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2008年 03月 31日
墨堤散策記
e0130549_22462375.jpg風流は寒きものとは巧く言った詞である。昨夜来の雨が上がらぬのを良いことに、花盛りの向島堤を雨中の漫ろ歩きに洒落込もうと吾妻橋の東詰めまで踏み出してきたが、川風は身を斬る程に冷たく、吐く息も白い。といって今更引返すわけにも行かないので、まあ仕方がないと諦めて川上へ向かって歩き出す。

二人は吾妻橋を渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は話しながら歩いた。自分はたんとも食わないのであるが、若い道連れに奢ってくれる積りらしく、老人は言問団子に休んで茶を飲んだ。この老人はまったく足が達者で、記者はとうとう梅若まで連れて行かれた。
「どうです、くたびれましたか。年寄のお供は余計にくたびれるもので、わたしも若いときに覚えがありますよ」
長い堤を引返して、二人は元の浅草へ出ると、老人は辞退する道連れを誘って、奴うなぎの二階へあがった。蒲焼で夕食を食ってここを出ると、広小路の春の灯は薄い靄の中に霞んでいた。(半七紹介状/岡本綺堂)

こういう文章を真に受けるからいけない。まして岡本綺堂が半七老人と歩いた道筋を辿ろうなどは、か弱い夢想に過ぎないのだ、と自分に文句を言いながらとぼとぼ歩いて行くと東武鉄道の蒸栗色の鉄橋が見える。そういえば永井荷風の『墨東綺譚』玉の井停車場跡の描写は、その取材を昭和十一年三月三十一日に行なったらしいと桶谷秀昭が書いていたな。だとすると今日ではないか。おお、何という奇縁。

堤に上がって見渡せば、桜は雨の中で今を盛りと咲き誇る。空は暗澹と東都を包んで薄墨を流し、川は春雨を集めて轟々と流れる。やがて言問橋を過ぎれば、さしもの浅草の喧噪もこの辺りまでは届かないとみえて、浪風の音が耳を聳やかす。緩く左へ蛇行した大川は消炭色の暗雲を映し、桜は両岸を埋め尽くして白く霞んでいる。対岸に目を凝らせば、待乳山の聖天様も山谷堀を従え雨に煙って佇む。

右手に言問団子を見ながら一旦市中に降りる。そろそろ梅若塚があるはずだ。それにしても、月天心、貧しき街を照らしけりとはこういう街をいうのだろう。嗚呼しかしどんな土地にも歴史は拭い難く染み付いている。それは人々の心に折り畳まれた悲しみの綾錦なのだ。道を往く古老の皺にもそれは刻まれている。梅若塚は木母寺の境内にあるはずだ。一寸聞いてみよう。もしもしお婆さん、木母寺は何処ですか、ええ、知らない。

前に京都で晴明神社を捜した時もこうだったな。晴明神社、知らないって。よく捜したら近所にあったじゃん。ましてこっちは謡曲『隅田川』の舞台だよ、全国で有名だよ。しょうがない、こうなったら一路奔走あるのみだな。歩け歩けどんどん歩け。白鬚橋も過ぎた、もうすぐ水神大橋だ、歩け歩け。

おお、あった。あったけどこれ何。お堂全体がガラスケースに入ってるよ。しかもお堂の扉が開いてて、中には工事用のドリルが転がっているだけだよ。お、ガラスケースの外にこんもり石が積んであるな。これかな。工事の人に聞いてみよう。すみません、これ梅若塚ですか、知らない、あ、やっぱり。そうだ納所で聞いてみよう。あれ、扉に鍵が掛かってるな。すみませ〜ん、ドンドン。誰もいないや。

無駄足だよ。ああ、そう思ったら急に足が痛くなってきた。そうだ、雨が上がったから傘をたたんで杖にして帰ろう。くそっ、見てろよ、浅草に帰ったら奴うなぎで熱燗だ。あたたた。これじゃ『隅田川』じゃなくて『弱法師』だよ。足もとはよろよろと げにも真の弱法師とて⋯

by hishikai | 2008-03-31 23:04 | 文化
2008年 03月 28日
西行と定家
e0130549_14241218.jpg桜と女性は夢で見るのが良い。どうも現実の桜というものは何か恐ろしげで、ムンクやゴッホの絵のように精神がぐにゃりと曲がってゆくのを感じる。ただ一目なりと拝まないでは惜しいので、昨晩も桜の下のベンチに、うつむき加減で腰掛けて、ああ、西行の命日が過ぎていると、そのことばかり考えていた。

小林秀雄は西行を高く評価している。私は近代歌論の変遷なんて知らないので全くの印象で言うのだが、萩原朔太郎、保田與重郎、小林秀雄という日本浪漫派の系統の人は西行を詩人として高く評価する傾向があり、それが現在の西行評価の基底を成しているのではないかと思う。

例えば小林秀雄が『西行』で「心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」という西行の歌と「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋のゆふぐれ」という定家の歌を比較した箇所にその発想の典型があるように思える。

定家の「見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋のゆふぐれ」となると、外見はどうあろうとも、もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べているのを見ると、詩人の傍らで、美食家があゝでもないかうでもないと言っている様に見える。(西行/小林秀雄)

歌には「作品の心」と「作者の心」がある。定家はその歌の幽玄で美しいのに、実像は人間嫌いで出世欲が強かったらしい。しかしそれはそれ「作品の心」が良ければそれで良いというのが昔年の評価だった。ところが小林秀雄は「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとする。

彼にとっては作品から透かし見える人間像が重要なのだ。そしてその人間像が作品にぴたりと重なった時に、それが生活者の歌となり、高い評価となる。しかしこの「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとする批評方法は誰が最初に始めたのか、小林秀雄はまずここを語るべきであろう。

1187年、70才になった西行は自らの創作活動の集大成として二巻の自歌合を編み、伊勢神宮に奉納することを思い立つ。そして西行がその自歌合の判定を託したのが、当時26才の藤原定家である。幾度もの催促の後、ようやく届けられたその判定を西行は病床にあって、人に読ませて三度聞き、自らも二日がかりで読み通す。

西行は定家の判詞に言う。「作者の心深くなやませる所侍ればとかかれ候、かへすがへすおもしろき候ことかな(中略)これ新しく出で来候ぬる判の御詞にて候らめ」(贈定家卿文)それまでの和歌の批評が「作品の心」を問題としていたことは、上述した通りである。しかし定家は「作者の心」を問題として西行の歌を評価した。西行はこの批評方法をまったく新しいものと見た。そして深く感動した。

「作品の心」と「作者の心」を同じ地平で見ようとした最初の人は藤原定家だったのだ。そういう歌の批評方法があることを百も承知で、自身は美食家の歌を詠んだのだ。何も定家は狡猾な歌の学者であったわけでもなく、いけすかないテクニシャンであったわけでもない。定家は西行を、西行は定家を心から理解していたのだ。そして「願はくば 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と自らが詠んだ通り、西行は1190年2月16日、葛城山麓の草庵で息を引き取った。

by hishikai | 2008-03-28 14:31 | 文学
2008年 03月 26日
近代の文章
e0130549_2331449.jpg私は古典を読むことができない。もちろん先ずもって昔の字を読むことができないという問題はあるが、そこのところを全て活字に直したとしても、やはり読めない。だけど、はい、と源氏物語か何かを手渡されて、すらすらと読み下し、これは面白うございますなどと言えるのは学者のような専門家だけだ。

教育テレビの古典の朗読を聞いても酷いときには一言半句も解らないことさえある。こういうことが外国であるのかどうか、例えば現代のイギリス人がシェークスピアをどの程度理解するのか、ということは英語に通じていない私には知る由もないのだが、どうも私達日本人程には酷くないのではないか。

もっともこのような読解の断絶は、明治日本が性急な西欧化を推し進めなければならなかった、そこに国運が掛かっていたという事情によるもので、残念ではあるが仕方がない。その結果として明治の中頃から昭和十年頃までの時間をかけて、人称代名詞や時制の一致という英文法の影響下に口語体が成立してゆく。

だがこの口語体には明治大正の文語体が持っていた格調がない。そういうことの背景には西欧化による社会の変化、関東大震災や世界恐慌といったことがあるのだが、ともかくもこのような事態を憂慮して書かれたのが谷崎潤一郎の『文章読本』であるらしい。そこで彼は簡素な国文の形式に復れと訴える。

しかし丸谷才一は『小説家と日本語』という文章で、谷崎潤一郎が『文章読本』で「文法に囚われるな」と強調するとき、谷崎自身はそれを国文法の意味に言っているが、実のところそれは英文法のことであると指摘して『文章読本』の「文法」という言葉を「英文法」に置き換えてみるという実験を行なっている。

斯様に申しましても、私は(英文法)の必要を全然否定するのではありません。初学者に取っては、一応日本文を西洋流に組立てた方が覚え易いと云ふのであったら、それも一時の便法として己むを得ないでありませう。ですが、そんな風にして、曲がりなりにも文章が書けるやうになりましたならば、今度は余り(英文法)のことを考へずに、(英文法)のために措かれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国文の持つ簡素な形式に還元するやうに心がけるのが、名文を書く秘訣の一つなのであります。(小説家と日本語/丸谷才一)

こうすると意味がすっきりと通る。確かに谷崎のいう文法とは英文法のことであるようだ。谷崎潤一郎といえども英文法の束縛を脱し得ないというのは傷ましい。だが口語体を全くの和文脈へ戻してしまっては、その文章は伝達の用を為さない。だから如何に日本的な小説であろうとも、文章は英文法を骨格としなければならず、その現実は谷崎自身も自覚していたであろう。ただ日本的な情緒を伝えようとする程、却って日本的な伝達方法から離れざるを得ないというディレンマはあっただろうが。

by hishikai | 2008-03-26 23:44 | 文学
2008年 03月 24日
日本庭園の好み
e0130549_1622694.jpg日本庭園の第一は何処かと問われて龍安寺石庭の名を挙げる方は多いと思う。かつて志賀直哉は『龍安寺の庭』という短い一文で、この庭を次のように評している。

自分は桂離宮の庭が遠州の長篇傑作であるとすれば、これはそれ以上に立派な短篇傑作であると思う。これ程に張り切った感じの強い、広々とした庭を自分は知らない。然しこれは日常見て楽しむ底の庭ではない。楽しむにしては余りにも厳格すぎる。しかも吾々の精神はそれを眺める事によって不思議な歓喜勇躍を感ずる。(龍安寺の庭/志賀直哉)

私も以前この庭の短篇傑作の妙に与らんと意気込んで拝観したのだが、率直なところ私の如き凡夫にこれを理解するのは無理だと悟った。有り体に言えば挫折したのである。

砂紋をめぐらせた白砂に左から五・二・三・二・三と配列される十五の石は見方によって、大海に浮かぶ孤島であったり何かそれ以上に精神の抽象であるかと思えるのだが、俗を離れて厳しいこれらの造形を濡れ縁から観ただけで把握するのは相応の緊張の持続を強いられる。

にも拘らず私の怠惰な心は正面の油土塀の様子の良さと、そこに乗る檜皮の色の柔らかさ、向うに広がる洛西の鮮やかな緑との美しい対比に視線を向けてしまうため終止緊張は弛緩し、ついに精神が歓喜勇躍するということはなかった。

だが大体が庭なのであるから小難しく考える必要はないのである。『都林泉名所図絵』という江戸期の京都名園案内書には、四人の拝観者が白砂に降りて僧の案内を聞いている図が示してあるが、必ず彼らの内一人ぐらいは石に歩み寄り、ぺたんと手で石を叩きながら「結構な風情でござる」などと言っているに決まっているのである。夢想国師も「山水に得失なし。得失は人の心にあり」と仰っているではないか。己の心の事と割り切って気楽に見れば良いのだ。

と言い訳したところで、私は毛越寺の庭が好きです。とはいえ実際に行ったことはないのだが、本をペラペラと捲っている時など、その中に毛越寺の庭の写真を発見すると決まって手を止め見入ってしまう。なだらかな山を背景として、鏡のように広がる大泉池。それをゆるやかに縁取る州浜。池中のやや傾いた烏帽子のような立石の黒く水面に姿を映して揺れる有様。

造営の頃は中尊寺をしのぐ華麗な伽藍が立ち並んでいたそうであるが、今は戦乱で消失し何一つ残っていない。しかしそれが却って廃園の美を誘い、この庭にとって人慮成らざる幸せであるとさえ思える。遠い平安の往時には、このような園池で盛装の貴人が龍頭鷁首の船を浮かべて弦歌の贅を尽くしたかと想うと、私は胸を掻きむしりながら狭い部屋の中を転げ回るのである。

by hishikai | 2008-03-24 16:22 | 文化
2008年 03月 21日
上方の色男
e0130549_1132589.jpg芝居を見る度、自分は大阪の芝居に出て来る色男と、東京の芝居に出て来る色男とは全く面目を異にしているのに心付く。伊佐衛門も治兵衛も忠兵衛も、大阪の色男はどれもこれも、皆あくまで柔和で親切で、そして何処にか恐ろしいほど我慢づよい処歯切れのしない処がある。封印切りの忠兵衛がもし江戸ッ子であったならば、封印のきれるまで、あんなに何時までも八右衛門の侮辱を忍んではいまい。封印のきれる騒ぎの前に、癇癪を起こして八右衛門をぽかりとやっ付けてしまったかも知れぬ。(永井荷風/色男)

まったくその通りである。あの封印切りの場ほど焦れったいものはない。噛み切れぬ甘い菓子を何時までもくちゃくちゃと噛んでいるような苛立たしさである。早々にぶん殴って幕を引いてしまうべきである。上方の芝居に出てくる色男は気位が高い割に気が弱く、嫉妬深く、且つ諦めが悪い。

いや、人間は実の処そういうものかも知れない。そういうものかも知れないが、あれは芝居である。人間の弱さを、未練を、悲しい強がりを斯くも丹念に描いて何が面白いのであろうか。むしろ残酷ではないか。そもそも上方の芸能というものは、人間をクローズアップし過ぎると私は思う。鬢のほつれの一本一本、涙の糸の一筋一筋までが克明に見て取れて、それが却ってナマな感じでいただけない。

江戸の芸能はたとえ心中物であろうとも、人物はおよそ没個性である。台詞もあまり人物毎に語り分けない。極端に言えば皆同じ顔の人形で、それが運命の糸に絡め取られて少しずつ破滅の奈落へ落ちてゆく。その哀れな人の営みを川風が包み、月が見下ろす。その深閑とした空気が主役である。

世話事の色男の創始者に初代坂田藤十郎を、一方クローズアップされた人間描写の創始者に近松門左衛門を想定する考え方がある。しかしこの両者は不可分の関係にあるのではないだろうか。色男はクローズアップされた人間描写への要求が生んだ人間像であろうし、また芝居が観客のニーズに支えられていたとすれば、その要求の素地は元禄以前に既に用意されていたと考えるのが妥当であろう。

これを平安王朝文学に求めようとする考え方もある。つまり在原業平や光源氏に、その原型を求めようというのだ。しかし文学上の趣向と、その趣向が芸能として一般の人々の間に在ったか否かは別の問題である。一般の人々の趣向に附いては、琵琶法師による平曲を考えてみなければならないであろう。

道行きの原型であると言われる鎌倉期の平曲「海道下り」はどうか。そこでは主人公の平重衡に対してクローズアップされた描写は行なわれない。それより瀬田の唐橋や比良の山が、己の運命を知らぬ者は重衡よ、お前一人であるぞと告げる如くに彼を眺め遣り、見下ろしている。その全体の空気を描いている。そう考えると、上方好みの人間描写の成立は南北朝から桃山の間に求められるのではないか。

しかし残念ながら私の浅学は、その決定的な成立点を発見できないで居る。ただその間の戦乱に明け暮れた時代と、明日をも知れぬ暮しを生きた上方の人々を考える。応仁の乱から大阪冬の陣、夏の陣と戦火に晒され続けた上方の人々の、道端に転がる焼けた屍骸をじっと見詰める眼差しが、克明な、そして一種残酷な人間中心主義となって心の底流に流れていたであろうことを考える。そんな時に人々は「狂え唯、遊べ唯、浮世は不定の身じやまで⋯」と唄ったそうであるが、真偽のほどは判らない。

by hishikai | 2008-03-21 12:06 | 文化
2008年 03月 19日
概念実在の誤謬
e0130549_959782.jpg国民という言葉がある。国会では議員が「国民は怒っている」とか「国民は求めている」と口角泡を飛ばし、テレビのコメンテーターも「国民は⋯」と力説する。その影響なのか、私達もご近所や居酒屋でそんな会話をする。国民は怒り、求めるのだ。しかし国民があたかも一個の人格であるかのようなこのイメージは事実に即しているのだろうか。

実は国民なるものは実在しない。国民は概念だ。その証拠に私達は市役所からは市民と呼ばれ、区役所からは区民と呼ばれ、村役場からは村民と呼ばれる。国民もそれらと同じで、一人何役もこなす名優の如き私達の役柄の一つに過ぎない。

社会もそうだ。社会は諸個人の活動をまとまりとして把握した概念であるのに、私達は何か地域的な共同体がそこに実在するかのように考えている。「社会全体の問題」などと言うとき、私達は頭の中で構築したモデルに過ぎないものを事実と取り違えているのだ。

こう考えると確かに実在しているのは個人だけなのかも知れない。ではその個人の集合体が、私達がよく使う意味の人格化された国民であろうか。それもちょっと違うようだ。私達が「国民は⋯」と発音したとき、もうそこには様々な事情を抱えて七転八倒するリアルな個人は抜け落ちている。

「国民が病気になった」と言わないのと同じように「国民が子供を捨てた」とは言わない。国民にはリアルな個人の苦しみはない。同じように「社会全体の問題」と言ったときにも、何か曖昧な結論が話の幕を引くことでリアルな個人が取り残されている。

私達は国民や社会というものが、本当は当事者の個人を除いた多数の傍観者であることを薄々知っている。にもかかわらず建て前として一体感を持った共同体がそこに実在するかのように言う。そういうとき、私達は辛辣な現実への緩衝材を求めているのか、あるいは冷たい嘘をついているのか、どちらにせよ、そういう考え方も言い方も誤魔化しに過ぎない。

しかしその結果、国民や社会が空疎なスローガンとなり、個人だけが現実の中を漂泊することとなれば、そこにある孤独は深い。だから私達は国民や社会という言葉で政治を語るのを、そういう緩衝材を思考の中に挟み込むことをやめてみることだ。実在するのは個人だけなんだと考えてみることだ。この世の俗事は大きなことも小さなことも、全ては個人が引き起こしている。そう考えるその頭のままで、政治や生活の事を考えてみる方が正直というものではないか。

by hishikai | 2008-03-19 10:06 | 憲法・政治哲学
2008年 03月 17日
和歌に附いての私見
e0130549_11412867.jpg実に新古今の技巧的構成主義を美学した者は定家であったが、それを真の詩歌に歌った者は、他の西行や式子内親王等の歌人であった。定家その人に至っては、彼の美学を歌の方程式で数学公理に示したのみ。それは単なる美の無機物にすぎないので、詩が呼吸する生きた有機体では無いのである。(恋愛名歌集/萩原朔太郎)

これは萩原朔太郎が自著『恋愛名歌集』の中で藤原定家に与えた評価である。ここには、詩が作者の体験に基づく詩情の表出でなければならないという考え方が前提としてあり、それは「すべての詩歌は本源に於ける詩情の燃焼なしに有り得ない」という萩原朔太郎のこれに続く言葉にも表れている。

この考え方は私達が日常に抱く、文章は筆者の体験と心の動きを表現したものだ、という考え方とも一致している。そしてこの考え方は、言葉は事象の伝達のための手段であるという認識の上に成立している。しかしこのような認識からは、和歌が全体としての言葉数に制限を設けているという事実の意味を説明することができない。単に詩情を表現するフィルターとして言葉が存在するのであれば、敢えて言葉数に制限を設ける必要は生じないからだ。

和歌が言葉数に制限を設けるということは、そこに言葉を伝達のための手段以上の存在と見る認識があることを考えてみなければならない。その辺りの認識について、古今和歌集仮名序は「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」心を種として言葉と成るのだと説明している。これはどういう意味か。

例えばある人が美しい花に出逢って和歌を作ろうとする。その場合、その人が美しい花について、言葉を使用して詩歌の上にそれを表現したのでは、和歌とはならない。和歌を作るということは、その人がある花について着想した心を、美しい言葉へと結晶化させ、それを一連の連なりを以て完成させるということを意味する。

言葉数の制限は全体としての結晶の連なりの長さを規定して、五七五七七の分節はその結晶の分配を規定する。別の角度から考えれば、和歌が言葉数を制限し、始めから終わりまでの長さを規定するということは、和歌がモノであることを私達に教え、五七五七七という分節の存在は、和歌というモノの具体的なフォルムの有り様を私達に示している。つまり和歌とは言葉の工芸品なのだ。

私達はその結晶の連なりを手に取り、持ち上げて日の光に透かして見る。そしてその輝きを愛で、作者の心に共感する。作者の心に共感した私達の心は新たな事象への感じ方を習得し、その習得した感じ方を、例えば日常の自然の移ろいへ、例えば旅行先で出逢う花紅葉へと適用して、そこに美のフラッシュバックを経験する。

藤原定家はこの位置に立脚し、この位置から歌を詠んでいる。定家は結晶の連なりが鑑賞者に対し、幾重にも事象への感じ方を示すことができるよう、鑑賞者の見る角度によりそれらが様々に揺らめき輝くよう精緻な細工を施している。この技巧的な結晶の連なりが、即ち萩原朔太郎の目に「美の無機物」と映ったモノの実体である。それは彼が詩人として和歌に接した為に見た光景だった。

彼のように和歌を詩の位置から捉える見方は、後の小林秀雄の西行や実朝への見方にも受け継がれているように思え、また現在ではそれが定着している観もあるが、その発想が伝統的な、少なくとも紀貫之から藤原俊成を経て藤原定家に至る詠歌の流れとは異なるという事実には重々留意すべきである。

確かに伝統的な詠歌に見られる言葉の認識は、今日私達の日常的な言葉の認識と大きく異なる。しかしだからといって、私達が一足飛びに自らの日常的な言葉の認識を過去に詠まれた和歌へと適用して、そのことを以て何か現代的な解釈が成立したと無批判の内に宣言してよいという訳ではない。

by hishikai | 2008-03-17 11:51 | 文学
2008年 03月 13日
上海バンスキング論
e0130549_10461434.jpg『上海バンスキング』を忘れられない。最初に観てからもう二十数年が経つが、今も頭の中で「林檎の木の下で」や「上海リル」が流れ続けている。この作品を支えているものは、東洋が植民地から独立国家群へと移行する時間的混血の美しさと、様々な文化が混濁する植民都市上海の文化的混血の美しさという、二つの混血の美しさだ。

時間の混血は、自覚される滅びの美だ。前の時代の思想が否定され、善だったものが悪となり、悪だったものが善となる。平家物語と終戦後の教科書の黒塗りが良い例だろう。そういう価値の混乱の中で人が人に返って往く、一切のお仕着せを捨てて人間の有りのままへと視線を返す、そういう思考の向きにだけ至上の価値を見ようとする転落者の諦めだ。

文化の混血は、自覚されない滅びの美だ。和魂洋才なんていうが、あれはとんだ嘘っぱちで、機関車にだって何だって創った人や時代の精神が後ろにある。だけど植民地や後発国には、そんなことまで考える余裕がないから、何でもあるものを組み合わせて、それで一応の決着つける。だから物の精神が失われて使い方だけ達者になって、形の美しさだけが際立ってくる。

でもそれじゃあ人間あんまり口惜しいし、上っ面だけさらってるなんて思いたくないから、だから後発国は和魂洋才なんて自分を誤魔化して、植民地は一切なんにも見ないことにする。市川崑の映画に出てくるような、片田舎の湖畔に建つ洋風御殿、日本式大広間の天井に吊られたシャンデリア、日本間にペルシャ絨毯を敷いて洋風机と本棚をしつらえた書斎がそうだ。文化的な混血は形の美しさだけが立ちのぼる健忘症患者の見る夢だ。

そういう諦めと誤魔化しが絡み合って、飲んで歌って時々泣いて「いつか見たよな忘れた上海」になる。でもそれはどこかの御殿だと思って平家の墓前で琵琶を弾いた、あの耳無し芳一の幻と同じことで、本当のところを見ていない。ただ本当のところを見ていても見ていなくても、肝心なのは滅び逝く美しさで、それが王朝以来の日本人の感じ方だ。

だから『上海バンスキング』は日本人の琴線にだけ触れる作品で、多分西洋人はあれを評して、ノスタルジックとかセンチメンタルとか言うんじゃないかな。嗚呼美しい、とは言わないだろう。でもそれは作品の価値とは関係ない。あれは普遍的な価値を持った名作です、なんて言う方がよほど詐欺だ。普遍にも必ず言出屁がいて、それがどれだけ広まるかは喧嘩が強いか弱いかの問題なんだ。

だけどやっぱり『上海バンスキング』を日本近代化の事情から切り離して、エキゾティシズムや魔都上海への憧れなんて表面のところしか見ないのならば、それこそ諦めと誤魔化しの繰り返しだ。『上海バンスキング』を『戦後バンスキング』が評するようなものだ。どこかで定点を持たないと、結局全ては夢のまた夢。もし『上海バンスキング』がそんな安っぽいものならば、二十数年も呪縛されているのは口惜しいから、ちょっと理屈を付けようと生意気を書きました。

by hishikai | 2008-03-13 14:33 | 文化
2008年 03月 11日
文化の国境
e0130549_16543683.jpg誰か身近な人を掴まえて、君には「内面」や「個性」といったものが在るかと問えば、当然だ、在るに決まっていると不審な顔をされるのがおおよそ判り切った結末であるが、これが例えば源氏でも伊勢でも古今でも新古今でもよいのだが、ともかくも我国の古典というものを紐解いてみると、その物語や和歌の中に哲学的な意味で言われる「内面」や「個性」を発見することがないのである。

そういう当然の事実から導き出される「内面」や「個性」というものが私達日本人の元々の考え方にはなく、したがって「心理」などというものも私達日本人には元々ないというものの見方は、戦前と戦後を通じて何か賎しむべき、だらしのない、考えるも汚らわしい考え方であるとされてきたように思う。

例えば三島由紀夫のような人でさえも、その描く日本人はエーゲ海に輝くアポロン神像の如くで、哲学的な前提を持たない日本人などというものは端から想定されていないのであるし、萩原朔太郎や保田與重郎といった日本浪漫派系統の人々が和歌や俳句を論じるそのときにも、ゲーテの如き詩人の偉大な魂というものを、何としてでも我国の古典に発見せねば気が済まぬといった様子なのである。

また中村真一郎は、あの病的なまでに執拗なほど人物の内面に分け入って刻み込まれた野間宏の文章を、戦後の「新しい現実の表現」として喜んで支持したのだと述べており、新しい現実などというものが本当にあるのか甚だ疑問であるとしても、ともかくこのような評価には自分達にも哲学的な意味の「内面」や「個性」や「心理」がある、あるはずだという抜き難い思い込みが示唆されている。

そのような中で谷崎潤一郎ただ独りが、賎しむべき、だらしのない、考えるも汚らわしい日本人を意識的に、そして前向きに活写してきた人である。私はこの指摘を全面的に長谷川三千子女史に負っていることを先に告白してから言うのであるが、確かに『細雪』に表現される人物はその一切が世間である。世間を描くことが人を描くこととなっている。そして人が時の移ろいのなかで、自らもまた時となり移ろってゆく。当然の事ながら時の移ろいに「内面」や「個性」や「心理」などない。

そういう人間の姿を私達は見失っている。前述の中村真一郎は『細雪』を評して「この小説で主人公は内部から照明されないで、専ら外部から他の副人物の心理の働きからだけ、描き出される」としているが、これもそのような見失いの一例である。このような現象は、日本が後発国であった為で、致し方ない事とはいえ、自前の感じ方を排除することが即ち私達の近代精神だったという理由に根差している。詰まるところ、日本人は近代化の過程で文化の国境を見失ったということである。

by hishikai | 2008-03-11 17:11 | 文化
2008年 03月 09日
遠い影絵
e0130549_11471489.jpg山手線に揺られて秋葉原のビル群を眺めていると、ここがかつて江戸と呼ばれた街なのかと不思議に思えることがある。アキバ系の混沌こそ日本の個性なのだという人もいるが、それでも自国の文化を「和のテイスト」などと聞くとやはり気が滅入る。永井荷風は明治の東京から江戸の風情が消えて逝くのを悲しみ惜しんだが、今やそれすら偲ばれる。

「苫のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸の船頭を照らす。川沿いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、ほりものした裸の男と酒を飲んでいるのが見える。水門の忍び返しから老木の松が水の上に枝を延ばした庭構え。燈影しずかな料理屋の二階から芸者の歌う唄が聞こえる。月が出る。倉庫の屋根のかげになって、片側は真っ暗な河岸縁を新内流しが通る」(永井荷風/深川の唄)

団子坂下で買った江戸錦という、海苔の多めに巻いてある霰せんべいを頬張りながら清元志寿太夫を聞く。さて何を読もうか。樋口一葉は小唄、広津柳浪は新内、清元だとやはり岡本綺堂だろうか。

「若い女をおどしにかけて白状させたと云われちゃあ、御用聞きの名折れになる。おれはおとなしくおめえに云って聞かせるのだ。その積もりで、まあ聞け。宮戸川のお光には此の頃いい旦那が出来て、当人も仕合わせ、おふくろも喜んでいる。ところが、その旦那には女房がある。これがお定まりのやきもちで、いろいろのごたごたが起こる。その挙げ句の果てに、女房は二日の晩にこの大川へ飛び込んだ。亭主もいい心持はしねえから、ひょっとすると、その枕もとへ女房の幽霊でも出るのかも知れねえ。そこで自分も大川へ来て、ひとに知れねえように、南無阿弥陀仏か南無妙法蓮華経を唱えている。話の筋はまあこうだ。大道占いはどんな卦を置いたか知らねえが、おれの天眼鏡の方が見透しの筈だ。おい、どうだ。おれにもいくらか見料を出してもよかろう」(岡本綺堂/半七捕物帳)

遠い影絵を見るようだ。古い日本の色がある。それにしても東京のビル群が教えて呉れていることは、東京は江戸を滅ぼして出来た別の文明ということだ。だから私がいつも思うのは、全てを討ち滅ぼしたその後で、葛籠の中に取り遺された印半纏をひっ被り、澄ました顔で江戸の後裔を名乗ることは精神の偽装じゃないかということだ。江戸っ児じゃあない、東京っ児だ。都合のいい時だけ化けようとしても、そうは問屋が卸しちゃいけない。そうだろう、徳さん。

by hishikai | 2008-03-09 11:48 | 文化