カテゴリ:憲法・政治哲学( 83 )

2008年 02月 12日
裁きのあり方
e0130549_18282474.jpg『沖縄ノート』で大江健三郎氏はハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマン』を引用しているが、しかし実際のところ両氏の考え方は大きく異なる。それが最も顕著に見て取れるのが、アーレントがユダヤ人有力者たちにより組織された委員会が一般のユダヤ人達の移送に深く関与していたことを実名を掲げて指摘しているのに対し、大江氏が「旧守備隊長」という表現を「一般的な日本人」という意味であるとして実名の明記を回避している点である。この相違はどこからくるのか。私の考えは以下の通りである。

アーレントは一人の人間には民族という概念に表されるところの「自然により与えられた条件」と、個人という概念に表されるところの「法により与えられた条件」という二つの層があると考えている。そして裁きは「法により与えられた条件」に依拠しなくてはならず、被告は個人として裁かれなくてはならないと考えている。従って民族に関わりなく個人的責任は実名を揚げて指摘されなければならない。

一方、大江氏は「旧守備隊長」を本土の日本軍から現地の第三二軍、そして渡嘉敷島守備隊というタテの構造の最先端に表出した存在と考えている。そしてその命令系統に、皇民化教育、基地問題、差別意識といった日本から沖縄へ押し付けられた諸問題の経路を象徴的に見ている。従って「旧守備隊長」は「一般的な日本人」となる。

そして『沖縄ノート』の「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」という記述にみられるように、大江氏は「旧守備隊長」を裁くべき対象であると考えている。であるならば、その法廷は「旧守備隊長」という「一般的な日本人」を裁くのであるから、それは民族という概念に表されるところの「自然により与えられた条件」に依拠した裁きを思考することを意味している。つまり「旧守備隊長」は個人としてではなく日本人として裁かれるのである。

この両者の相違はアーレントが法の公共性の中で問題を捕足しようとするのに対して、大江氏が民族の共同性の中で問題を捕足しようとすることにある。但し私は大江氏の考え方に賛意を表すことはできない。その思考に従うならば私達は共同性の回廊を永遠に歩き続けることになるだろう。なぜなら大江氏の思考は日本人の沖縄人に対する押し付けという自身が提唱する問題を、裏返しで私達に見せているに過ぎないからである。

現実に今もこの表裏の関係が罪責と怨讐の同居となり、現実的な進展に対する作用と反作用として問題の解決を妨げている。具体的には国内の左右両陣営が一方は日本人の側に寄り添い、一方は沖縄人の側に寄り添う形で対峙しているのがそれである。両者は寄り添う側が異なるだけで、その対立軸は共に民族の共同性にあるのみで法による裁きのあり方を顧みる事がない。その意味においてこの両者は対立していない。表裏の関係である。敗戦から六十余年を経て我国の戦後問題が一向に解決しないのは、根源的にはこの共同性に立脚した思考への強い傾きのためであると私は思う。

by hishikai | 2008-02-12 18:37 | 憲法・政治哲学
2008年 02月 07日
自由主義思想への考察
e0130549_1028050.jpg自由主義とは人間観である。「人間とは何か」という問いに対する深い悩みである。道徳が人間に期待する価値に対して、現実の人間はどれほど応えることができるのか、理性的な思索は人間の弱さや情念を把握しきれるのか。そのような理想と現実の距離を社会制度に反映させようとしてきた思想が自由主義である。

合理主義啓蒙思想は政治的な公民による投票は正しき民意を反映する、つまり「個人の意志が全体の意志と一致する」というフィクションを創出した。国民に主権を与えてこの筋書きを展開したのがルソーの「社会契約論」である。しかし見方を変えればこれは多数者による全体主義である。我国でもよく耳にする「国民が求めている」などという息苦しいイデオロギッシュな言葉は、この合理主義啓蒙思想により支えられている。

これに対してD・ヒュームやA・スミスなどに代表されるスコットランド啓蒙思想は、このような原子論的人間観は現実的ではなく、実践的政治哲学とはなり得ないと考えた。そこで彼らは国家成立の原理などよりも、成立後の人々が「どのような動機で行為するか」に目を向け、行為する人間を実践的に捉えようとした。D・ヒュームの「理性は情念の奴隷である」という言葉に顕される人間観が自由主義思想の礎である。

各人は自己愛を持ち「各人なりの幸福」を実現しようとして行動する。そのために人々は互いに足りないものを交換や交易によって得る、そのような過程を通して人々は少しずつ「各人なりの幸福」を実現し、また同時にその過程で様々な障害に出会う。そのたびに人々は様々な方法を試してプラクティスを重ねる。

そのようにして社会には知識が少しずつ蓄積されてゆく。そして商取り引きや、そこで生まれる人間関係を通じて、その知識を広め、また学ぶ。競争もその手段のひとつである。慣習も少しずつ確立される。違反者を排除するルールも人々の間に黙約される。この社会の営みを経済的に見たときには、それを「市場」という。

現実的な統治技術という側面で国家や社会を考えた場合、そこで想定される人間観は超越的な道徳哲学とは絶縁されたところに求められるべきである。人間は決して有徳な存在ではない。それは私達が日々の生活の中で痛いほど身に沁みている。現在の我国のように、人々の政治参加が進めば進むほど世の中が善くなると考えることは誤りである。「群衆の専制は倍加された専制である」というE・バークの言葉を思い起こされたい。

少数者が多数者を統治しているのが現実である。これは仕方がない。それならば私達は「うまく統治される方法」を考えるべきである。そのために問題をなるべく政治過程に乗せることなく、社会活動の中の利害得失の関係の中で解決されるよう努力すべきである。何事も投票行動により決めようとするのは政治依存症である。決定のプロセスを社会活動の中に組込むという一事だけでも、自由主義は検討に値する思想だと私は思う。

by hishikai | 2008-02-07 14:38 | 憲法・政治哲学
2008年 02月 05日
限定放棄説と全面放棄説
e0130549_21284936.jpg日本国憲法第九条が戦力保持をどのように定めているのかということについて、現在では必要最小限で認めるという、いわゆる「限定放棄説」を採る認識が多いように思う。しかし前文に示された理念、第九条の文理、マッカーサー三原則、吉田内閣の公式見解等を考えあわせると、第九条が限定的にせよ戦力保持を認めているとは考え難い。私は第九条については「全面放棄説」を採りたい。

昭和58年の政府公式見解は、それより以前に衆議院で示された理路を受け「国際紛争解決の手段としての武力行使の放棄を通して、日本国民は国際平和を誠実に希求する」それ全体が2項冒頭にいう「前項の目的」である、したがって第九条全体は自衛のための戦力保持を否定したわけではないというものであると思う。

しかし素直に読めば「前項の目的」は「国際平和を誠実に希求し」に求められるべきであろう。平和実現の「手段」である武力行使の放棄に言及した部分を「目的」に関連づけ、その全体を「前項の目的」であるとするのは主客の転倒した不自然な解釈ではないだろうか。

憲法の法源である前文が他国に頼る国防を表明している以上、我国が自衛を全うするためには前文を改正するか、第九条を改正するかの二つしかない。本来であれば前文を改正することが最も望ましいのであるが、国民の憲法制定権力が前文にまで及ぶか否か、つまり前文の改正が法理の上で可能であるか否かは難しい。

国民主権が人民主権であるならば、国民の憲法制定権力は憲法の根本的な性格をも変更できると考えられなくもない。しかしこのような無制限な憲法制定権力を認めることは、人民の持つ主権の無制限を認めることとなり、それはやがて人民の主権が憲法の上位に立つことを肯定する革命の論理となり得て危険である。

「限定放棄説」の定着は、例えば先の拓けた峻厳な道と、行き止まりの平坦な道の分岐点で、後者の道を選んでしまったようで憲法問題の解決という面からは後退である。現実の国防問題は理解するが、どこかで現行憲法の本当の姿を提示し続けないと改正の意義そのものが失われてしまうのではないだろうか。

by hishikai | 2008-02-05 21:42 | 憲法・政治哲学