カテゴリ:憲法・政治哲学( 83 )

2009年 08月 06日
姜尚中を読む
e0130549_14164437.jpg姜尚中の『希望と絆』(副題:いま、日本を問う)には、概ね次のようなことが書かれている。現在日本の自殺者数は先進国でも抜きん出て多いが、人々はその事に無関心である。そこから分かるように、現在の人々は他人の痛手に目配りができないでいる。また、それについては韓国も同じような様相を呈している。

それはサッチャー政権からレーガン政権へと受け継がれ、日本では小泉政権、韓国ではIMF危機以降に押し進められた市場原理主義が社会を傷めたからである。社会とは「絆によって結びついた人々の支え合いの仕組み」である。人と人とが支え合わなければ、個人は生きることができない。

にもかかわらず、市場原理主義は公共部門を私的部門へ移転することで、この支え合いの仕組みを自由競争と自己責任へ置き換えてしまった。つまり国や公共部門が負担すべきリスクを個人に負担させ、結果として個人はその負担に耐えられなくなっているのである。

市場原理主義、さらに広く言えば、近代やグローバリゼーションというものは、おびただしい数の人々の犠牲の上に成立している。しかしそういうものは、もうやめなければいけない。そのためには「あまりにひどい」「かわいそうだ」という常識から、ものごとの正当性を改めて問い直さなければならない。

ということだが、このような姜尚中の主張は現在の多くの日本人が──その政治的立場を問わずに──共鳴するところではないかと思う。もっとも姜尚中自身は、大手マスコミが今でも市場原理主義擁護の言説を繰り返し、したがって自分の主張は少数意見であると考えているようだが、事実は正反対である。

いまや市場原理主義の排撃こそがマスコミを始めとして、自民党から民主党、保守から革新、キリスト教徒から仏教徒、犬から猫まで、日本全国に生きるあらゆる生命体の脳裏を占める主要な言論テーマである。それは要するに、社会を「支え合いの仕組み」と見るか、見ないかということで、明治以来の日本人がずっと格闘してきた問題に他ならない。

だが、この問題に向かい合う時に「市場原理主義」などという在りもしないイデオロギーを考えても答えは出ない。考えるべきは、社会を「支え合いの仕組み」と〈見ない〉近代国家というものと交わり、また自らも近代国家を受け入れながら、しかし一方で社会を「支え合いの仕組み」と〈見たい〉日本人の(あるいはアジア人の)内心の葛藤についてなのだ。西洋仕立ての背広は着心地が悪くて仕方がない、さりとて現実としては他に着るものがない、そのことへの子供のような「むずがり」に自覚的であるか否かなのだ。

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by hishikai | 2009-08-06 14:18 | 憲法・政治哲学
2009年 07月 28日
政府の役割
e0130549_2204737.jpg政府の役割は公園のベンチを作ることである。公園のベンチは誰もが使えるという意味で一般的で、特定の人々を対象にしていないという意味で公平で、誰もが事前に使い方を知っているという意味で公正である。公園を散策する人はどのように歩こうと自由で、誰でもベンチを利用することができる。

その人が有徳の士であろうと不徳の士であろうと、有能の人であろうと無能の人であろうと、全体主義者であろうと個人主義者であろうと、異性愛者であろうと同性愛者であろうと、ベンチはそれらを一切考慮しない。それは選挙の票が誰でも一人一票であるように、ベンチにとって個人は匿名の中の一人である。

その人が男性であろうと女性であろうと、老人であろうと若者であろうと、子供がいようと子供がいなくとも、会社員であろうと農家であろうと、ベンチはそれらをあらかじめ考慮しない。それは全てのプロレタリアートが善人であると予め思い込むことの失敗を繰り返さないのと同じく、例えば全ての老人が貧しいと予め思い込むことをやめている。

その人が法律に精通していようと精通していなかろうと、組織の仕組みをよく知っていようと知っていなかろうと、団体に所属していようと所属していなかろうと、政治家に知り合いがいようと知り合いがいなかろうと、ベンチの使い方はただ腰掛けるだけである。その使用方法は簡素であるために誰でも前もって知っている。

そのような公園のベンチは公共財の典型である。公共財といえば道路や空港を考えがちだが、しかし公のものごとは法律が制定されて始めて具体的な制度となり設備となるために、公共財の第一は法律である。そして法律の性格を決定するのは、投票者と議員の立法に対する考え方である。

どこにどのくらいの格差があり、誰がどのくらい困っていて、誰が何を望んでいるかを調査し、逐一これに対応するように法律を制定するならば、当然の事ながら、そこには巨大な官僚機構が必要となる。そして彼らは莫大なコストをかけて、膨大な種類のベンチを作り、誰がどのベンチに座るべきかを命令する。

それは投票者が政府による生活への子細な助力を望み、そのような公約をかかげる候補者を選び、選ばれた議員が手に余る細目を官僚に委ねてしまうことの当然の結果である。多くの法律に見られる「何々条の何々の細目については、政令でこれを定める」という「立法の委任」が、官僚に大きな権限を与えている。

だから私たちが本当に官僚主導の国の仕組みを打破したいのであれば、まず私たち自身が自分のことは自分でしようと決心し、政府による生活への子細な助力を望むことをやめ、公園のベンチのように簡素ではあるが、特定の人々をターゲットにしたのではない、一般的で公平かつ公正な法律の制定を望むことである。

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by hishikai | 2009-07-28 22:07 | 憲法・政治哲学
2009年 07月 23日
国民と住民
e0130549_4291646.jpg基本的な考え方として、国家が国民という同質性によって政治的に統合される存在であることから、国政レベルでの選挙権と被選挙権が、政治的統合のための、国民にのみ与えられた権利であることは疑いがない。また国民が政治的意思決定に参画するという意味では、公務への就任権もまた国民にのみ与えられた権利である。

ところで永住外国人への地方自治での参政権を認めようとする人々は、この主体を「国民」ではなく「住民」と言い換える傾向がある。これは地域における連帯意識や愛着といった要素を強調しながら「国家の統治」と「地方の行政」との間に一線を描き出すことで、外国人の参政権について限定的かつ不拡大的な印象を与えようとするものである。

しかし地方分権が様々に議論されているとはいえ、今のところ我国の地方自治は、例えばアメリカの地方自治にみられるように、地方政府の構造と首長その他の役員選出の手続きを定めた自治憲章を地域に居住する人々が採択するという、ホーム・ルール制のごとき独立性を有しているわけではない。

我国の地方自治は、憲法の付与する一定の自治権を有する地方公共団体によって行われている。地方公共団体による自治は、その行政の具体的な内容については国会の関与すべきところではないものの、その構造と首長その他の役員選出の手続きについては国法に根拠を持っているために、国会の関与するところとなっている。

そのことから我国における参政権の議論では「国家の統治」と「地方の行政」の間に一線を描き出すことで、かたや国民としての問題、かたや住民としての問題といったような区別をつけることができず、ひとたび永住外国人への地方自治での参政権を認めるならば、その国政レベルへの拡大を不可とする理由はない。

また永住外国人の公務への就任についても、昭和28年3月25日の内閣法制局見解は「公権力の行使又は国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには、日本国籍を必要とする」として、これを「公務員に関する当然の法理」と述べている。

であるならば、地方公共団体の場合においても当然この法理は適用されるべきで、現に東京都の管理職選考試験の受験資格に日本国籍が必要であることについて在日韓国人が合憲性を争った事案で、東京地方裁判所は平成8年に、東京都の管理職が公権力の行使と公の意思形成に参画する性質のものであるとの見解を示している。

参政権の間接的な形が選挙権であるならば、直接的な形が公務への就任権である。そして我国の場合、地方自治の独立性が低いために、両者ともに国政レベルと地方自治レベルの間に明確な線引きを行うことはできない。参政権の議論で「国民」を「住民」と言い換えることは情緒的な偽装であって、我国の現実を反映しているわけではない。

self-governmentとして登場したイギリスの地方自治が、革命後のフランスでは国民主権との整合性から中央集権に道を譲り、ドイツでは分立する小国の自治権を否定するために国家による地方団体に委ねられる。我国の地方自治は戦前にドイツの、戦後にフランスの影響を受けている。写真のように竿灯を捧げ持つ人を私達が「秋田人」ではなく「日本人」と感じるのは、この地方自治の歴史体験も影響していると私は思う。

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by hishikai | 2009-07-23 04:35 | 憲法・政治哲学
2009年 07月 13日
投票のパラドックス
e0130549_0275398.jpg十八世紀フランスのコンドルセー侯爵は「ある選択肢が他の全ての選択肢と対決して、多数決で勝者となるならば、その選択肢こそ社会的に容認されるべき最良の選択肢である」と述べた。これはコンドルセーの条件と呼ばれるが、しかし同じ彼の研究がこの条件の容易に成立し難いことを明らかにしている。

例えばここにA氏、B氏、C氏の三名がいて、三つの選択肢について、彼らそれぞれが次のような選好順序を示しているとする。

A氏 うな重 > 親子丼 > ペヤングソース焼きそば
B氏 親子丼 > ペヤングソース焼きそば > うな重
C氏 ペヤングソース焼きそば > うな重 > 親子丼

まず、うな重と親子丼を三名の投票にかけてみる。すると二対一でうな重(うな重は親子丼よりも旨い)が選ばれる。次に、親子丼とペヤングソース焼きそばを三名の投票にかけてみると、二対一で親子丼(親子丼はペヤングソース焼きそばよりも旨い)が選ばれる。

この二回の投票結果を考えるならば「うな重はペヤングソース焼きそばよりも旨い」と結論されて良さそうである。だが念のために、うな重とペヤングソース焼きそばを三名の投票にかけてみると、二対一でペヤングソース焼きそば(ペヤングソース焼きそばはうな重よりも旨い)が選ばれてしまう。

ここから解るように、二者択一による多数決投票方式では投票にかける順序によって矛盾が生じ、構成員の選好を一意的に導き出すことができない。このような場合、常に「最後に比較されるものが勝者となる」のが鉄則である。政治のカードは最後に切る者が勝つ。

これは投票という具体的な行動だけではなく、公約を発表する順序、そのことで投票者の関心を推移させる順序にも応用することができるであろう。例えば自由民主党の立場からすれば、政権交代vs.景気対策──その勝者であるところの──政権交代vs.地方分権という順序で世論が争われるならば、衆議院選挙に勝利することができる。

A氏 政権交代 > 景気対策 > 地方分権
B氏 景気対策 > 地方分権 > 政権交代
C氏 地方分権 > 政権交代 > 景気対策

とはいえ都議選に大敗を喫した今日より以降の段階で地方分権のカードを切っても、さすがに真実味に欠けて効果がない。もはや逆転のタイミングは過ぎた。同じ敗れるなら都議選の前にカードを切るべきであった。ここに至っては東国原知事もゲームから降りるであろう。自由民主党は民主主義の素顔と、そこから導かれる政治技術を知らないのだ。

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by hishikai | 2009-07-13 00:56 | 憲法・政治哲学
2009年 07月 04日
『天皇論』(小林よしのり著)を読んで思ったこと
書店に入って歴史や思想の棚を探したが見つからず、申し訳ないと思いつつ忙しそうに立ち働く店員さんに尋ねたところ「こちらでございます」と案内していただいた新書の棚にこの本はあった。裏表紙をめくってみると二〇〇九年六月九日第一刷発行とある。

なるほど、これでは見つかるはずがない。小林よしのりという人の言論をぼんやりと知りながら、しかし一冊の著書も読んだことのない私は、彼の『天皇論』と題する本を数年前に発行されたものだとばかり思っていた。こういう思い込みは年寄りになった証拠だ。

『天皇論』の執筆が『戦争論』などよりも後になった事情は、あとがきに「一般庶民に混じって『天皇陛下万歳!』を唱和することに躊躇したり」する自身のメンタリティーを打破しなければ、天皇を語る資格はないと自重してきたからと述べられてある。

つまり小林よしのりとしては、まず戦後日本を取り巻く状況への不満とそれへの言論闘争があり、そういう薮の中をかき分けながら歩んできた先に、天皇陛下のご存在を発見したということであろう。

そしてこのような思想形成の順序は、今の若い保守層もまた同じで、小林よしのり自身昭和二十八年の生まれでありながら、その順序を共有する辺りに彼の支持される理由があるのではないかと想像される。

とはいえ本書は内容も行き届き、戦後日本への反論を願う読者への知識の供給を目的とする、いわば実用問答集として組み立てられ、散見される過激なジェスチャーは、あたかも受験生を鼓舞する塾の講師の熱心さである。

しかし一方でこのような思想形成の順序は、本書もまたそうであるように「天皇はなぜ必要か」という実利的な組み立てを必然としており、したがってその天皇論の是非は各要点を巡る論戦の勝敗にかかってくるという、むき出しの構造をしている。

これは現在の教育など諸状況から致し方のないことかもしれないが、私がこれについて思うのは、国民の天皇陛下への尊崇の念の源泉をまず一つ定め、そこから派生するものが何であるかという、価値の主従を持たせた組み立てができないだろうかということである。

そうでなければ中国の易姓革命という善政主義を否定し「人格は天皇即位の資格ではない」(p177)とする信仰としての立場と、一方で「天皇はなぜ必要か」という実利的な立場とが、一つの天皇観の中に並立する等価な思考として、あたかも波と防波堤のように衝突してしまう。

これについて私は信仰としての立場を主にすべきと考える。天皇のたかみくらは絶対無二の信仰を基礎とする。善政の有無やご人格の善し悪し、制度的必要性ではない。信仰に全ての端緒を求め、その流れの中で思考しなければ私たちの天皇を巡る歴史は永遠に「あれは善いが、これは悪い」という解釈の森をさまよい歩くだけであろう。

そうして民族の神としての天皇を発見しておいてから、その次に立憲君主としての天皇、法の支配に服する国制としての天皇を別個に考えるならば近代日本の天皇像は整序される。

この点で小林よしのりが、例えば神風連や二二六事件という不合理と、天皇機関説への肯定(p253)という合理とを、陛下がどちらを支持されているかとは別に、彼の天皇論の中でどのように折り合いをつけていくのか、不合理と合理、信仰と実利のいずれを重く見るのか、少なくとも本書を読む限りは不明で、今後に課題を残しているように思われた。

追記

むしろ本書の最大の価値は、天皇と国民主権との矛盾に言及し、見直すべきは国民主権の方である(p260)と明確に主張している点にある。

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by hishikai | 2009-07-04 11:48 | 憲法・政治哲学
2009年 06月 23日
安全保障について
e0130549_16503658.jpg戦争はなぜ起こるのか。これはほとんど答えの無い問いであるように思われる。人間の宿命だ。そう言ってしまえば何もかも説明しているようだが、それはかえって過剰な説明になる。その説明は戦争をする国家と、そうではない国家があるという事実について答えない。

私たち日本人も戦争には苦い経験を持つ。だから今日でも戦争を感情的に忌避するのだが、忌避することで戦争勃発を予見し、これを避け、あるいは避けるべきではないという切迫した判断がなされるかといえば、答えはノーである。忌避することは人を守らない。

e0130549_16513616.jpg昨年12月19日に帝国ホテルの一室で開かれた民主党幹部とアメリカの安全保障専門家との会談の席上、アメリカ側の一人で元国防次官補J.S.ナイが、民主党の政権公約に掲げられている安全保障政策に対して懸念を表明したということも、そのような戦争への考え方の違いを示している。

これを産経ニュースは「民主党が掲げる政策を一度にぶつけたら、米議会や政府は反米とみなすかもしれない」というアメリカ側の発言と共に伝えているが、問題なのは反米という言葉ではなく、この後でJ.S.ナイも指摘しているように、民主党の公約には「日米協力の全体像(トータル・パッケージ)がない」ということである。

それは現在の国際社会の構造、主要なプレーヤーである諸国家の歴史的な背景、同盟関係の現状、相互依存の度合い、それによる行動の予測、パワーの分析、脅威の特定といった観点から安全保障を考える、それも常に動いている情勢の中で考えるという思考が、民主党とこれを支持してきた日本人に欠如していることに起因しているのではないか。

戦争を感情やイデオロギーから考えることは、考える対象の内容に何らの区別も設けないために、あまりにも多くのものを説明してしまい、肝心の安全保障の実際については何も説明しない。そのような思考パターンをJ.S.ナイは次のように表現している。「止まった時計の針は、一日に二度正確な時間を告げるが、それ以外には用をなさない」

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『ゲルニカ』P.ピカソ 1937

by hishikai | 2009-06-23 16:58 | 憲法・政治哲学
2009年 06月 18日
北朝鮮の核問題について
e0130549_11593439.jpgアンダー・ドッグに味方せよ」というバランス・オブ・パワーの原則からすれば、北朝鮮への制裁に中国やロシア、そして時に韓国が消極的に反応することは驚くに値しない。彼らにとってみれば北朝鮮が核保有国になることよりも、朝鮮半島にパワーの空白が生じる不安定の方が望ましくない。

かといってアメリカが本腰を入れて対応するには北朝鮮は地理的に遠い。1890年代に拡大を続けるアメリカにイギリスが宥和したのは、遠いアメリカよりも近いドイツを恐れたためで、文化的同一性のみによるのではない。脅威の大きさは近接性に影響される。アメリカにとって北朝鮮はキューバではない。

これら一連の事態はバランス・オブ・パワーの前提である《(1)国際政治の構造は無政府的国際システムである(2)国家は自らの独立を至高のものとみなす》という認識に基づく行動が各国独自に為されるもので、その判断の重さはいかなる理念や事情もこれを超えるものではないことを示す。

e0130549_1201329.jpgこのことは我国の場合も同じで、上記の前提に立った認識に基づいて独自に行動することは当然である。他国と連携して行動することで目的が達成されると判断するならば、そうするのもよい。しかしそれが当てにならないと判断するならば独自のパワーを問題の核心である北朝鮮に対して行使しなければならない。

パワーには誘引するソフトパワーと強制するハードパワーとがあるが、この場合ソフトパワーの行使は我国と北朝鮮に共通の価値基盤がなく、北朝鮮に失うべき国際信義も存在しないために効果がない。経済制裁も中国の重油支援のような決定的な依存関係が我国と北朝鮮の間に存在しないために効果が低い。

したがって手段としてはハードパワーの行使、つまり軍事力の行使が考えられる。そしてこの軍事力にはミサイル迎撃から敵地先制攻撃、核兵器の保有から使用に至るまで全ての選択肢が含まれる。この問題は我国の独立に直結している。〈平和国家〉や〈唯一の被爆国〉といった理念や事情はこれを超えるものではない。

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by hishikai | 2009-06-18 12:18 | 憲法・政治哲学
2009年 06月 16日
バランス・オブ・パワー
e0130549_23283458.jpg第28代アメリカ合衆国大統領W.ウィルソンはバランス・オブ・パワーを、人民の利益を無視して政治的都合から国家をチーズのように切り分け、なおかつ戦争を引き起こして平和を破壊する邪悪な政治原則だとして嫌悪した。バランス・オブ・パワーに対する彼の認識は、ある意味で正しく、ある意味で誤っている。

主権領土国家こそが国際組織体の中で最も支配的な形態なのだということが公式化された1648年のウェストファリア条約以来、今日までの歴史はまさに戦争の歴史であった。その中で例えばポーランドは十八世紀から1939年までに四度チーズのように切り分けられた。この意味でW.ウィルソンの認識は正しい。

だが国際社会に軍事力を背景とする行動の全てを邪悪だとする統制は倫理的にも法的にも存在しない。また国家がバランス・オブ・パワーの原則を自らの政策判断に含めようとするのは、平和を維持するためではなく、独立を維持するためである。この意味でW.ウィルソンの認識は誤っている。

ここからバランス・オブ・パワーを考える上での二つの基本的な前提が見えてくる。(1)国際政治の構造は無政府的国際システムである(2)国家は自らの独立を至高のものとみなす。これである。国際社会について現実的な立場から何事かを考えるならば、この二つの前提を忘れるべきではない。

e0130549_11552872.jpgその上でバランス・オブ・パワーはアンダー・ドッグ(負け犬)を助けよと教える。トップ・ドッグ(勝ち犬)を助ければ、トップ・ドッグはいずれ向き直ってこちらを食おうとするかも知れない。諸国家は弱そうな方に味方する。これがバランス・オブ・パワーの政策的な原則である。パワーの不均衡は危険なのだ。

1941年にA.ヒトラー率いるドイツがソ連に侵攻したとき、イギリスの首相W.チャーチルはこれまで罵倒の相手だったスターリンと同盟すべきであるとしてこう語った。「もしヒトラーが地獄に侵攻するならば、私は悪魔についての褒め言葉を下院で述べてもよい」バランス・オブ・パワーの考え方を示す一例である。

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by hishikai | 2009-06-16 00:06 | 憲法・政治哲学
2009年 06月 03日
理想と制度
e0130549_1161095.jpg人間の不可侵の権利を保障するために政府があると述べた『アメリカ独立宣言』と、人間が天使であるのなら政府など必要ないと述べた『ザ・フェデラリスト』の間にある距離は、革命の第一幕である理想に基づいた旧制度の破壊と、第二幕である現実に基づいた新制度の創造という革命の二面性を表している。

そしてアメリカ革命が成功であるとするならば、この理想と制度の峻別こそ成功の要因で、フランス革命が失敗であるとするならば、この理想と制度の同一視こそ失敗の要因である。革命の指導者は情熱的な芝居で始った第一幕がやがて現実的な芝居の第二幕へ移行することを、予めその脚本に書込んでおかなければならない。

だがフランス革命で凄惨を経験したにも拘らず、その後のヨーロッパ大陸の政治思想史は──ドイツ民族社会主義しかりソヴィエト共産主義しかり──人間の理想と制度が一直線上にあることを証明しようと繰返された実験の記録で、そこに書き残されたのはそれら実験が尽く失敗に終ったという落胆のみである。

その落胆は私達に、人間を理想の法廷に引きずり出して、その自己本意で不埒な性根を叩き直すことなど出来はしないこと、むしろ人間の為すべきは、その自己本意で不埒な性根に沿った制度を構築すること、それが理想の側から見ていかに低級で苦々しくとも、理想による制度よりは遥かにましであることを教えている。

ましてそれが対岸の火事ではなく、近代の日本人にこそ熟慮されるべきであることは、早くは明治後期のプロレタリア運動から続く様々な左派陣営に対してだけではなく、これに対立してきた儒教的な日本主義以来の様々な右派陣営に対しても──彼らが理想と制度の峻別を知らないために──同じである。

そして現在の反中嫌韓現象が時務情勢上どうしても必要な運動であるとしても、それが成功した暁にどのような制度が構築されるべきかという点について、日頃侮蔑するGHQ民主主義の部分的な改良以外に答を用意し得ないことは、結局のところ民主主義が理想による制度であるという根本問題に目が向かないためである。

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by hishikai | 2009-06-03 11:13 | 憲法・政治哲学
2009年 05月 23日
公共のある生活
e0130549_13291566.jpg私達はいつでも「生活」のことを考えている。収入、医療、貯金、家事、育児などなど。現在では政治もそのためにあるようなもので、だから政治家は道路の建設や補助金の分配に日夜走り回っている。私達はそういう彼らの姿を眉をひそめるような気持で見ているが、それというのも元を糾せば私達の要求がそうさせている。

しかし、いつでも「生活」のことを考えている、ということは国政全般に対しても生活の側から眺めるに過ぎないのだから、やはり国家なり社会なり秩序の中に生きる人間の態度としては欠陥がある。実際に過去の全体主義体制が問題にしたのは、いつでも生活のことで、それで人々の支持を集めておいて反対者を殺した。

だからそうしたことが嫌ならば、私達はたとえ聖書の原義と違っていても「人はパンのみに生くるにあらず」と言わなければならない。自分達の生活の他にも大切なことがある、そう考えなければならない。それはグルメな料理とも、カワイイ服とも全然関係がない。人は時に生活を捨てる覚悟をしなければならない。

そこに「公共」という観念がある。生活が本能に根差すならば、公共は名誉に根差す。確かに私達が学校で教わったのは、名誉ある公共なんて嘘だ、そうしてみんな戦争に引っ張られたんだ、ということだった。しかしナチス政権や共産党政権の台頭に、生活から考える態度が無効だったことは歴史が教えている。

例えば今日よく言われる「生活者重視」という気持の持ち方は、ひとたび安定した生活を約束されてしまえば、その後は真実を見ようとする力を失う。そうではなく「私達は腹が空いてもかまわない。あの人達を殺してはいけない。それは私達の『名誉』が許さない」そう言えなければ、政治の悲劇を防ぐことはできない。

ここで名誉を言うのは、その発言に勇気がいるからで、勇気は金銭や食物という「生活」の産物とは交換できないからだ。そういう気持の持ち方を、H・アレントは建国期のアメリカを例に引いて「卓越への情熱」と呼び、その情熱が目指すのは公的幸福(public happiness)だと言っている。

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by hishikai | 2009-05-23 13:32 | 憲法・政治哲学