにあの戦後を感じとった人間の眼には、いわゆる『戦後の終焉』と、それにともなう正常な社会過程の復帰とは、かえって、ある不可解で異様なものに見えたということは十分に理由のあることである。三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その『廃虚』も消失し、不在化したこの平和の時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。」(若い世代と戦後精神/橋川文三)

徴兵検査に失格して戦後に共産党員となった橋川文三は、しかし歴史の喪失感に於いて三島由紀夫のそれと同じであった。戦前と戦後の間に存在し歴史の連続を遮断している「壁」の、自身は向う側に魂を留めながら肉体はこちら側に日を送ることによって、橋川文三は廃虚と繁栄の二重写しの幻影の中で日本と接していた。

そのような橋川文三の眼からすれば、昭和三十年に『太陽の季節』昭和三十三年に『飼育』で世間の華々しい注目を浴びた石原慎太郎と大江健三郎という戦後の新しいランナー達の姿にも「どこか『異常』でうろんなところがある」と映った。

橋川文三は石原慎太郎も大江健三郎も共に「壁」を信奉していて、一方は「壁」への盲目的な体当たりを言論とし、一方は「壁」への呪われた凝視を言論とするのみで「壁」を歴史的に相対化する志向に欠如しているために、その姿はいかがわしい「平和」の中でむずがったり脅えたりしている子供のようだと言った。

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by hishikai | 2008-12-19 15:01 | 大東亜戦争
2008年 12月 17日
五勺の酒
e0130549_111521.jpg「そこで甲高いはや口で『家は焼けなかつたの』『教科書はあるの』と、返事と無関係でつぎつぎに始めていつた。訊かれた女学生は、それも一年生か二年生で、ハンケチで目をおさへたまま返事できるどころではない。そこでついてゐる教師が──また具合よく必ずゐるのだ──肘でつついて何か耳打ちをするが、肝腎の天皇はその時は反対側で『家は焼けなかつたの』『教科書はあるの』とやつてゐるのだからトンチンカンな場面になる。さうして、帽子を冠つたと思へばとり、冠つたと思へばとり、しかしどうすることが出来よう。移動する天皇は一歩ごとに、挨拶すべき相手を見だすのだ。(中略)もういい、もういい。手を振つて止めさして、僕は人目から隠してしまひたかった。(中略)二十前後から三十までの男の声で、十二三人から二十人ぐらゐの人間がゐてそれがうわはゝと笑つてゐる。いひやうなく僕は憂鬱になった。なるほど天皇の仕草はをかしい。笑止千万だ。だから笑ふのはいい。しかしをかしさうに笑へ。快活の影もささぬ、げらげらッといふダルな笑ひ。微塵よろこびのない、一さう微塵自嘲のない笑ひ。僕は本たうに情けなかつた。日本人の駄目さが絶望的に自分で感じられた。まつたく張りといふことのない汚さ。道徳的インポテンツ。へどを吐きさうになつて僕は小屋を出て帰つた。」(五勺の酒/中野重治)

中野重治は占領政策に便乗する人々の有様に憤った。それは中野重治の共産主義者としての思想を超えたところにある怒りだった。また彼は『アカハタ』で天皇の人間宣言を「贋金」と罵ったが、それは後年三島由紀夫によって書かれた『英霊の聲』の「などてすめろぎは人となりたまひし」と不思議に重なっていた。

エゴイズムを解放しよう、強欲な野心こそ真のヒューマニズムだと主張する闇市の民主主義者を中野重治は認めなかった。そして「彼らは死んだものを土台として目的を達しようとしてゐる」と言った。占領軍に容認された解放の風潮に乗って民主革命の旗を振る思い上がり、そういう人間のいかがわしさを許せなかった。

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by hishikai | 2008-12-17 11:07 | 大東亜戦争
2008年 08月 21日
非常時の幸福
e0130549_10514325.jpg昭和十八年四月、折口信夫は国学院大学に於ける講演を次のように始めている。「只今は、国学といふ学問の為には幸福な時代になつてゐますが、最近までは国学はそんなに幸福な学問ではなかつた。(中略)この幸福が考へ方で、深い我々の心の底から悲しい、激しい憤りの上に立つた幸福である」(国学の幸福/折口信夫)

昭和十八年は前年末の第三次ソロモン海戦の損害を受け、日本海軍がソロモン諸島方面の制空権と制海権を失い、補給を断たれたガダルカナル島派遣隊が二万人余の戦死者と餓死者を出し二月に撤退、四月にブーゲンビル島上空で山本五十六長官が戦死した年である。

国の滅亡が背中合わせになったこの時代を「幸福な時代」と折口信夫は言う。それは「心の底から悲しい、激しい憤りの上に立つた幸福」であると言う。戦いの憤りと悲しみの中で、複雑を捨て純粋に帰ろうとする人々の心と、古代への純粋帰一を目指す国学の理想が重なり、常になく透明となった時代の現象を指している。

こういう考え方を私達は知らない。戦後思想の信奉者は言うべくもないが、戦後は国の愛すべきを唱うる人までが、非常時の幸福という考え方を、時代の過誤として斥けてきたか、あるいは理解しなかった。たとえ命の先行きが知れず物資が欠乏しようとも、それに代わる如く時代が澄み渡ってゆくということを信じなかった。

以下は昭和二十年八月三十日の被爆者の言論である。「広島市の被害は結果的に深く大きいけれど、もしその情景が醜悪だつたならば、それは相手方の醜悪さである。広島市は醜悪ではなかつた。むしろ犠牲者の美しさで、戦争の終局を飾つたものと思ひたい」(海底のやうな光 原子爆弾の空襲に遭つて 朝日新聞/太田洋子)桶谷秀昭著『昭和精神史』より

戦争の終局を広島の犠牲者の美しさで飾ったという。この認識は原子爆弾の残酷が軍国主義を葬ったという物語からは理解できない。肉体の健康と生命を失いつつある人が、心の底から悲しい、激しい憤りの上に立って最後の純粋へ帰ろうとするという見方を以て、始めて私達は朧げながらも、この言論を理解する端緒を見い出すのである。

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by hishikai | 2008-08-21 11:01 | 大東亜戦争
2008年 08月 15日
天籟
e0130549_10112319.jpg終戦の日、詩人の伊東静雄は日記に書いている。「ラヂオで『降伏』であることを知った瞬間茫然自失、後頭部から胸部にかけてしびれるような硬直。そして涙があふれた。先日の露国侵入の報知を聞いた時、国民は絶望を、歯をくいしばった心持ちでふみこらえていたのであった」

現在では終戦の日の回想を「戦争が終わった。これで生きていられると思った」という言葉で語る人を、殊にジャーナリズムは多く取り上げるようであるが「歯をくいしばった心持ちでふみこらえていた」人々が突然に生命への安堵を抱いたと言うのは作為的である。

人が覚悟を決め、その覚悟が砕け散ったとき安堵するのならば、その覚悟は偽物である。「歯をくいしばった心持ちでふみこらえていた」人々の覚悟が、日本国民全ての生命により日本民族を死の栄光の裡に保存しようとする本土決戦で、それが真正であるならば、八月十五日にあったのは深い茫然自失でなければならない。

『荘子』に「天籟(てんらい)を聞く」という言葉がある。地上のざわめきは風がなくては生まれない。風に音がないとすれば、風を用いて音を生む存在、眼に見えず、耳に聞こえぬ存在がなければならない。それが天籟で、それを聞くのは真理に接することである。だがそのとき人の身は枯木の如く、心は死灰の如くであるという。

桶谷秀昭は著書『昭和精神史』で八月十五日の日本人の茫然自失は天籟を聞いた者の姿であったと書いている。あの茫然自失は、本土決戦が砕け散った瞬間の中に天籟を聞いたところに発していて、それは人が抗い難い運命という、巨大な自然の前に為す術もなく佇む姿であったのだという。

日本人が米国と戦ったことは歴史の事実である。しかしあの四年間、日本人は「敵」というものをはっきりと見据えていただろうか。孤島に戦って玉砕した兵士も、特攻機で散華した特攻隊員も、銃後で働いた一般国民も、確かに眼前に見ていたのは米兵で、米艦隊で、鬼畜米英だったかもしれないが、それらを形づくっていたのは、日清日露の両戦役以来、波濤の如く国に押し寄せる運命ではなかったか。

私達が敗戦を終戦と言い、原爆で殺されたことを原爆で亡くなったと言い、特攻隊員の遺書に家族への慰めの言葉はあっても敵への憎しみの言葉を見い出すことが少なく、彼らの死を焼けて飛び散った肉体の現実よりも、赤い南洋の空に特攻機がふっと消えて逝く光景で想うのも、全てはどうすることもできない運命と戦ってきたという、日本人の内面の記憶の証しではないだろうか。

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by hishikai | 2008-08-15 10:28 | 大東亜戦争