カテゴリ:文学( 22 )

2009年 05月 06日
小説の実用を信じた時代
e0130549_035587.jpg明治三年(1870)浅草の寝釈迦堂近くの長屋に住んでいた江戸の戯作者、仮名垣魯文は新しい明治の世に相応しい工夫はないかと、街の本屋に種本を漁って福沢諭吉の『世界国尽』を捜し出した。彼はこれをもとにして、弥次郎兵衛と喜太八がロンドンへ渡航する『西洋道中膝栗毛』を書上げた。それはこんな調子だった。

「僕はこれほど葡萄牙(ホルトガル)。君はいつでも仏蘭西(フランス)か。浮世の希臘(ギリシヤ)と只印度(インド)、床を土耳其(トルコ)のひとつ夜着。埃及(エジプト)こちらへ寄らしやんせ。支那(チャイナ)支那と取りすがり。魯西亜(オロシヤ)の見える恋のみち、ハアトツチリトン⋯」

明治四年(1871)中村敬宇は『西国立志編』を発表した。これはS・スマイルズの『セルフヘルプ』の邦訳で、人間は忍耐し努力すれば出世すると説いて多くの読者を得た。その第十一編二十四にはこうあった。「稗官小説は人の戯笑に供し、その心志を蕩散するものにして、教養の事を汚すこと、これより甚だしきはなし」

稗官(はいかん)は民間の風聞を集めて王に奏上した古代中国の下級役人で、その風聞を稗史(はいし)と云う。明治の頃に稗官小説や稗史の語を用いるとき、そこには品下った低俗小説というニュアンスが込められていた。高級な文学は漢文調で政治を論じ、実用に資するものというのが当時の一般的な認識であった。

明治十四年(1881)東京大学の学生だった坪内雄蔵は英文学の試験で『ハムレット』を道徳的に批評し、英国人教師ホートンから悪い評点を与えられた。坪内はその時、日本的な勧善懲悪と近代ヨーロッパ文学の人間観との間に大きな違いのあることに気付いた。それは誰も考えなかった問題だったので、彼は洋書に独り学んだ。

四年後の明治十八年(1885)坪内雄蔵は『當世書生気質』を発表した。その小説は江戸的な戯作でも漢文調の政治論でもなかった。写実的な描写と軽妙なユーモアに彩られた新しさは学生を中心に評判を呼んだ。そして彼は、その第十回の末尾にこう書いた。「小説を以て実用技と同視」するのは「実用専門家の妄言なり」

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by hishikai | 2009-05-06 00:46 | 文学
2009年 04月 09日
島崎藤村『夜明け前』維新と御一新
e0130549_1281484.jpgかつて木曽の広大な山林は多くが尾州藩により伐採が禁じられていたが、米麦の乏しい土地でもあり、領民には各種の補助が与えられていた。だが明治四年に補助が廃止され、さらに山林の殆どが官有林になるとの県庁の方針が示されるに至り、木曽三十三ヶ村は山林の一部民有化を訴える嘆願書を準備した。このとき村民の意見を取りまとめた馬籠の戸長(旧庄屋)青山半蔵は県支庁に突然呼出されて戸長を免職となった。

〈翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、漸く彼も心の憤りを沈めることが出来た。いろいろ思い出すことが纏まって彼の胸に帰って来た。「御一新がこんなことでいいのか」と独り言って見た。時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔かな棗(なつめ)の木の陰から木曽川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。〉(夜明け前/島崎藤村)

「御一新がこんなことでいいのか」この一言が胸に響く。ここにある「御一新」は明治維新のもう一つの言い方だが、両者に込められたニュアンスはおのずから異なる。それは「明治維新」が中央集権国家の建設と文明開化に象徴される進歩であるとするならば「御一新」は尊王倒幕と世直しに象徴される復古である。

「明治維新」と「御一新」。進歩と復古。これらは明治という時代が、一方は対外的な官製の地表として、一方は潜在的な民情の地下水脈として、その船出の最初より抱え込んだ矛盾であった。現在では西欧思想の発露と考えられがちな自由民権運動も、実質は「尊王倒幕論の一転化」であったと徳富蘇峰は後に記している。

あるいは農本主義者の村落共同体思想、二二六事件の救貧思想、あるいは天理教の中山みきから、大本教の出口なおまで、それら近代化の道程に現れた幾つかの異端思想は実のところ、この地下水脈の地表への噴出ではなかったか。それ程までに二つの理念は明治を超え、近代日本全体を貫く矛盾だったのではないか。初夏の陽光に光る木曽川を見詰める青山半蔵の思念は、やがて次のように赴く。

〈彼半蔵のような愚直のものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込であった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人ともいうべき官吏にこの約束を行って貰いたいからであった。〉(夜明け前/島崎藤村)

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by hishikai | 2009-04-09 12:23 | 文学
2009年 02月 08日
『墨東綺譚』をめぐる二つの評論
e0130549_0315473.jpg佐藤春夫の『荷風先生の文学』と平野謙の『永井荷風』は、共に『墨東綺譚』に就いての評論だが、その内容は真っ向から対立している。両者の関係は佐藤が展開する荷風のヒューマニズム論に対して、平野が「そもそもお雪は所謂良家に主婦たることを希ったのであろうか」との設問で佐藤と荷風を批判する構図を描く。

だがこの設問自体、その前段に表明された「荷風固有の倫理観そのものも、私は普遍性を持たぬ固陋の観念にすぎぬと思う」という問題意識に比較して、突如とした低い次元への転落である印象を拭えない。「荷風固有の倫理観」を持出しながら「いましばらくそのことは措く」として「そもそもお雪は」と継ぐのは変調ではないか。

ここには『墨東綺譚』をめぐる評論の中心課題が「荷風固有の倫理観」にあることを暗々裏に認めながらも、なおそれを為永春水による人情本と同じ位置に結論付けようとする平野の意図が窺える。それは自身の信奉する人権思想と荷風の思想とを同じ机上に乗せて比較検討することへの平野の感情的な拒絶と診て大過ない。

この位置から平野謙の感受性は佐藤春夫のそれに遥かに及ばない。そしてここに荷風の嫌悪したものを探し出す必要があるとすれば、それを私は『日和下駄』にある「覚醒と反抗の新空気」という言葉に求めたい。それは裏を返せば荷風の愛したものが身分制下での「諦めの精神修養」や、佐藤春夫の評論中にある「その處を得」た生涯であることを意味する。

しかし「覚醒と反抗の新空気」は日本の近代国家存立のため避け得ない条件で、したがってそれは近代人一般の抜き難い性質であるとも言える。であればこそ荷風は職業的な自卑により、恰も身分制下にあるような「諦めの精神修養」を余儀なくされた売笑の女達を近代社会に取残された孤塁として愛したのではないだろうか。

往来に面した窓辺で客を引くお雪の姿を眺めながら、そんなお雪の中にもう一人の、近代人としてのお雪が隠されているのを大江匡は認める。そしてお雪が今の境涯から逃れ、もう一人のお雪が彼女の心の主人となった時に、それでもお雪は以前のお雪で在るかという自問に大江匡は否定の答を選んで自ら失恋する。そこに『墨東綺譚』の主題があり、近代人には了解を期し難い淡い余韻が「綺譚」の名に込められているのだと私は思う。

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by hishikai | 2009-02-08 00:35 | 文学
2009年 02月 06日
平野謙『永井荷風』より
e0130549_0464738.jpg墨東綺譚』については早く佐藤春夫の解題がある。私は昔から文学翫賞家としての佐藤春夫を信頼している。(中略)しかし、佐藤がこのような解説をさらに一般化し、『墨東綺譚』一篇を目して、文学の大道をゆくヒューマニズムのそれとするとき、私は到底その立言をうべなうことができない。(中略)

売笑は堕落でなく、一家の主婦として懶婦、悍婦となることこそ堕落とする荷風固有の倫理観そのものも、私は普遍性を持たぬ固陋の観念にすぎぬと思うものだが、いましばらくそのことは措くとして、そもそもお雪は「所謂良家に主婦たる」ことを希ったのであろうか。荷風も春夫も、そのみやすい一点にかぎって一種の盲点に陥っている。

作者のくりかえすように、大江匡とお雪とはその本名も生い立ちも知らずにはかなく生別したものである。すなわち、お雪は大江を目して、最後まで「淫猥の書画を商う者」と誤認しており、そのような日蔭ものの中年男なればこそ、「おかみさんにしてくれない」と囁く気にもなったのである。

そのお雪は、大江がすでに六十歳に手の届く老人であることさえ、弁えていない。秘密の出版にしたがうような日蔭ものであれば、と思いたったお雪のいじらしい自卑と謙抑の心根をも汲みとらずしてなんのヒューマニズムぞ。

ここに佐藤春夫の盲点があり、『墨東綺譚』全篇の盲点がある。「おかみさんにしてくれない」とさえいえば、懶婦か悍婦たらんと希うものと誤認する根性は、小金持の若旦那が人さえ寄ってくれば金をひきだす算段かと邪推するのと一般ではないか。(中略)

『墨東綺譚』一篇は決してヒューマニズムの文学などと呼ばわるべきものではない。(中略)作者の描きたかったのは、すでに老境にはいったひとりの男が、はからずも娼婦から愛情告白をささやかれる情景に他ならなかった。紙の上でもう一度丹次郎になってみたかったのだ。(永井荷風/平野謙)

※丹次郎 為永春水による人情本『春色梅児誉美』に登場する唐琴屋の丹次郎のこと。

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by hishikai | 2009-02-06 00:48 | 文学
2009年 02月 04日
佐藤春夫『荷風先生の文学』より
e0130549_13381390.jpg社会的虚偽に対する義憤、本然の人間性の愛惜追求、思うにこの精神こそ真のヒューマニズムで、文学の大道であろう。荷風先生はその陋巷趣味にも拘らず、文学の世界では久しくこの大道を闊歩しつづけた。だが先生の文学をいう者も多くは先生の高雅哀艶な装飾的部分を先ず注目して、遂に皮相だけしか吟味しなかった。

墨東綺譚』の主人公、大江匡は既にお雪が風姿の可憐を認め、その性情の美の共に人情を語るに足るのを知って三月ばかりも通っている。普通ならば箕帚を把らせるべきところを、大江はこは一大事とこそこそとお雪から遠退いてしまう。その理由は何か。ここにこそこの篇の題目がある。

それは大江匡がお雪を真に愛していたからである。誤って彼女を良家の婦にすることによって「一変して救うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になる」のを惧れたのである。これは大江の過去が彼に教えた分別であった。

大江は、その處を得て快活な性質のままに陋巷に売色の生涯を送っているお雪を真心から愛している故に、彼女を堕落させるに忍びなかったのである。(荷風先生の倫理を以てすれば陋巷に笑を売ることは堕落ではなくて、真の堕落は懶婦となり悍婦となって所謂良家に主婦たるにある一事を此際忘れてはなるまい。)

乃ち大江匡は自己の所信によって、自ら彼女を失う苦痛に堪えて彼女から遠ざかる決心をした──殉教者の如くにである。然も真に彼女を愛するが故に彼女の願望を拒む所以を彼女に会得させる術を見出さない。この思想上の隔絶が一段と悲痛である。

年齢の相違、境遇の相違、そうして最後に思想の相違とこう重ね重ね自覚しては、大江は疑うまでもなく、まのあたりにお雪を見ながらお雪とは別の星に住む思いから別の生物のような感じにまで達したに相違ない。このさびしさの訴えは慣用に従った抒情などといういう言葉では済まされまい。(荷風先生の文学/佐藤春夫)

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by hishikai | 2009-02-04 13:41 | 文学
2009年 01月 31日
永井荷風『日和下駄』より
e0130549_23036100.jpg私は今近世の社会問題からは全く隔離して仮に単独な絵画的詩興の上からのみかかる貧しい町の光景を見る時、東京の貧民窟には竜動(ロンドン)や紐育(ニューヨーク)において見るがごとき西洋の貧民窟に比較して、同じ悲惨の中にもどことなく云うべからざる静寂の気が潜んでいるように思われる。

もっとも深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く煤煙と絶間なき機械の震動とによりて、やや西洋風なる余裕なき悲惨なる光景を呈し来ったが、今しからざる他の場所の貧しい町を窺うに、場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し来ったそのままなる日陰の生活がある。

怠惰にして無責任なる愚民の疲労せる物哀れな忍従の生活がある。近来一部の政治家と新聞記者とは各自党派の勢力を張らんがために、これ等の裏長屋にまで人権問題の福音を強いようと急り立っている。さればやがて数年の後には法華の団扇太鼓や百万遍の声全くやみ路地裏の水道共用栓の周囲からは人権問題と労働問題のかしましい演説が聞かれるに違いない。

しかし幸か不幸かいまだ全く文明化せられざる今日においてはかかる裏長屋の路地内には時として巫女が梓弓の歌も聞かれる。清元も聞かれる。盂蘭盆の燈籠やはかない迎火の烟も見られる。

彼らが江戸の専制時代から遺伝し来ったかくのごときはかない裏淋しい諦めの精神修養が漸次新時代の教育その他のために消滅し、いたずらに覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私はその時こそ真に下層社会の悲惨な生活が開始せられるのだ。そして政治家と新聞記者とが十分に私欲を満たす時が来るのだと信じている。(日和下駄/永井荷風)※筑摩書房版より引用、新仮名使い。

大正三年に発表された『日和下駄』は、永井荷風による東京市中の景観に対する批評文であるが、また同時に人間と社会に対する彼自身の思想表明ともなっている。そして、その思想はここより二十余年の後、今度は小説という形で再び表明されることとなる。それが、あの『墨東綺譚』である。

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by hishikai | 2009-01-31 20:31 | 文学
2008年 11月 24日
アルフォンス・ドーデの作品
e0130549_2338540.jpgアルフォンス・ドーデは1840年、フランスのニームに生まれる。十六才の時に父の経営する絹織物工場が倒産し大学進学を断念、十八才でパリへ出て文学者を志す。そして1868年に自伝的小説『ちびくん』を、翌年にプロバンス地方の暮しを描いた『風車小屋だより』を発表し作家として認められる。

1870年、普仏戦争が勃発するとドーデもこれに応集する。だが六ヵ月後、戦争はフランスの惨敗に終わり、ナポレオン三世の見かけ倒しの帝国は崩壊する。パリには飢餓が迫りフランスは無政府状態寸前に立ち至る。そして1871年3月26日、パリ民衆がパリを占拠、これを六十二日間守りとおすパリ・コミューンが起こる。

ドーデはこの普仏戦争とパリ・コミューンの体験をもとに一冊の短編集をまとめあげ、1873年に『月曜物語』として発表する。その中の一編『最後の授業』は我国でも1927年から1985年まで教科書に採用され、多くの人々に感銘を与えている。林達夫の終戦の記録にも以下の記述が見られる。

「あの八月十五日の晩、私はドーデの『月曜物語』のなかにある『最後の授業』を読んでそこでまたこんどは嗚咽したことを想い起こす。(中略)日本のアメリカ化は必至のものに思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことであろう」(新しき幕明き/林達夫)

私達もかつてはアメル先生やフランツ少年だった。それだけにこの物語は、占領という行為を受けた無念が深い同情に転じて登場人物達へ投影されて心に響く。だが私達が彼らを見上げざるを得ないとすれば、それは占領者に対して彼らが自国の文化を守り通そうとしたのに較べて、私達が必ずしもそうではなかったためだ。

またドーデには『フランスの妖精』という作品がある。妖精という聖物を葬った国と民への怨念が、あたかも二二六事件蹶起将校らの魂の独白のように語られている。聖なるものを失った国に聖なる戦いなど出来ようはずもない。そのようなものは全て燃やしてしまえという老婆の言葉は、そのまま私達の堕落を告発している。

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by hishikai | 2008-11-24 00:11 | 文学
2008年 05月 31日
『蜘蛛の糸』
e0130549_1230295.jpg『蜘蛛の糸』は児童文学である。作品の出自から言えばそれも誤りではない。1918年7月、児童雑誌『赤い鳥』の創刊号に発表され、主幹の鈴木三重吉が「芥川が世間で持て囃されるのは当り前だ。まるで他の奴等とはモノが違ふ。(赤い鳥)始まって以来、こんな傑作を書いた奴は一人もゐやしない」と評価するこの作品は、しかしその位置付け故に、後世その読み方にある方向付けを余儀なくされる。

1937年、『国語解釈』(龍之介の『蜘蛛の糸』について)は次のように言う。「カンダタの様に無慈悲な利己主義を出した男は、やはり無限地獄に落ちること、強ひて教訓的に敷衍すれば、人間は自分の運命に甘えて高上りになつてはいけないということ等の意味が象徴されてゐると見るべきである」

エゴイズム。この読み方は戦後も変わらない。1962年の学校図書版『教師用指導書』は作品の主題を「お釈迦様の慈悲をもっても救い出せなかったカンダタの利己心」と画定し、1992年の大阪書籍版『小学道徳生きる力 6年』は作品を通じて「思慮深く節度ある生活をしようとする気持を育てる」ことを薦める。

『蜘蛛の糸』は三つの章から成り、一章はお釈迦様が極楽より蜘蛛の糸を垂らすまで、二章はカンダタが糸を上り落ちるまで、三章はカンダタの落下を視たお釈迦様が再び歩き出すまでを描く。エゴイズムを軸に読むならばこの作品は二章で結実する。その為か東京書籍と大阪書籍の副読本では三章が削除されている。

こうした読み方は、お釈迦様の問いにカンダタが応答しなかった浅ましさに教訓の果実を収穫しようとするものだが、読み方を変えることで、お釈迦様とカンダタという二つの存在の、この問いを介して互いの光と影を照らし深めるその経緯の中に、問い問われる両者の絶望と不信の果実を収穫することもできる。

ある者が他者のエゴイズムを悲しみ、なお自らのエゴイズムを棚に上げるという欺瞞を回避しようとするならば、その者は超越者であるより他にはない。その時に超越者は善悪をも超えるだろうが、しかし人が知るのは善悪である。善悪の彼岸にある者の問いに、善悪の手前にある者は何を頼みとして答えるのか。

手許で切れた糸を握りしめてカンダタはくるくる回りながら落ちていく。そうしながらカンダタは罪人達に「下りろ」と叫んだことを悔いるだろうか。いや、あの罪人達さえ問いが見せた幻だったのかも知れない。そうだとしたらカンダタは叫んだことを悔いるのではなく、人間に生まれてきたことを悔いるのではないか。

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by hishikai | 2008-05-31 12:51 | 文学
2008年 03月 28日
西行と定家
e0130549_14241218.jpg桜と女性は夢で見るのが良い。どうも現実の桜というものは何か恐ろしげで、ムンクやゴッホの絵のように精神がぐにゃりと曲がってゆくのを感じる。ただ一目なりと拝まないでは惜しいので、昨晩も桜の下のベンチに、うつむき加減で腰掛けて、ああ、西行の命日が過ぎていると、そのことばかり考えていた。

小林秀雄は西行を高く評価している。私は近代歌論の変遷なんて知らないので全くの印象で言うのだが、萩原朔太郎、保田與重郎、小林秀雄という日本浪漫派の系統の人は西行を詩人として高く評価する傾向があり、それが現在の西行評価の基底を成しているのではないかと思う。

例えば小林秀雄が『西行』で「心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」という西行の歌と「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋のゆふぐれ」という定家の歌を比較した箇所にその発想の典型があるように思える。

定家の「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋のゆふぐれ」となると、外見はどうあろうとも、もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べているのを見ると、詩人の傍らで、美食家があゝでもないかうでもないと言っている様に見える。(西行/小林秀雄)

歌には「作品の心」と「作者の心」がある。定家はその歌の幽玄で美しいのに、実像は人間嫌いで出世欲が強かったらしい。しかしそれはそれ「作品の心」が良ければそれで良いというのが昔年の評価だった。ところが小林秀雄は「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとする。

彼にとっては作品から透かし見える人間像が重要なのだ。そしてその人間像が作品にぴたりと重なった時に、それが生活者の歌となり、高い評価となる。しかしこの「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとする批評方法は誰が最初に始めたのか、小林秀雄はまずここを語るべきであろう。

1187年、70才になった西行は自らの創作活動の集大成として二巻の自歌合を編み、伊勢神宮に奉納することを思い立つ。そして西行がその自歌合の判定を託したのが、当時26才の藤原定家である。幾度もの催促の後、ようやく届けられたその判定を西行は病床にあって、人に読ませて三度聞き、自らも二日がかりで読み通す。

西行は定家の判詞に言う。「作者の心深くなやませる所侍ればとかかれ候、かへすがへすおもしろき候ことかな(中略)これ新しく出で来候ぬる判の御詞にて候らめ」(贈定家卿文)それまでの和歌の批評が「作品の心」を問題としていたことは、上述した通りである。しかし定家は「作者の心」を問題として西行の歌を評価した。西行はこの批評方法をまったく新しいものと見た。そして深く感動した。

「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとした最初の人は藤原定家だったのだ。そういう歌の批評方法があることを百も承知で、自身は美食家の歌を詠んだのだ。何も定家は狡猾な歌の学者であったわけでもなく、いけすかないテクニシャンであったわけでもない。定家は西行を、西行は定家を心から理解していたのだ。そして「願はくば 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と自らが詠んだ通り、西行は1190年2月16日、葛城山麓の草庵で息を引き取った。

by hishikai | 2008-03-28 14:31 | 文学
2008年 03月 26日
近代の文章
e0130549_2331449.jpg私は古典を読むことができない。もちろん先ずもって昔の字を読むことができないという問題はあるが、そこのところを全て活字に直したとしても、やはり読めない。だけど、はい、と源氏物語か何かを手渡されて、すらすらと読み下し、これは面白うございますなどと言えるのは学者のような専門家だけだ。

教育テレビの古典の朗読を聞いても酷いときには一言半句も解らないことさえある。こういうことが外国であるのかどうか、例えば現代のイギリス人がシェークスピアをどの程度理解するのか、ということは英語に通じていない私には知る由もないのだが、どうも私達日本人程には酷くないのではないか。

もっともこのような読解の断絶は、明治日本が性急な西欧化を推し進めなければならなかった、そこに国運が掛かっていたという事情によるもので、残念ではあるが仕方がない。その結果として明治の中頃から昭和十年頃までの時間をかけて、人称代名詞や時制の一致という英文法の影響下に口語体が成立してゆく。

だがこの口語体には明治大正の文語体が持っていた格調がない。そういうことの背景には西欧化による社会の変化、関東大震災や世界恐慌といったことがあるのだが、ともかくもこのような事態を憂慮して書かれたのが谷崎潤一郎の『文章読本』であるらしい。そこで彼は簡素な国文の形式に復れと訴える。

しかし丸谷才一は『小説家と日本語』という文章で、谷崎潤一郎が『文章読本』で「文法に囚われるな」と強調するとき、谷崎自身はそれを国文法の意味に言っているが、実のところそれは英文法のことであると指摘して『文章読本』の「文法」という言葉を「英文法」に置き換えてみるという実験を行なっている。

斯様に申しましても、私は(英文法)の必要を全然否定するのではありません。初学者に取っては、一応日本文を西洋流に組立てた方が覚え易いと云ふのであったら、それも一時の便法として己むを得ないでありませう。ですが、そんな風にして、曲がりなりにも文章が書けるやうになりましたならば、今度は余り(英文法)のことを考へずに、(英文法)のために措かれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国文の持つ簡素な形式に還元するやうに心がけるのが、名文を書く秘訣の一つなのであります。(小説家と日本語/丸谷才一)

こうすると意味がすっきりと通る。確かに谷崎のいう文法とは英文法のことであるようだ。谷崎潤一郎といえども英文法の束縛を脱し得ないというのは傷ましい。だが口語体を全くの和文脈へ戻してしまっては、その文章は伝達の用を為さない。だから如何に日本的な小説であろうとも、文章は英文法を骨格としなければならず、その現実は谷崎自身も自覚していたであろう。ただ日本的な情緒を伝えようとする程、却って日本的な伝達方法から離れざるを得ないというディレンマはあっただろうが。

by hishikai | 2008-03-26 23:44 | 文学