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2008年 03月 17日
和歌に附いての私見
e0130549_11412867.jpg実に新古今の技巧的構成主義を美学した者は定家であったが、それを真の詩歌に歌った者は、他の西行や式子内親王等の歌人であった。定家その人に至っては、彼の美学を歌の方程式で数学公理に示したのみ。それは単なる美の無機物にすぎないので、詩が呼吸する生きた有機体では無いのである。(恋愛名歌集/萩原朔太郎)

これは萩原朔太郎が自著『恋愛名歌集』の中で藤原定家に与えた評価である。ここには、詩が作者の体験に基づく詩情の表出でなければならないという考え方が前提としてあり、それは「すべての詩歌は本源に於ける詩情の燃焼なしに有り得ない」という萩原朔太郎のこれに続く言葉にも表れている。

この考え方は私達が日常に抱く、文章は筆者の体験と心の動きを表現したものだ、という考え方とも一致している。そしてこの考え方は、言葉は事象の伝達のための手段であるという認識の上に成立している。しかしこのような認識からは、和歌が全体としての言葉数に制限を設けているという事実の意味を説明することができない。単に詩情を表現するフィルターとして言葉が存在するのであれば、敢えて言葉数に制限を設ける必要は生じないからだ。

和歌が言葉数に制限を設けるということは、そこに言葉を伝達のための手段以上の存在と見る認識があることを考えてみなければならない。その辺りの認識について、古今和歌集仮名序は「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」心を種として言葉と成るのだと説明している。これはどういう意味か。

例えばある人が美しい花に出逢って和歌を作ろうとする。その場合、その人が美しい花について、言葉を使用して詩歌の上にそれを表現したのでは、和歌とはならない。和歌を作るということは、その人がある花について着想した心を、美しい言葉へと結晶化させ、それを一連の連なりを以て完成させるということを意味する。

言葉数の制限は全体としての結晶の連なりの長さを規定して、五七五七七の分節はその結晶の分配を規定する。別の角度から考えれば、和歌が言葉数を制限し、始めから終わりまでの長さを規定するということは、和歌がモノであることを私達に教え、五七五七七という分節の存在は、和歌というモノの具体的なフォルムの有り様を私達に示している。つまり和歌とは言葉の工芸品なのだ。

私達はその結晶の連なりを手に取り、持ち上げて日の光に透かして見る。そしてその輝きを愛で、作者の心に共感する。作者の心に共感した私達の心は新たな事象への感じ方を習得し、その習得した感じ方を、例えば日常の自然の移ろいへ、例えば旅行先で出逢う花紅葉へと適用して、そこに美のフラッシュバックを経験する。

藤原定家はこの位置に立脚し、この位置から歌を詠んでいる。定家は結晶の連なりが鑑賞者に対し、幾重にも事象への感じ方を示すことができるよう、鑑賞者の見る角度によりそれらが様々に揺らめき輝くよう精緻な細工を施している。この技巧的な結晶の連なりが、即ち萩原朔太郎の目に「美の無機物」と映ったモノの実体である。それは彼が詩人として和歌に接した為に見た光景だった。

彼のように和歌を詩の位置から捉える見方は、後の小林秀雄の西行や実朝への見方にも受け継がれているように思え、また現在ではそれが定着している観もあるが、その発想が伝統的な、少なくとも紀貫之から藤原俊成を経て藤原定家に至る詠歌の流れとは異なるという事実には重々留意すべきである。

確かに伝統的な詠歌に見られる言葉の認識は、今日私達の日常的な言葉の認識と大きく異なる。しかしだからといって、私達が一足飛びに自らの日常的な言葉の認識を過去に詠まれた和歌へと適用して、そのことを以て何か現代的な解釈が成立したと無批判の内に宣言してよいという訳ではない。

by hishikai | 2008-03-17 11:51 | 文学
2008年 02月 06日
嘉村磯多
e0130549_14283388.jpg嘉村磯多はある日街上で、学習院卒業式に出席された天皇陛下の行列に出逢う。汚れた足袋を脱ぎ、ふところにねぢ込む。襟前を掻き合わせ、羽織の折り目も正して、今か今かと両足を揃え、込み上げる恭敬の感情も押え難く立っている。すると「君、君、ちょっと」巡査に見とがめられ、住所、氏名、職業を調べられる。結核から腸出血を患い、異様な顔色の悪さが原因であった。群衆の視線が射すようだ。

「時節柄、直訴状でも携えて居はしないかと疑ぐられたのである。あれほどの多人数の中でたった一人。心、痛むとやせん!身、痛むとやせん!が、やはり私のどこかに直犯的な嘆かわしい形相が仮にも認められるのなら、なんとも恐れ入るほかない。

愁い多ければ定めて人を損ずるというが、触ればう人毎へ、闇をおくり、影を投げ、傷め損ずる、悪性さらにやめがたい自分であることが、三十三年の生涯で今日という今日は、真に眼にみ、耳にきき、肝に銘じて思い知らされた有難い気持から、落ち切った究竟の業因の牽くところ日月不照 千歳の闇室に結跏して無言の行をこいねがう、かような猛き懺悔改悛のこころで、室穴に差すしばしのみひかりをおろがむこと香光荘厳の御車のひびきのきこえなくなるまでボロ洋傘に凭れ掛って私は一心不乱にうなじを垂れていた」(曇り日/嘉村磯多)

嘉村磯多に救いは無い。ヘルダアリンの如くに自己と現実の狭間で崩壊する純潔も無い。ただ自らを潜在的犯罪者と恐れ苛む精神の牢獄の中で平伏し、運命に許しを乞い、時々に跳ね起きて奇声を発し、自身を自身で膺懲するのみである。

しかし私は理解する。社会の成功者、家庭の成功者、世間の承認、至尊の御稜威、それらを闇室の中から眺め上げ、己の不肖の浅ましさに頭を地に叩き付けて煩悶するその孤独を理解する。

以前に近しい人がこれを読み「馬鹿を言うな、誰だって我慢して懸命に生きているんだ。こいつは自尊心ばかり高い臆病者だ」と言ったが、この反応は正当に主張されてよい。が、やはり⋯と継ぐべきではない。抗弁は罪を重くするだけだ。

臆病な自尊心ということから引いて考えると、中島敦の『山月記』が想い起こされる。李徴は自らの才能を信ずるが活かし切れず、それでも詩業に立たんとするが終に家族が飢凍の身となるに至り官職に降る。その怨念と呪詛が彼をして一個の虎へと変身させるのだが、中島敦の典雅な漢文調がその比較を妨げているとはいえ、李徴の焦燥と嘉村磯多の懊悩は響きあう和音である。

あるいはこれが妄想の翼を逞しうして、二二六事件首謀者である磯部浅一の「天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」という獄中の叫びと「室穴に差すしばしのみひかりをおろがむこと香光荘厳の御車のひびきのきこえなくなるまでボロ洋傘に凭れ掛って私は一心不乱にうなじを垂れていた」という嘉村磯多の文章が、その不遇と怨念と呪詛とが一転して至尊への恋闕へと転ずるところに通じている、この両者の関係はオクターブだと言えば言い過ぎであろうか。

by hishikai | 2008-02-06 14:33 | 文学