カテゴリ:文学( 22 )

2011年 03月 23日
奥州
e0130549_13533152.jpg奥州は白河の関より入る。古来より、黄金と名馬を朝廷に献じたが、都の人々にとっては、それよりも、伝説と歌枕とによって、内側からぼんやりと照らし出されるように知られた、遠く謎の多い土地であった。

平安朝も中ごろ、摂津の国は古曽部という村に、能因法師という歌人があった。かねてより奥州に憧れ、わが杖ひく姿を夢想していたが、遠い辺地に漂白する勇気なく、ただ夢想に明け暮れ日々を送っていたところ、ふと夢想が彼に一首の歌を詠ませた。

「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」

口ずさんでみると我ながら名作に思われたが、憧れた奥州で詠まないことが口惜しく、行きもせぬ白河の関に行ったことにして家に籠り、顔を陽に焼いて黒くした後、奥州へ修行の次いでに詠んだと云って仲間に披露した。

やや後に、竹田太夫国行という人が、奥州下向の途中、白河の関で装束をあらため晴れ着となった。その理由を問うた人に答えて、能因法師の詠まれた関を、普段着で越えることは憚られると云った。

そして六百年の月日が流れた元禄の初め、白河の関に松尾芭蕉と弟子の曽良の姿があった。春立てる霞の空に奥州を旅してみたくなり、江戸を立ってひと月、ようやく今その関門に辿り着いたところであった。

関の辺りは、四月の暖かい日射しの下に真っ白な卯の花が一面に咲き誇り、二つの影が、あたかも雪の上に映えたように滑りながら、二人の旅人の後を追った。曽良が装束をあらためる心で一句を詠んだ。

「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」

それから芭蕉は松島を訪れたが、句を詠まなかった。ただ島々を眺めて佇み、浜を歩き、やがて海にのぼった月を仰いで、こうした天の業は、どのように筆をふるい、言葉を尽くしても及ばないと日記に書いた。

写真 白河関跡 歌枕の宝庫である奥州の関門。念珠ケ関、勿来関と共に奥羽三関と呼ばれる。

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by hishikai | 2011-03-23 14:00 | 文学
2010年 08月 06日
海底のやうな光
e0130549_1702856.jpg朝や黄昏など、特に風景の美しかつた太田川の下流、私どもの住んでゐた町の土手から降りて行く河原に火事をさけてすごした六日、そして七日と八日、その間に見た現実は、この世のほかの絵巻であった。

私はそれを凄惨だつたとは思ひたくない。危険と忍耐と、純粋な民族感への満ち足りた感情との三日間乞食のやうに河原に起き伏した短い日、私たちはどんな貴族よりも高い精神のなかに呼吸してゐた。死骸と並んで寝ることも恐れぬ忍耐の限度を見た。おびただしい人の群のたれも泣かない。誰も自己の感情を語らない。日本人は敏捷ではないが、極度につつましく真面目だといふことを、死んで行く人の多い河原の三日間でまざまざと見た。

河原は引潮で細い清らかな水の流れの外は白い熱砂であつた。そのうへに点々と人が坐り寝ころび、佇んでゐた。六日は一日ぢゅう爆発の音がとどろき火のついた大きい(判読不能)切れや板つばしが強風に吹きあげられて頭のうへにふりかゝつた。空は昼なほ昏く黒い雲の中を真紅の太陽の火玉がどんどん落ちて来た。

河原でも一つ所に長く止まることはできなかつた。けれども阿鼻叫喚の気配はどこにもないのだ。だまつて静かに死んで行く人達、電光で焼いたひどい火傷は神経が麻痺して、ひりひりする激痛は感じないとか聞くけれど、それにしても負傷者の寂として静かなことは一層心をうつのである。水をのみ、配給の握り飯を最後に頬張つてはつきりと名を告げて息を引き取つた十五、六歳の勤労学徒もあつた。河原の陽の下に、寝そべつたやうに死んでゐる五歳位の女の子もゐた。

七日になつて河原に来た救護班の手当てをうけた。この日になつて昨日の異様な空襲が、新兵器のはじめての使用であつたことをきいた。七日の夜から八日の朝、また昼にかけて人々はばたばたと倒れた。七日の夜は朝まできれいな東京の言葉で「お父さまアお母さまアーいいのよウーいいのよウ。おかへりあそばせエー」と絶叫しつづける若い娘の声が聞えた。「気がちがつたのね」私たちは涙を流しとほした。

新兵器の残忍性を否定することは出来ない。だが私は精神は兵器によつて焼き払ふ術もないと思つた。あの爆弾は戦争を早く止めたい故に、使つた側の恥辱である。ドイツが敗北した。ドイツを軽蔑できなかつたと同じに、あの新型爆弾といふものを尊敬することはできない。広島市の被害は結果的に深く大きいけれど、もしその情景が醜悪だつたならば、それは相手方の醜悪さである。広島市は醜悪ではなかつた。むしろ犠牲者の美しさで、戦争の終局を飾つたものと思ひたい。

(大田洋子/『海底のやうな光──原子爆弾の空襲に遭つて』 朝日新聞 昭和二十年八月三十日掲載)

by hishikai | 2010-08-06 17:07 | 文学
2010年 07月 17日
即興詩の男
「その本を読んで全てを信じるのなら、読まない方がよい」という言葉がある。学生のときに倫理の教科書の一頁に見かけた言葉で、遠い記憶でもあり、また西洋の諺でもあるので、本当はもう少し違う言い方をするのかも知れないが、正確なところは判らない。ともかくも私はこの言葉をいつでも心の片隅に留め置いて本を読んできた。

物事は多面体の宝石のように多様な側面を持っている。だから何であれ、本の内容には必ず取り逃がされた面があり、それを承知せずに全てを信じることは理解として危うい。ときに古書の行間に「そんな馬鹿な!」という書き込みを見つけると、私にはそれが先んずる人々の懸命な努力の痕跡であるように思われてならない。

ところが詩人のまとまった文章を読むと、そうした考え方とは正反対の率直な感性に出くわすことがある。そのなかで彼らは多面体の宝石を用心深く眺め回すかわりに、手の中の宝石に映った自分の姿を見て茫然と立ち尽くしている。例えば詩人の伊東静雄の日記には、彼の傷ましいような他者への自己投影の姿が記録されている。

「今日大手前に行こうと堺東駅に来たら遺骨の凱旋に出会ふ。皆直立し頭を垂れて迎へてゐると、群衆中の四十位の男──縞のワイシャツに半パンツ、地下足袋ばき、戦闘帽をかぶつてゐる。服装は清潔だが、顔色実に黒く、一見して屋外労働に従事してゐる男らしい。直立不動で、最敬礼し、やがて遺骨に向かつて朗々と何か歌ひ出した。詩吟に似たうたひ方で、又和歌の朗詠のやうでもある。二度ほどくりかえしてうたふ間に遺骨は駅の構外に出て行つた。

富士、清き流れ、もののふ(ますらを)、桜の花の散るがごとく、神武天皇様、靖国の社といつたやうな語句からなるうたで、二度くりかへす文句が少しづつ違ふところをみると、即興詩らしかつた。人々は半ば感動し、半ばうす笑ひ、不思議さうにみつめてゐた。その声は堂々とさびがあり立派であった。

自分は眼底のあたたかくなるのを感じた。いくらか常軌を逸した人らしい眼光もないではなかつたが、狂とも愚とも人は見るこの男の胸に素直に宿り、やがて率直単純に表現せられた皇国の詩情とまごころにうたれた。自分の近来の不安焦燥と、詩人としては緊張のゆるんだ生活を省みることが痛切であつた。

まじまじと人の見つめる視線の中で謡ひをへると、はるか彼方の遺骨の行方に最敬礼し、やがてプラットホームの人の少ない辺に行つて直立しつづけてゐた。(中略)その声の美しさに似ず、それに自ら酔つたやうなひそかにそれを誇つてゐるやうなところの皆無なことが気持よかつた。又人を圧するやうなところもなかつた。謹直と敬虔、英霊と遺族はどんなにうれしかつたらう」(昭和十九年七月八日の日記)

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戦友の胸に抱かれて英霊の凱旋 言うまでもないことだが、伊東は即興詩の男に戦争の中で詩をうたう自分の姿を見ている。そこでは、うたうものとうたわれるもの、それを見るものとが、同じひとつの祈りのなかで渾然一体となっている。

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by hishikai | 2010-07-17 09:40 | 文学
2010年 07月 15日
名文
e0130549_1572481.jpgいや、なるほど君の言うことは筋が通っている。宙で憶えているほど練りに練った理屈だからな。そしてたしかに、いろんなことがみなぴったりと君の説明に当てはまる。それは認める。君の理屈で説明のつくことは実に多い。

だが、その説明では取り逃がしてしまうことも実に多いではないか。世の中には、君の理屈以外に理屈はないのか。誰もかれも、みんな君一人のことにかまけきっていると君は言うのか。なるほど瑣細な事件はいちいち君の言うとおりだとしよう。

往来で君と擦れちがう男が、君のほうを見ないとして、それは奴が陰謀を洩らさぬために、わざとそうしているのだと認めよう。あるいは警官が君の名前を訊いたとして、知っているのにわざわざ訊いていたのだと認めてもよい。

だが、こういう連中は実は君のことなどてんで気にもとめていないのだと君が知ったら、そのほうがどれだけ幸福か、君は考えてみたことはないのだろうか。君がこの世の中でいかにちっぽけな存在かを知れば、この世の中が君にとってどれほど広々した存在となることか。

普通の人間は、他人に対して、ただ普通の好奇心と喜びを持っているだけだ。君もただ虚心にそれを眺めさえすればそれでいい。他人は君に興味なぞ持ってはいないからこそ、君は彼らに興味を持つことができるのだ。

今の君は、せせこましくもけばけばしい劇場だ。やっている芝居は相も変わらず、いつでも君が作者で、君が主役で、そして君が観客だときている。こんな息のつまる劇場は叩き壊して、思いきりよく外へ飛び出せ。そこにはのびやかな空が広がり、街路の見知らぬ人びとの群が無限の歓びを君に与えてくれるだろう。

(G.K.チェスタトン 著 福田恆存・安西徹雄 訳/『正統とは何か』より)

世界と自分の関係について「普通」に考えることは案外に難しい。生きていれば息のつまることや、いろいろと嫌なこともある。そんなとき、G.K.チェスタトンの文章は、扉を開けること、外へ出かけること、深呼吸をすること、空を見上げること、鳥の声に耳を傾けることの大切さを教えてくれる。

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by hishikai | 2010-07-15 15:09 | 文学
2010年 07月 02日
小瀬温泉
e0130549_16361959.jpg小瀬温泉は軽井沢を北へ一里ほど登ったところにある。一時間に一本通じるバスで断崖の細い上り坂を揺られて行くと、窓の外には梅雨時の若々しい緑がどこまでも広がり、雲の切れ間から射す光が木漏れ日となって、車中を前から後ろへと流れていく。

バスを降りて、森の中の小径をトランクと傘を持って歩く。小川の流れる音、葉の風に鳴る音、鳥の呼び交う声とが聴こえるばかりで、他には何もない。見上げれば、木々の間を大きな鳥が一羽、ゆっくりと飛び去ってゆく。しばらく歩くと一軒の小さな宿に着く。

部屋は八畳の日本間で、窓の下に細長い板の間がある。そこにトランクを置き、傘を押入れにしまい、麻の三揃えの背広を衣紋掛けにかけると、さっそく露天風呂へ行く。湯の中に立ち、腰に手を当てて森を見渡せば、緑、緑、緑、体の中まで緑色に染まるようだ。

浴衣で部屋に戻りトランクを開け、白い函入りの赤い布表紙の本を取り出す。背に『増補 日本浪漫派批判序説 橋川文三』とある。コップの冷たい水を飲み、座椅子に腰を下ろし、白い函を抜き、広い机の上に赤い布表紙を開け、最初のページを繰る。

「この特異なウルトラ・ナショナリストの文学グループは、むしろ戦後は忘れられていた。それはあの戦争とファシズムの時代の奇怪な悪夢として、あるいはその悪夢の中に生まれたおぞましい神がかりの悪夢として、いまさら思い出すのも胸くその悪いような錯乱の記憶として、文学史の片すみにおき去りにされている」(橋川文三/『日本浪漫派批判序説』)

日本浪漫派は保田與重郎を中心に昭和初期から敗戦まで続く文学運動で、文明開化の精神とプロレタリア運動と日本主義とを斥け、日本人に頽廃ともいえるほどに古典美への回帰を呼びかける。殊にその主張は、戦中の学徒動員や勤労動員下の青年たちに支持される。

著者の橋川文三は丸山眞男に師事した政治思想史の研究者で、自身も日本浪漫派に「いかれた」戦中の記憶を持つ。その語り口調は戦中と戦後の二つの日本を生きた人の静かな告白の風を呈している。「みごとな文体」と後年、三島由紀夫は橋川宛の書簡に記している。

「私たちと同年のある若者は、保田の説くことがらの究極的様相を感じとり、古事記をいだいてただ南海のジャングルに腐らんとした屍となることを熱望していた!少なくとも『純心な』青年の場合、保田のイロニイの帰結はそのような形をとったと思われる」(同上)

渾々と読み耽り、部屋を出て風呂場へ行くと、浴室の大きな硝子窓の向こうで、夜が白々と明けてゆく。湯は透明で柔らかく、豊かに湧くがままになって流れてゆく。体を沈め、手足を思う存分に伸ばす。明日も、あさっても、こうして本を読もう。

宿の近くの竜返しの滝。山道の入り口に「野生動物〈クマ〉生息地域」と書かれた看板があり、思案の末、滝まで往復の道のりを大きな声で歌いながら歩く。曲目は「愛国行進曲」と「森のくまさん」で、ときに歌詞となり、ときに伴奏となる。冷たい汗が流れ、次第に早足となる。

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by hishikai | 2010-07-02 16:49 | 文学
2009年 10月 01日
高尚な趣味
e0130549_11132013.jpg明治二十八年(1895)上田敏は『典雅沈静の美術』の中で「現代の文化には二つの欠点あり。即ち美を愛し学を愛す心盛んならざると、典雅沈静の美術に対する高尚の趣味なき事なり」と述べ、日本人の憶うべき趣味として詩人フォルゴレの『年中行事』を紹介している。

一月は熾なる火、暖かき室、絹布團、皮衣、をりをり外に出でて庭前の娘子と雪投の遊す。二月はむねと遊猟に暮し、三月は漁り網うち、夜は朋友と盃を交はす。四月は春草萌出でて野山美しく、若き男は之に誘はれ、たわやめは鞍に乗りて佛蘭西の時花歌を口吟み、プロヴァンスの舞踏をなして、時には独逸新渡りの楽器を弾き試む。公園の逍遥最もよし。五月は野試合にて騎馬を馳せ違はせ、花の雨をふらして、美しき手より勝者に花環又は橙の葉をとらす、わかうどと、をとめと、道にあひたる挨拶には頬又唇に接吻す。六月は美女美男都會を離れ、近郊の別所に移りて、蔭多かる庭、花園の泉、たえず緑草をうるほすあたりに休らひ、人みな恋の奴なり。七月には、都に帰り、清らなる室にて、絹のすゞしに暑を凌ぐ。八月は野山をかけり、朝狩夕狩、城より城へと山家の谷川などをわたりくらす。九月は鷹狩り。十月も鳥を追ふ。また夜更くる迄うたげするもよし。十一月十二月には冬となりて爐邊のものがたりとなるべし。(フォルゴレ/年中行事『典雅沈静の美術』より)

なるほど、典雅な美術は冬の静謐と夏の歓喜を合わせ持つべきことがよく解る。これほどの趣味を抱けば美を愛し学を愛する心も芽生えるに違いないと納得しきりだが、困ったことに育ちは争えず、私はどうしてもこの詩から小唄『年中行事』を連想してしまう。

初春の年始はかみしものし昆布、如月空や梅香る、雛の祭りは桃桜、鰹テッペンかけたか、ほととぎす、菖蒲刀や川開き、舟で遊びましょう、写し絵花火に紙芝居、アラ、評判、評判、硯洗いや盆踊り、月見、菊の節句や恵比寿講、サー顔見せ、入れ変わりに年の市、サーサ節季候大晦日、やったりとったり、貸餅の、一夜明くれば年始の御祝儀、年玉なげこみ羽根や手まりで、一二三四五六七八九つ子供が集まりて、凧揚げじゃ、さて双六じゃ。(年中行事『本條秀太郎/江戸室内歌曲一』より)

どうですか、好いじゃありませんか。そりゃ、プロヴァンスの踊りやご挨拶のキッスというわけにはいきませんよ、でもね、風情ってもんがありますぜ、そうですとも、こっちだって捨てたもんじゃアない───と嬉しがったのも束の間、一粒の不安が胸をよぎる。

この小唄の作詞者は益田太郎冠者という三井の御曹司、おそらく作詞は彼が留学から帰朝した明治三十二年(1899)以降だ。しかも『典雅沈静の美術』は読んでいるだろうから、すると小唄『年中行事』はフォルゴレの『年中行事』のパロディーかも知れない…か。

『紅葉狩』鈴木春信 18世紀 紅葉狩りも楽しい秋の行楽の一つであった。その昔、紅葉狩りで山に入ると鬼女に出会うと恐れられたが、江戸の頃には「紅葉がり今は遊女がたぶらかし」などと詠われていた。

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by hishikai | 2009-10-01 11:32 | 文学
2009年 09月 23日
美しい文体
e0130549_12105970.jpg私は文章を読むより、文体の愛玩を好む。自分の意に叶わぬ文章でも文体が美しければ二度も三度も読み返すことがあり、また内容の立派な文章でも文体が気に入らねば、すぐに放り出してしまう。そういうわけで、内容についての記憶は希薄であるから困る。

近頃愛玩した文体では幸田文のものが美しく、芯のある語り口を基調としながら、それでいて女性らしいふわりとした柔らかさが表面を覆い、そのことで頼もしい色気といったものが漂う。あたかも年増の装う銀鼠の鮫小紋といった風情がある。引用する。

夕立。暗くなったとみるまに、ぽつりとくる。あとは早い。どおっと降る。たちまち往来に人がいなくなって、雨と雨の音だけになる。いきなり光って、鳴る。こうなってはおそれおおくて、御通過を待つ間しばしは、縮んでいるよりほかない。だが、むしむししてかなわない。二階から雨戸を細目に、みていた。雨はまだ白くしぶいて大降りだし、道は川になって流れている。蛇の目のひとが、たった一人でくる。顔は傘でみえないが、まだ若い。紺地に白く竹を抜いた、大模様の浴衣だからである。片手で裾をからげあげ、下着の水色が急ぎ足にからむ。その足、つま皮をかけない男ものの下駄をはいていた。男ものの下駄を──法界悋気のおきるほど、その男下駄にいろけがみえた。(幸田文/『ゆうだち』)

句点の使い方が絶妙で、短く切られた文節が演劇的でさえある。「雨戸を細目に、みていた」と、突然現れる過去形から一転して続く現在形は視覚をズームアップし、これが再び「男ものの下駄をはいていた」の過去形で二階の小暗い部屋に引き取られる。実に巧い。

佐藤春夫は日本語の文体を省略や飛躍を生命とするために、読者と作者による協力的進捗と心読を要求する貴族的なものだと云ったが、してみると三島由紀夫などは独りで喋り過ぎるし、谷崎潤一郎は名人芸が過ぎて恐れ入る。そこへいくと幸田文は加減を心得ている。

名所江戸百景『大はしあたけの夕立』歌川広重 19世紀

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by hishikai | 2009-09-23 12:01 | 文学
2009年 08月 31日
『焼跡のイエス』について
e0130549_1220556.jpg石川淳、昭和二十一年の作品『焼跡のイエス』は、敗戦国日本の闇市をカンバスとして、大声をあげて食い物を売り、あるいは食欲の機械となってこれに群がる人々と、その人々の間を無言で駆け抜ける獣のような少年とを対比して描く。

いまや「君子国の民というつらつきは一人もみあたらず」人々は「モラル上の瘋癲、生活上の兇徒」である。「天はもとより怖れる」ところではない。しかしながら劣情旺盛取引多端は旧に依って忙しく、その行動は「今日的規定の埒外には一歩も踏み出してはいない」

そのような人々の間を駆け抜ける瘡のある少年は、蠅のたかった握飯に食らい付き、シュミーズ姿の女に抱きつく。その無言の暴力は一つ一つが命令のような威厳を持ち、あたかも彼は律法の上に立つ者の如くである。その姿に接した人々の心に悲鳴に似た戦慄が波を打つ。

人々と少年の対比は「大審問官」を思わせる。大審問官はイエスが人々に与えた自由を強者の特権だと責め、自分は弱者から自由を取りあげる代わりにパンを与えている、この哀れみこそが真の救済なのだと主張する。イエスは無言の同情と接吻でこれに答える。

大審問官の雄弁な哀れみは人々の食い物を売る大声に、イエスの無言の同情と接吻は少年による無言の暴力に、それぞれ裏返っているが同じものを表す。そして常に同情は哀れみを超える。そのことは人間世界の問題が同情の側にあることを示す。

哀れみの為政者は人々を弱者として扱い、自由と引き換えにパンを与え、政治の道具として組織する。人々もまた弱者であることを自認し、自由と引き換えにパンを押し頂いて政治を思考する。このとき人間世界の問題全てが哀れみの問題、政治の問題であると錯覚される。

そうして一般化できない個々の問題の集積としての人間世界、それら全てが特殊な問題の集まりで、したがって必要なのは同情であって、自分以外の誰かが拠出するであろう富をあてにした哀れみ、つまり政治よる分配ではないことが人々から忘れ去られていく。

だが人間世界の問題はイエスの無言の同情の中にある。その背後に広がる苦悩の闇は、時として暴力となって現れるかも知れないが、しかしそれは政治の唱える哀れみよりも遥かに人間世界の本質に接近している。人々が戦慄したのはその事実を少年の姿に見たからである。

同じく国の文化──日本書紀も、万葉集も、古今集も、源氏物語も、平家納経も、太平記も、近松心中も、そして大東亜戦争の諸戦記も、全ては闇の中に納められている。だから私たちは国のこととして政治よりも先に、歴史を云い、伝統を云い、文化を云う。

石川淳は「作品は常に闇の戸口から始まる。そしてその終わるところもまた闇の中でしかない」と書いた同じ筆で、野獣のような暴力で自分から金を奪おうとして取り押さえた少年の顔が「苦患にみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった」と書いた。今日では逆説となってしまったその思考を、私たちが再び取り戻す日は来るのか。

『ピエタ』ミケランジェロ 1499年ごろ

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by hishikai | 2009-08-31 13:11 | 文学
2009年 06月 14日
過剰な献身
e0130549_1305486.jpg然るに『罪と罰』を読んだ時、あたかも曠野に落雷に会うて眼眩(くら)めき耳聾(し)いたる如き、今までにかつて覚えない甚深の感動を与えられた。こういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝いたのであると信じて作者の偉大なる力を感得した。(二葉亭余談/内田魯庵)

明治二十四年にドストエフスキーの『罪と罰』を初めて読んだ感動を、内田魯庵は上のように回想している。それにしても「落雷に会うて眼眩めき耳聾いたる如き」とはいささか大袈裟のようだが、これは単に小説への感動だけでなく、日本人がこの列島に二千年暮して初めて出会う思考への驚きで無理もない。

e0130549_13361941.jpgだが源氏物語にしろ里見八犬伝にしろ我国の伝統的文芸に登場する廉潔優美な人物たちが前近代の幼稚な造形であるとするならば、平凡で不完全な主人公に現実社会の奈落と人間心理の暗黒を歩かせるドストエフスキーの文学に登場するラスコーリニコフのような病的気鬱の人物たちは近代の不健康な造形である。

そして──直感的な言い方に過ぎるかも知れないが──その不健康は日露戦勝以後の自然主義文学とプロレタリア文学運動、あるいは日本主義と大アジア主義に見られる精神の不健康と同じ臭いがする。それは観念生活が実生活以上に現実的であるという感覚に憑かれた人間タイプ、あの「インテリゲンチャ」の臭いである。

《インテリゲンチャに共通しているのは、彼らが自分は単に思想への関心以上の何ものかを抱いていると考えていることだ。世俗の人間であるとしても生涯を捧げた僧侶にも劣らぬ存在で、福音の使徒のように人生に対する或る特殊な態度をひろめることに献身していると考えている。》(ロシア思想者論/I.バーリン)

そういう過剰な献身からくる不健康が、大東亜戦争の敗戦と深い場所で手を繋いでいるように思われる。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』のイワンに「ヨーロッパの思想的仮説がロシアの青年にかかると生活の原理になってしまう」という台詞を言わせている、その痛ましい土壌は我国も同じである。

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by hishikai | 2009-06-14 01:54 | 文学
2009年 05月 11日
成島柳北
e0130549_1825237.jpg成島柳北と云って今日彼を知る人は余り多くないかも知れない。成島柳北は天保八年(1837)浅草御厩河岸の賜邸に成島稼堂の三男として生まれ、十八才で侍講見習いとして幕府に出仕、二十才で将軍家茂の侍講となる。当時新興の花街であった柳橋に遊び、その風俗を著わした『柳橋新誌』は彼の最も知られた著作である。

二十七才で幕閣を批判して侍講の職を解かれると洋学を学び始める。桂川甫周と知り合い桂川サロンに出入りする。二年後、新設された幕府陸軍の騎兵頭に登用されると鳥羽伏見以後は外国奉行、ついで会計副総裁に就任。明治元年(1868)江戸開城の前日に職を辞して以後は、新政府からの出仕の要請を謝絶する。

明治五年(1872)九月、柳北の姿は、横浜を出港するフランスの郵便船ゴダベリイ号の上にある。香港でマルセイユ行きの定期船メーコン号に乗換えて同年十一月、パリに到着。ブローニュの森を散策して「清幽愛す可きの地」と云い、レストランに食事をして「肴核(料理)頗る美なり」と云う。パリに沈溺する。

一月十五日、騎兵頭を努めた頃に軍事教官として寝食を共にしたシャノワヌ大尉と再会、彼の家を訪れる。その時、彼の書室には柳北の贈った日本刀と江戸名所図絵が置かれ、アルバムには柳北と妻の写真があった。「氏の旧情を忘れざる、真に感嘆に堪えたり。我が邦人にして故旧を視る、路人の如き者夥し」と日記に書く。

帰国した柳北は『柳橋新誌』第二編を刊行して新政府高官を揶揄する。例えば宴席で芸妓が、昔はお公家様も花札を作っていたのですかと公卿に尋ねると、公卿は、今は国政に忙しいからそんな事はしていないと答える。すると芸妓は「分かった、それで近頃は花札が高いのね」と云う。一同手に汗を握る、といった具合に。

明治八年(1875)公布された讒謗律と新聞紙条例を批判して投獄され『柳橋新誌』は発禁となる。そのとき柳北は巡回する看守の足音に酒楼の廊下を往来する芸妓を連想したという。成島柳北は福沢諭吉のような実学人の陰画であった。そして自ら陰画の人生を闊歩して、文明における陰画の価値を教えた。

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by hishikai | 2009-05-11 18:41 | 文学