カテゴリ:昭和維新( 5 )

2011年 02月 26日
獄中所感
e0130549_95122.jpg私は二二六事件を殊更に美化しようとは思わないけれども、だからと云って、殊更に醜く考えようとも思わない。只、七十五年を経た今日でも、この季節になると事件が人々の口吻に上るのを見て、日本人の感情に触れる何かが、そこに潜んでいることを思う。

獄中所感

吾れ誤てり、噫、我れ誤てり。
 自分の愚な為め是れが御忠義だと一途に思ひ込んで、家の事や母の事、弟達の事、気にかかりつつも涙を呑んで飛び込んでしまつた。
 然るに其の結果は遂に此の通りの悲惨事に終わつた。噫、何たる事か、今更ら悔いても及ばぬ事と諦める心の底から、押さへても押さへても湧き上る痛恨悲憤の涙、微衷せめても天に通ぜよ。

我れ年僅かに十四歳、洋々たる前途の希望に輝きつつ幼年校に入り、爾来星霜十五年、人格劣等の自分乍ら唯唯陛下の御為めとのみ考へて居た。然るに噫、年三十歳、身を終る。今日自分に与へられたるものは叛乱の罪名、逆徒の汚名、此の痛恨、誰が知らう。

幼年校入校以来、今日に到る迄身は常に父母の許を離れ孝養の道を欠いて居た。此の一、二年漸く自分の心にも光明輝き、これからは母にも安楽な思ひをさせ、弟達をも自分の及ぶ限り世話をしやうと思つて心に勇み希望に燃えてゐた矢先、突如、一切は闇となり身は奈落の底に落下してしまつた。
 永久に此の世で孝養はつくせぬ。噫、私は何も今更ら自分一個の命を惜しみはしない。が後の事を考へると辛い。母や祖母や弟達、何一つ御恩返しも出来ず心配をかけ悲痛な思ひをさせて自分が斃れて行くのは如何にも辛い。(竹嶌継夫「獄中所感」/『二・二六事件獄中手記・遺書』)

竹嶌継夫 明治四十年五月二十六日、陸軍少将竹嶌藤次郎の長男として生まれる。昭和三年、陸軍士官学校を主席・恩賜賞で卒業。陸士第四十期生。昭和九年、豊橋教導学校歩兵隊付きとなる。昭和十一年、上京して二二六事件に参加。命日、昭和十一年七月十二日。

写真 事件鎮圧後、帰隊する決起部隊兵士。

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by hishikai | 2011-02-26 09:10 | 昭和維新
2010年 11月 25日
十一月二十五日
e0130549_1157449.jpg昭和四十五年十一月二十五日午後零時十分。演説を終えた三島由起夫はバルコニーから総監室に戻ると、手足を縛られたままの益田総監に向かって「恨みはありません。自衛隊を天皇陛下にお返しするためです」と言う。

制服のボタンをはずしながら「仕方がなかったんだ」そう呟くと、三島は上半身を裸になり、縛られている総監から約三メートルの床の上にバルコニーの方を向いて正座し、短刀を持つ。森田必勝が左後に立ち、長刀を大上段に振りかぶる。

ズボンを下げて腹を出す。そして、オーッともワーッとも聞える大声を発し、短刀を臍の左下に突き立て、そのまま右へ真一文字に引き回す。森田が刀を振り下ろす。刃は三島の右肩を深く斬り込み、血しぶきが飛ぶ。

「森田さん、もう一太刀!」見ている古賀が叱咤する。森田は再び振りかぶって斬る。今度は命中するも、首は落ちない。「浩ちゃん、代ってくれ」森田のその言葉に、古賀はすぐさま刀を受け取り、三島の首を斬り落とす。

次に森田が血の海となった床に正座する。古賀が左後ろに立つ。「やめなさい!」総監が叫ぶ。森田が鎧通しを腹に突き立てる。「まだまだ」と言いながら右へ引き回すと「よし!」の声に古賀が大上段から打ち下ろす。一刀両断。森田の首は床に転がり血が噴き上がる。

残された盾の会の三人が、益田総監の手足の紐を解き、三島と森田の胴体を仰向けに直して制服をかけ、二つの首を並べて床に立てる。「私にも冥福を祈らせてくれ」そう言うと、総監は首の前に正座し瞑目合唱する。三人は黙って泣いている。

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by hishikai | 2010-11-25 11:58 | 昭和維新
2009年 02月 26日
林八郎
e0130549_13183280.jpgようやくあたりが明るくなってきた。もう六時頃かも知れぬ。私たちはその後、日本間の廊下付近で警戒にあたっていたが、そこへ林少尉がやってきた。するとその背後から警官が近づいてきた。私はどうするのかと見ていると警官がいきなり林少尉に飛びつき羽がい締めをかけた。少尉は不意の攻撃に面喰らい懸命に振りほどこうともがいたが、警官の体は一向に離れる様子が見えない。

少尉は顔を青くしてワメいたが数秒沈黙した後背負投げを打った。技は見事に決まり、警官の体がドウと前にノメリ一本決まったかと思った時、警官はスックと立上がった。相手もその道の達人のようだ。すると林少尉は間一髪軍刀でバサッと袈裟切りを浴びせ一刀の下に斬倒した。まことに見事な腕前であった。(二・二六事件と郷土兵/埼玉県史刊行協力会)

昭和十一年二月二十七日、積雪曇天の朝、歩兵第一聯隊所属の将兵約三百名が麹町区永田町の総理大臣官邸を襲撃。上述は機関銃隊に所属していた兵士の回想で、警官は土井清松巡査、少尉は林八郎少尉。この日の襲撃により秘書官一名と警官四名が殉職されている。

林八郎少尉は上海事変で戦死された林大八陸軍少将の次男。事件後に同期の小林少尉が、代々木の陸軍衛戍刑務所に林を訪れている。金網もなく看守もいない小さな面会所で二人は相対し、そのまま長い沈黙があり、やがて林が「小林、魁だよ」と呟く。この日の面会、二十分はこの一言だけであった。

不変の盟

鬼となり 神になるともすめろぎに つくす心のたゞ一筋に
すめろぎの 隈なき光みつれやと たぎる血汐に道しるべせん

林八郎 大正三年九月五日生。東京府立第四中学校、仙台陸軍幼年学校を経て、昭和十年陸軍士官学校卒業。第四十七期。同年十月少尉任官。昭和十一年七月十二日、陸軍衛戍刑務所にて刑死。罪名、叛乱罪。享年二十三歳。

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by hishikai | 2009-02-26 13:26 | 昭和維新
2008年 08月 19日
磯部浅一
e0130549_0452234.jpg明治三十八年四月一日、磯部浅一は山口県大津郡菱海村大字河原に農家の三男として生まれた。父の仁三郎は左官だったが寒村に仕事はなく、出稼ぎに出たまま家に帰ることは希であった。兄達は村を離れ油谷港で働き、母のハツは二反ほどの畑を耕し、収穫した野菜を塩田の飯場に売って生計を立てていた。

こうした家庭であったので、浅一も小学校から帰ると母と共に畑で働き、飯場へ野菜を売りに行った。背が高く頑丈な体つきで、学業はいつも首席であった。あるとき知事の養子を求める布令が近郷に回って、浅一もどうかと話があったが二者択一の選に落ちた。村の者は「あまりに貧乏な家の子だから」と思った。

やがて浅一は山口の松岡喜二郎という県職員の家に貰われて行った。浅一は予てより軍人になりたいと思っていたし、松岡は家から是非とも軍人を一人出したいと思っていた。夕食を終えると決まって松岡は浅一の部屋に来て、吉田松陰や久坂玄瑞の話を聞かせた。謹厳実直な長州人だったが、浅一には優しかった。

大正八年五月一日、浅一は広島陸軍幼年学校へ入学した。松岡の喜びはひとしおであった。学校の休暇には松岡家で一泊し、翌日山陰本線の滝部で汽車を降り、人の通わない山道を歩いて菱海村へ帰るのが浅一の常であった。貧乏人の小倅が将校生徒では世間が許さなかった。実家に着くと野良着に着替えて母を手伝った。

昭和十二年八月十九日、浅一は陸軍衛戍刑務所処刑場の銃殺用刑架に、頭部と両腕を縛られて正座している。十メートル先の銃架に二丁の歩兵銃がこちらに向けて固定され、各々に一名の射手が配置されている。指揮官が手の合図で発射を号令する。浅一の前額部から鮮血が吹き上がる。罪名は叛乱罪。三十二年の生涯である。

「余は云わん 全日本の窮乏国民は神に祈れ 而して自ら神たれ 神となりて天命をうけよ 天命を奉じて暴動と化せ、武器は暴動なり殺人なり放火なり 戦場は金殿玉楼の立ちならぶ特権者の住宅地なり 愛国的大日本国民は天命を奉じて道徳的大虐殺を敢行せよ 然らずんば日本は遂ひに救はれざるべし」(二・二六事件獄中手記・遺書/磯部浅一)

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by hishikai | 2008-08-19 01:07 | 昭和維新
2008年 07月 28日
渥美勝
e0130549_10445354.jpg渥美勝は明治十年(1877)滋賀県彦根町に生まれている。父は彦根藩士、母は伊井家の分家木俣家の出身、家は代々の武術師範である。彦根中学を卒業後、第一高等学校に入学。先輩に柳田国男、後輩に広田弘毅がいる。明治三十三年(1900)京都帝国大学法科に入学も中途退学。大阪で鉄工所工員となる。

大正二年(1913)東京神田の広瀬中佐銅像前に立ち、毎日のように街頭演説を始める。「桃太郎」と大書した旗のもと、日本神話にもとづく日本人の使命観と生命観を説く。「真の維新を断行して、高天原を地上に建設せよ」と結ぶのが常である。汚れた絣の着物に小倉袴をつけ、腰に手拭いをぶら下げている。職業は土工、人力車夫、映画館の中売、夜回り、下足番。住所は不定。

渥美の数少ない著作の一つに、故郷の白痴を描く『阿呆吉』という回想文がある。町の皆から阿呆吉と呼ばれる吉つあんは、道にある石ころや瓦片を黙々と道傍の溝に蹴落とす。何故そうするかと問えば「人が躓くと悪いからなあ」と答える。

渥美は言う。「耶蘇が高聲に説明しつつ行なつた事を吉つあんは黙つて行つて退けた」イエスと呼ばれる神の子も、その生涯に行なうことは唯一つ、人の道からその躓きになる瓦礫を取り除くことだと考える渥美は、吉つあんにキリストを、そして原罪からの救いよりも先に、至純な魂で国を修理固成(つくりかためなす)ことを命ずる神の愛児を見る。やがて吉つあんは飢え死にする。

「吉つあんは死んだのだ、その十字架は流血でなくて虚血であつた。虚華で無くて質実であつた。而して沈々黙々の裡に死んで仕舞つた。彼れを生むだマリアは誰だらう、はた又彼れの足にナルドの香油を塗りたるマグダラのマリアは彼れに在つたかどうか、そもそも又、彼れ逝いて後、彼に対するペテロ、ヨハネは有りや無しや、是れも誰れも知る者もない」

昭和三年(1928)渥美勝は急逝した。同年十二月九日、日本青年館で葬儀執行。葬儀委員長は頭山満、委員は永田秀次郎、丸山鶴吉、大川周明、赤池濃ら三十余名。参会者二百余名。そのとき渥美の手帳には「一食、一衣、一室を賜いて故旧友人に、改めて申訳なかりし罪を謝す」と書き遺されてあった。

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by hishikai | 2008-07-28 11:19 | 昭和維新