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2008年 03月 08日
徳さん(岡本綺堂『ゆず湯』より)
e0130549_10444869.jpg岡本綺堂の随筆『ゆず湯』で語られるのは、明治東京の一隅に生きた左官職人、徳さんの後半生。徳さんは麹町の元園町で阿母さんと妹のお玉さんとの三人暮し。一家は親代々の江戸っ児だが、近年開けたこの土地は新住人が多くて反りが合わない。三人はさびしい孤立の生活に甘んじている。

それでも陽気なお玉さん、近所の人を見れば笑って挨拶をする。そのうち誰が言い出したのか近所の噂に昇るのは、お玉さんには旦那がある、それも異人であるらしい。女の方から泊まりに行くのだと、ほんとうらしく吹聴する者まであらわれる。さすがにこれは響いたか、お玉さんから笑顔は消えて、ふっつり家から出なくなる。

日枝神社の本祭り。町内で踊り屋台を出すことになったが、踊る子が揃わない。そこで小芝居の役者を雇い入れ、踊り屋台は彼らを乗せて練り廻る。それを見咎めた阿母さん、江戸のやり方と違う、お祭には町内の娘さん達が踊るもんだと一悶着。「長生きはしたくない。」「早くくたばってしまえ。」と罵り合い。

阿母さんは寝付き、秋の終わりにお棺に入る。近所への配りものが行き届いていたためか、気の毒に思ったためか、少しは付き合おうとする者もあったが、それも長くは続かない。世話好きな人が嫁入りを媒酌しようと言っても「どうせ異人の妾だなんて云われた者を。」とお玉さんは取り合わない。

冬至の日、近所の湯屋。綺堂がゆず湯に身を沈めていると清元の神田祭を唄う人がある。錆のあるいい声で節廻しも巧い。湯気の中に透かして見れば声の主はかの徳さん。浪花節が方々の湯屋を掻き回している世の中に清元の神田祭。なるほど、今の元園町でこの兄妹が孤立するのも無理はない。

徳さんの家からつんざくような女の声。お玉さんはいつしか狂っていた。「ざまあ見やがれ。うぬらのような百姓に判るもんか。」仕方なしに徳さんは家を売って妹を巣鴨へ入院させることにした。九月のはじめの陰った日、お玉さんは町中の人を呪うように叫びつづけながら人力車にゆられて行く。「畜生。べらぼう。百姓。」

二年が過ぎた冬至の日、近所の湯屋。綺堂は入口の格子で徳さんの死を聞かされる。なんでも腎臓を患っていた徳さん、医者に行こうと薬缶を下げてよろよろ歩いているうちに、床屋の角の電信柱の前で立ち止まる。しばらく電信柱に寄り掛かって休んでいたかと思うと、急にぐたぐたと崩れるように倒れて死んだのだそうだ。「まあ、行き倒れのように死んだんですね。」「行き倒れ⋯。」

徳さんのたった一人の友達だった建具屋のおじいさんは言う。「徳の野郎、あいつは不思議な奴ですよ。なんだか貧乏しているようでしたけれど、いよいよ死んでから其の葛籠をあらためると、小新しい双子の綿入れが三枚と羽織が三枚、銘仙の着物と羽織の揃ったのが一組、帯が三本、印半纏が四枚、ほかに浴衣が五枚と、それから現金が七十円ほどありましたよ。ところが、今までめったに寄り付いたことのねえ奴らが、やれ姪だの従弟だのと云って方々からあつまって来て、片っ端からみんな持って行ってしまいましたよ。世の中は薄情に出来てますね。なるほど徳の野郎が今の奴らと附き合わなかった筈ですよ。」

by hishikai | 2008-03-08 11:11 | 資料
2008年 03月 06日
春信の絵
e0130549_19421993.jpg過去の事象というものを考えるときに、私達は今現在の立ち位置から過去へ目掛けて吹き下ろしていくように思考を巡らせがちであるが、時間の流れの実際に従うならば、私達はその思考を遠い過去から現在の私達に向けて吹き上げるように巡らせるべきであろうと思う。

例えば鈴木春信の絵を目の前に置いて、この絵の背後にはどのような音曲が流れているのであろうかと考えるときに、現在の立ち位置から思考を吹き下ろしたときには、今も歌舞伎座などで演奏されている音程のしっかりとした均整の取れた邦楽を想像するのであるが、これを向う側から吹き上げるように考えるときには、その背後に流れる音曲に琵琶平曲から出雲の阿国を経て彦根屏風に達するであろう、あの不揃いな哀愁を帯びた、華やかさよりもむしろ世の果敢なさを唱うことを旨とした古曲を選びだすのではなかろうか。

鈴木春信が活躍したのは明和年間であるから、あと百年程で明治維新でもあり、そのような絵に古曲をあてるのは余りに中世の余韻を長く想定し過ぎるのではないかと、もしそのように思われた方は試しに清元でも常磐津でも長唄でもよいから現代の名人といわれる人々の演奏と、桃山晴衣により復元された貞享年間の古曲とを聞き比べながら春信の絵を眺めてみて欲しい。

私自信これを試して春信の絵が何のためらいもなく古曲に寄り添うのを感得して驚き、またみるみるうちにその絵が放蕩のデカダンスから、凡俗を軽侮する洗練された文人趣味のそれへと変化するのを目の当たりにするに至り二度驚いたのである。

平曲の仏教的な無常感は、古曲にあって現世的な世の果敢なさへとその重心をシフトしていると私には感ぜられるのであるが、それと同じ歩調で春信の絵は現世の凡俗に歩み寄って対決し、その一切をシャットアウトしている。植物性絵具の穏やかな色彩も、斜に構えた女の姿態も、白いすねを覗かせて風に舞う着物の裾も、それら凡俗の汚濁をひらりとかわして精神で拒絶しているのだ。

したがって鑑賞者が例えば歌磨呂の描く女の向う側にそのモデルを探り、長い射程の全体で歌磨呂の世界を堪能する過程とは対照的に、春信の場合には鑑賞者は紙の上に刷り出された女その虚構そのものに対して性的なアプローチを投げかけることとなる。なぜならば春信が凡俗の汚濁を拒絶した結果として、画中の女は向う側にモデルを想起せしめるに必要な現実的な肉感を失い、果ては女であるのか男であるのかといった両性の境すらも失っているためである。

しかしそれでも鑑賞者が彼の性的なアプローチに対して著しく用意を欠いた、通常の性の対象とはなり得ないその女に対して、あたかも青い渋柿を無理矢理かじり切るように挑みかかるとき、彼の心に発生する淫靡な罪悪感が裏返しとなり、禁忌を犯すエロティシズムとして香り立つ。それが鈴木春信の絵の魅力であろうと思う。

by hishikai | 2008-03-06 20:06 | 文化
2008年 03月 04日
竹生島
e0130549_1256750.jpg夏の一日、桃山の名残りを見ようと竹生島を訊ねたことがある。切立つ島影を琵琶湖の水面に映して悠々と浮かぶこの小島に上陸して散策すると、やがて宝厳寺唐門に出逢う。豊臣秀頼の命で豊国廟から移築されたと伝えられる唐門は華麗な彫物の上に丸みの強い屋根を乗せて、その豪奢を重みとして建物全体を深い緑の中に沈めている。

近くに寄って彫物に触れると、その彫り跡の粗いことが認められる。線も放埒で歪みが多く、シンメトリーな意匠も実際にはそうではない。子供っぽい楽観を危ういバランスで造形に引き留めて、それがために返って生命力溢れる表現となっている。

一体にこういうものは何であろうか。確かに言えることは、ここには万葉や古今の詩魂を意図的な渋味の内に再構築しようとする、人工と慇懃に満ちた京都的な古い教養がないということだ。例えばあの東山銀閣のような計算され尽くした渋味をここに見ることはない。この風通しの良い傍若無人は時代を築いた織田信長と豊臣秀吉の気風であろう。

歴史を顧みると京都的な古い教養に対して武士の採り得る態度は、平氏や足利氏のように迎合し同化してしまうか、木曽義仲のように煩悶の内に破滅するかの何れかであると思われるが、どちらを選ぶにせよ、彼らをしてそうさせるのは己を田舎者と認めるコンプレックスのゆえである。

しかし信長と秀吉にはそれがない。己の田舎者を恥じない人達である。創意工夫によって弱小な一族から身を興した彼らのような人間に、古代の詩魂を二番煎じにした無批判な記憶学問は馴染まない。そのような田舎者を恥じない気風が京都的な古い教養を無視して異形の花を咲かせた、その事態を指して桃山と呼ぶのだろう。

もっともその傍若無人が後の時代に受け継がれなかったことは、東照宮の媚びた表現を思い浮かべると明らかで、歴史の常とはいえ残念でならない。宝厳寺唐門の気風が信長と秀吉であるとして、東照宮陽明門の気風が徳川家康であるならば、あの現実主義者のねちっこい精神が、職人の感性を政治の道具として小さく抑え込んでいることは想像に難くない。

桃山の彫物は親方が大まかな意匠を描き、多くの弟子が手分けをして彫るのであろう。牡丹を彫り、唐獅子を彫り、杜若を彫り、水流を彫る。その際にはのびのびと、多少の歪みは気にかけずに、それよりも小さくせせっこましくならぬように、サッササッサと楽しげに彫ったのであろう。そういうことが四百年を経た今日でも見る者に伝わってくる。それが竹生島に遺る桃山である。

by hishikai | 2008-03-04 12:59 | 文化