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2008年 07月 29日
『野干(のぎつね)王城を攻むるの話』
往時某山の岩窟の中にありて、帝王の道を記し載せある書を読むものありけり。その書には臣下を御する法、国を治むる法、戦争の法、人を用ゆる道など様々の事を載せありて、普通人の知るべくもあらぬものなりけるに、一匹の白き狐ありて岩窟に忍び居り、其れを読む人の声を聞き年月を経るほどに心に悟る節あり。

白き狐次第に驕る心を生じ「我は読書の声を聞きて万法を知れり。されどこのままにては甲斐無し。獣の王に成るべし」と勇み立ちて棲所を立ち出で諸処を巡り行きけるが、某野にて一匹の痩せたる野狐に逢いしかば、突然に打ってかかり打ち殺さんとしけるにぞ、痩せ狐は驚きて「何とて弱き我をば殺さんとは」と叫びける。

「我は獣の大王なるに汝敬礼を欠きたれば、その罪を責むるなり。今より心をあらためて、良き臣下となり忠義を尽くさば許さん」と云うに痩せ狐は降伏して従いけり。一匹の臣下を連れ野を歩きけるに、また一匹の野狐に逢いけり「この無礼者を打ち殺せ」と二匹ながらに飛びかかれば、この野狐も降伏し臣下となりぬ。

それより白き狐は前の如くして、遂には数千匹の野狐を従えて威勢を奮い、使いを遣りて狸と鹿を説き伏せ、猿を降伏せしめ、狐狸鹿猿の総勢をもって猪を征伐し、熊を討ち従え、牛と馬とを従え、狼と豹を降参せしめ、象を臣下となし、虎を従え、獅子をも味方となしければ、白き狐は真実に獣の大王とぞなりける。

白き狐は驕りの心長じて「我は獣の王なれば、人間の王女を妻となさん」と望みを起こし、自ら白き象に跨がりて数十万の獣を引き連れ、王城を十重二十重とぞ取囲みける。国王驚きて使者をもて尋ねれば、白き狐は進み出で「我は一切の獣の王なり。されば王女を娶らんとて此処へ押し寄せ来たりしが、我が言葉に従い王女を与えればよし、さもなくば命令を発して王城を粉となし呉れん」と云いしよしを、使者は帰りて王に申す。

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王は愁い悩みて臣下を集めて問わるるに、臣下らもまた恐れ「人のみにては猛獣に敵い難し。王女は傷ましきことながら、一城の民の命と一人の恥辱とは替え難ければ、王女を白狐に与えて戦争なきようするには如かじ」と群臣同じく云い出でける。

そのとき一人の大臣座をすすめて「如何に方々、忌わしきことを云いたもうものかは。古今の歴史を承るに未だ曾て尊き王女を獣に与えしということあるを知らず。彼に力あれば我に智慧あり。彼に牙あれば我に刀あり。何の恐るることあらん。恥辱を受けて生きんよりは美しく死するがよし。それがし愚かなれども謀事あれば誓って無礼めの狐を打ち殺さん。戦争は望むところなり」と申さば、王は大いに悦びて「その謀事は如何に」と尋ねたもうに「いと易きことなり。その時に臨みて我が為すところを視たまえ」と申し置きたり。

いよいよ戦うことを狐の陣に云い、且つ又「戦いの前に此方よりも閧の声をあぐれば、其方にても獅子に閧の声をあげさせよ。その後大いに戦わん」と云いければ、狐は王女を与え呉れざるに怒りをなし「さらば王城を揉み潰して呉れん。我が臣下ども明日は力めて戦うべし」と命令を下しける。

翌日となりければ狐は堂々と陣を進め整々と隊伍を整えけるが、まず城中よりして、天地も響くばかりの大音あげ、皆一斉にどっと声を合わせ揚ぐれば、狐の陣にては獅子躍り出でて、岩をも裂くべき猛き声もて一声高く吼えたりけり。

もとより狐は小賢しき智慧のみありて勇気なければ、我が臣下の獅子の必死となりて叫びし声を聴くと、ひとしく白き狐は大いに驚き心騒ぎして、象の上より地に落ちければ、諸々の獣共この様を視て、己が王の頼みにならぬを悟り、棲所へ棲所へ走り還りける。狐は腰の骨を打ちて痛さに苦しみ居るところを、この馬鹿者めと国王の臣下にただちに踏み殺されける。

幸田露伴編『宝の蔵』より(彌沙塞部和醯五分律巻三縮張一ノ十一丁)

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by hishikai | 2008-07-29 18:40 | 資料
2008年 07月 28日
渥美勝
e0130549_10445354.jpg渥美勝は明治十年(1877)滋賀県彦根町に生まれている。父は彦根藩士、母は伊井家の分家木俣家の出身、家は代々の武術師範である。彦根中学を卒業後、第一高等学校に入学。先輩に柳田国男、後輩に広田弘毅がいる。明治三十三年(1900)京都帝国大学法科に入学も中途退学。大阪で鉄工所工員となる。

大正二年(1913)東京神田の広瀬中佐銅像前に立ち、毎日のように街頭演説を始める。「桃太郎」と大書した旗のもと、日本神話にもとづく日本人の使命観と生命観を説く。「真の維新を断行して、高天原を地上に建設せよ」と結ぶのが常である。汚れた絣の着物に小倉袴をつけ、腰に手拭いをぶら下げている。職業は土工、人力車夫、映画館の中売、夜回り、下足番。住所は不定。

渥美の数少ない著作の一つに、故郷の白痴を描く『阿呆吉』という回想文がある。町の皆から阿呆吉と呼ばれる吉つあんは、道にある石ころや瓦片を黙々と道傍の溝に蹴落とす。何故そうするかと問えば「人が躓くと悪いからなあ」と答える。

渥美は言う。「耶蘇が高聲に説明しつつ行なつた事を吉つあんは黙つて行つて退けた」イエスと呼ばれる神の子も、その生涯に行なうことは唯一つ、人の道からその躓きになる瓦礫を取り除くことだと考える渥美は、吉つあんにキリストを、そして原罪からの救いよりも先に、至純な魂で国を修理固成(つくりかためなす)ことを命ずる神の愛児を見る。やがて吉つあんは飢え死にする。

「吉つあんは死んだのだ、その十字架は流血でなくて虚血であつた。虚華で無くて質実であつた。而して沈々黙々の裡に死んで仕舞つた。彼れを生むだマリアは誰だらう、はた又彼れの足にナルドの香油を塗りたるマグダラのマリアは彼れに在つたかどうか、そもそも又、彼れ逝いて後、彼に対するペテロ、ヨハネは有りや無しや、是れも誰れも知る者もない」

昭和三年(1928)渥美勝は急逝した。同年十二月九日、日本青年館で葬儀執行。葬儀委員長は頭山満、委員は永田秀次郎、丸山鶴吉、大川周明、赤池濃ら三十余名。参会者二百余名。そのとき渥美の手帳には「一食、一衣、一室を賜いて故旧友人に、改めて申訳なかりし罪を謝す」と書き遺されてあった。

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by hishikai | 2008-07-28 11:19 | 昭和維新
2008年 07月 27日
『阿呆吉』渥美勝(要約)
e0130549_3241411.jpg明治も中頃のこと、自分が彦根に居た時分に、吉つあんは銭湯に三助として半ば恩情で置いて貰っていた。三助といっても客の背中を流したり湯加減火加減に気を配って整えておくなどという器用なことは出来ない。そして他人から各種各様なことを言われても唯うんうんと答えるばかりなので、阿呆吉と呼ばれている。

吉つあんは寒暑を通して袷衣一枚で、そこに垢付いて皺だらけになった帯を一重回しに巻き、これを尻の上に結んで続けて七つばかりも結び目を連ね、あとはだらりと下げている。こういう扮装で、他人が笑おうがそしろうが、何処に風が吹くという顔をして、目途もなくぶらぶらと街路を歩いて行く。

吉つあんと呼べばうんと云う。甘味いものをやろうかと云えばお呉れと答える。やればうんと云って手にすると直ぐ口に入れる。お礼を言いなと云えば、またうんうんと云って、唯うんうんと云いながら貰ったものを更に頬張って、また目途もなくぶらぶらと歩いて行く。笑われはするが憎まれもしない。

吉つあんには馬鹿の一芸というべきものがある。吉つあんが例の風態で街路を歩む時、そこに石ころや瓦の破片があって、それが目に入った折は必ずこれを下駄で蹴って道傍の溝に落として行く。溝が見付からない場合には、溝のある所まで、溝に落ち込むことを見定めるまで、どこまでも根気よく蹴って行く。

ある時吉つあんが歯の欠けた下駄でせっせと小石を蹴って歩むのを見て、つい可笑しさに絶えず、近くに寄って「どうしてそんなに石を蹴るのか」と聞いたらば、返事に「人が躓くと悪いからなあ」とこれだけが短い挨拶であった。他人が躓いたからとてそんな配慮は不要ではないかとも聞いたが、話は一向不得要領で終わった。

その後私は郷里の外に遊ぶことが多かったから自然事情にも疎くなっていたが、一年帰省して旧友と語った際に聞いたことには、吉つあんの居候していた銭湯は主人が代わって、吉つあんは全然の放浪者となり、近頃は全く姿が消えた、聞けば中薮村辺の捨小屋で飢えて死んだそうだとの事であった。

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by hishikai | 2008-07-27 03:29 | 資料
2008年 07月 24日
anowl様 土俗的信仰習慣と日米開戦のラインについて
anowl様 コメントありがとうございます。字数が多くなりましたので、またこちらに書きます。私は日本人の土俗的信仰習慣の本質は素朴な神道だと思います。この土俗的信仰習慣が、明治政府による天皇神聖化に合流して、予定説的な天皇信仰の復活と、これを核とする天皇共同体の現出をみたのだと考えています。

そしてこの信仰と共同体の力は伊藤博文が考えた国教の中心としての天皇観や、帰朝者らが考えた英国王室を範とする単に忠誠の対象としての天皇観を超えており、これが明治天皇崩御に伴う病気平癒祈願や乃木大将の殉死により眼前の事実となったとき、夏目漱石など明治の知識層は戸惑いを覚えたのではないかと想像しています。

つまりこの後、大正から昭和にかけて表面化してくる農本主義者、大陸浪人、維新革命者、新興宗教指導者等々の提唱する天皇観こそが近代日本天皇観の本流であったということで、これが拡大し普遍化した結果の大陸進出と日米開戦であったと、極々簡単に言えばそういうことではないかと考えている次第です。

またこれを政治的な方面から言えば、国民国家というものが大衆の「我ら国民」たる意識の具現化で、そしてこれが下層からの強力な天皇信仰に支えられ、なおかつ伝統的に宗教から戒律を廃して内面化してきた結果としての法の不在という思考様式により、当時の政治はいわば神輿担ぎの状態にあったと思います。

これは電信柱にぶつかりそうになり、店先に飛び込みそうになる神輿のふらつきは、誰かが殊更にそう担いでいるのではなく、殆ど不可抗力的に現われる不安定であるということで、このモデルは日米開戦をどこかの時点で政治的指導力により回避できたとする見解よりも、当時の現実をよく説明していると私は思います。

ましてやアジアに於ける唯一の近代国家である日本が拡大し、近代の分家たる地位に満足しないのであれば、やがては本家の西欧列強と対決せねばならず、この主体たる国家の政治が神輿担ぎの状態であったのならば、結果として大衆の信仰が直接に西欧列強との対決に注入されざるを得ないと思います。

つまり漱石が抱くような天皇観は、より強力な土俗的信仰習慣に合流した天皇信仰よって淘汰されざるを得ず、この指し示す先に日米開戦があるということが、先般申し上げました明治知識人の天皇観と日本人の土俗的信仰習慣の先にある日米開戦のラインです。卑見を冗長に述べました。更にご意見をいただければ幸甚です。

by hishikai | 2008-07-24 13:14 | 憲法・政治哲学
2008年 07月 22日
anowl様
anowl様 コメントありがとうございます。私も文字数が多すぎてコメントを弾かれましたので、こちらに書くことにします。

ご指摘のように引用した日記には(A)当時の強い公権力への批判と(B)弱い国民への批判が述べられており、更に(A)には(1)諸事全般に対する徒な公権力の介入は非文明的である(2)天皇は神ではないのだから民間の静粛を強要すべきではない、という二つの内容が含まれていると思います。

(1)は『私の個人主義』に同主旨の主張があり(2)は『日記』の同年六月十日の項に「皇室は神の集合にあらず。近づきやすく親しみやすくして我らの同情に訴えて敬愛の念を得らるべし」という記述があり、各々が裏付けられると思います。ただし(1)が公権力側の方針に主な原因があるのに対し(2)はその原因の半分に明治以前からの庶民の土俗的信仰習慣の問題(この場合は庶民の側からの自発的な天皇信仰)があると思います。そして、これもご指摘のように漱石は認めていたと思います。

しかし今回引用の日記には(1)における被統治者側の問題として(B)へと繋がる記述があるのに対して(2)における被統治者側の問題として自発的な天皇信仰についての記述がないという点に、認めていながら書かないという漱石の態度があり、ここにアジア的近代に対する漱石の絶望があると私が感じました為に、今回掲載の文章になったという次第です。

私としましてもanowl様のご指摘は大筋で妥当だと思いますが、敢て差異を揚げれば、anowl様が(1)から(B)のラインに日米開戦と戦後民主主義を見ておられますのに対して、私が(2)から土俗的信仰習慣のラインに日米開戦と戦後民主主義を見ているという点にあるのかも知れません。

by hishikai | 2008-07-22 09:50 | 憲法・政治哲学
2008年 07月 19日
都下闃寂火の消えたるが如し
e0130549_13505588.jpg「明治四十五年七月二十日土曜日 晩天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて昏睡状態の旨報ぜらる。川開きの催し差留られたり。天子いまだ崩ぜず。川開きを禁ずるの必要なし。細民これがために困るもの多からん。当局者の没常識驚くべし。演劇その他の興業もの停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。

天子の病は万臣の同情に価す。然れども万民の営業直接天子の病気に害を与へざる限りは進行して然るベし。当局これに対して干渉がましき事をなすべきにあらず。もしそれ臣民衷心より遠慮の意あらば営業を勝手に停止するも随意たるは論を待たず。

然らずして当局の権を恐れ、野次馬の声高を恐れて、当然の営業を休むとせば表向きは如何にも皇室に対して礼厚く情深きに似たれどもその実は皇室を恨んで不平を内に蓄ふるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に醸すと一般也。(突飛なる騒ぎ方ならぬ以上は平然として臣民もこれを為すべし、当局も平然としてこれを捨置くべし)。

新聞紙を見れば彼ら異口同音に曰く都下闃寂火の消えたるが如しと。妄りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聴す。天子の徳を頌する所以にあらず。かへつてその徳を傷つくる仕業也。」(日記/夏目漱石)

自由主義的な官民関係を望んだ漱石の目には、当局による民業干渉は明治日本の後進性を示す出来事と映ったであろう。だが考えるべきは国会開設や租税問題などで勇敢に政府に抗してきた明治の民衆が、こと天子重患の報に接しては、当局の権を恐れ野次馬の声高を恐れるのではなく、事実として官命に従順であったことだ。

崩御後の自粛であれば儀礼に属することだが、崩御以前の自粛は即ち天子の病気平癒を願う信仰の表れである。これは立憲君主国日本の帝位が、実際には民衆の素朴な信仰に支えられていた事実を示す。だが英国を範とする漱石の脳裏に、この事実は一種焦躁の念を生じせしめ、それが為に漱石自身これを当局による民業干渉と翻訳することで自らに納得させようとしたのだろう。

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by hishikai | 2008-07-19 13:54 | 憲法・政治哲学
2008年 07月 17日
神輿
e0130549_12361727.jpg現代の東京で祭といえば何をおいても浅草の三社祭が第一等の名を馳せている。しかし例年神輿に乗る者があり、あるいは素行宜しからぬ連中も多く繰り出すとあって、今年は静粛のうちに執り行われたようであるが、これも風紀秩序の問題で致し方ないこととはいえ、年々東京の祭が廃れていくようで淋しい感もある。

今を去ること二百余年の昔、江戸の祭は現代に比較して幾数倍の盛況を極めていた。当時江戸の三大祭といえば山王、神田、深川八幡と相場が決まっていて、わけても日吉さんの愛称で親しまれた山王祭は将軍上覧に供えるとあって、天下祭と異称され非常に盛大であった。

全国に視界を広げれば京都に葵祭があり、大阪に天満祭がある。これに山王祭を加えて日本三大祭と称していたが、何ぶんにも山王祭は将軍上覧であるから、これが他の祭に劣るとあっては幕府の威光に関わる。そこで町奉行所では各町の町役を呼び出して「京大阪にはゆめゆめ負けるべからず」などと申渡していたようである。

こうなれば日頃から遊ぶことを生き甲斐とする連中にとってはしめたもので、お上の申渡しを嵩にきて富裕な商人に対し祭礼費用の寄進を半ば無理矢理に迫っていた。また迫られる商人にしても大方はこれを断るわけにもいかず、一種の租税とあきらめて負担に甘んじており、これが江戸の祭を支えていたという側面もある。

山王様といわず八幡様といわず神輿の渡御は盛大で、これを「神輿を揉む」と称して町内の若い衆が捩鉢巻きの肌脱ぎで前後左右からワッショイワッショイと神輿を振り立てるのだが、祭礼費用の寄進に潔く応じかった商人が制裁を受けるのも、またこのときなのだ。

往来の向うからワッショイワッショイが近づいてくる。旦那様と奥様が「やあ、これはにぎやかだ」などと店の中から見物しているところへ、いよいよこれが目前に迫る。するとあろうことかワッショイワッショイはそのまま門口を通り、土足のままで店に踏込み、家財を蹴壊し、看板を叩き落とし、あらん限りの乱暴狼藉をはたらき、やがて往来へ去ってゆくという始末。

「おもうさま 降って上がった 夕影に 灯し染めたる提灯も なにかにつけて町内の そぞろ浮き立つ祭声  まっぴらごめんねえ 祭にやあ神輿を担いで廻るんだが おめえんとこの軒が邪魔くせえから とっぱらっちゃあくんめえか」(小唄/祭)

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by hishikai | 2008-07-17 12:50 | 文化
2008年 07月 15日
棄聖と通人と私達
e0130549_1114496.jpg井原西鶴に『人には棒振りむし同前におもはれ』という短篇がある。現代人はこれを読むとき、一種異様の感触に襲われるであろう。主人公の利三衛門が自らの零落した姿を全く恥じないこと。なけなしの金で旧友をもてなそうとすること。旧友の金銭的援助をあくまでも拒絶すること。極貧生活を苦境と感じていないこと。

人が理解の範疇を逸脱するものに対して肯定的評価を与えることはまず無い。だからこの利三衛門に対しても、痩せ我慢、意地っ張りなどという否定的な評価を与えることは容易である。まして彼に妻子があり、その扶養義務を論ずる人であれば、利三衛門に最悪のエゴイストの姿を見い出すかも知れない。

しかし澁澤龍彦は全く別の見方に立って利三衛門を次のように評している。「旧友のお情けを受けたくないというのも、やせがまんや意地ではなくて、むしろ現在のささやかな幸福を他人に乱されたくないという、独立自尊の気持からのことでしょう。こういう境地に達するのが、つまり、遊びつくした通人の、最後の理想だったわけです」(快楽主義の哲学)

唐木順三は更に透徹して利三衛門に棄聖(すてひじり)の伝統を見ている。棄聖とは持てるもの一切を棄て尽くし、あたかも乞食の姿となり各地を遊行して浄土の理想を求める人である。例えば一遍上人があり、古くは『今昔物語』に先例がある。唐木は通人の理想にはその底流として、棄聖の伝統が流れているという。

ここまで来ると現代の私達の理解を超えている。しかし通人の理想にせよ、棄聖の伝統にせよ、それが人間評価と社会的評価とを別個に見る考え方であるのに対して、私達の普通の思考というものが、人間評価と社会的評価とを一体に見る考え方であることには注目すべきだろう。

なぜなら一個の人間に対する評価を、あるいは自己に対する評価を地位や経歴といった社会的評価と固く結びつけて行うことが今や私達の普通の思考となっていることが、一方で人間を個別的絶対的な存在から、社会により相対的に発見されるゲシュタルト、社会の影絵へと転落させることをも普通としているからだ。

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by hishikai | 2008-07-15 10:51 | 日常
2008年 07月 13日
『人には棒振りむし同前におもはれ』井原西鶴(要約)
e0130549_1213834.jpg上野の池之端に大きな金魚屋があった。水を入れた箱を幾つも並べて、浮き草にくぐる紅い金魚の姿を見せていた。ここに一人の男が入って来た。小桶を持ってむさくるしい装りをしている。男は金魚の餌となる棒振蟲を集めて小桶に入れ、この店に二十五文の値で売ってゆくのだ。

偶々ここを訪れていた三人の商家の旦那がいた。彼らの一人がふとこの男を見ると、それはかつての伊勢町の利三衛門という大金持ちで、昔日彼らと共に吉原で遊び暮らした仲間であった。利三衛門が家を払って姿を暗ましてからというもの、三人がこれを気にかけていたところへ、偶然この金魚屋で出逢ったのだ。

見れば生活に困っている様子、十分とはいえないまでも助力しようと申し出た三人に利三衛門は、このような姿も女郎買いの行末で世の習い、さのみ恥ずかしいとは思っていない、また悪所の縁で生きていると言われるのは口惜しい、それより再び会うことも無かろうから一杯飲もうと皆を茶屋へと誘い、なけなしの二十五文を投げ出すのだった。

なんのそれなら利三衛門の住まいで昔語りでもしよう、さてそれにしても今の境涯は如何にと道々尋ねれば、吉原から身請けした女房はよくやってくれている、いまは四つになる男の子もあり、夢のように暮らしているとのことだった。やがて入谷の侘び住居に近づくと、中から「ととさま銭もって戻らしゃった」と子供の声。

女房はと見ればこれも以前に吉原で知った顔。家に招き入れて、先ずはお茶と思ったけれども薪が無かったので、仏壇の扉を打ち割って間に合わせた。子供が裸なので理由を問えば、先ほど溝にはまったが着替えが無い、だから乾くまで裸でいるのだと言った。

三人は秘かに打合わせ、手持ちの小金をそっと置いて家を出た。夕闇迫り帰路を急ぐ三人に、やがて小金を握りしめた利三衛門が追いついて、これはどうしたことか、筋なき金を貰うべき仔細なしと言って、その金を投げ捨て立ち帰ってしまった。

それから二三日たった頃、三人は心付いた品物を使いの者に持たせてやったところ、侘び住居はすでに空家となってもぬけのから。慌てて方々詮索したが利三衛門と家族の行方は終に知れなかった。三人はこれを嘆き悲しみ、思えば女郎狂いは迷いの種だと口々に言い合わせ、そろって廓通いをやめたのだった。

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by hishikai | 2008-07-13 12:39 | 資料
2008年 07月 11日
昭和十一年七月十二日
e0130549_12343944.jpg七月十二日を想起するに、涙新たなるものあり、余と磯部氏とは前夕、同志と一緒なりし獄舎より最南位にある一新獄舎に移さる。十二日朝、十五士の獄舎より国歌を斉唱するを聞き、次いで、万歳を連呼するを耳にす、午前七時より二、三時間軽機関銃、小銃の空包音に交じりて、拳銃の実包音を聞く、即ち死刑の執行なること手にとる如く感ぜらる。磯部氏遠くより余を呼んで「やられてゐますよ」と叫ぶ、余東北方面に面して坐し黙然合掌、噫、感無量、鉄腸も寸断せらるるの思あり、各獄舎より「万歳」「万歳」と叫ぶ声砌りに聞こゆ、入所中の多くの同志が、刑場に臨まんとする同志を送る悲痛の万歳なり、磯部氏又叫ぶ「私はやられたら直ぐ血みどろな姿で陛下の許に参りますよ」と、余も「僕も一緒に行く」と叫ぶ、嗚呼、今や一人の忠諫死諫の士なし、余は死して維新の招来成就に精進邁進せん。(二・二六事件獄中手記・遺書/村中孝次)

先月十二日は日本歴史の悲劇であった 同志は起床すると一同君が代を唱へ、又例の渋川の読経に和して冥目の祈りを捧げた様子で、余と村とは離れたる監房からわずかにその声をきくのであった 朝食を了りてしばらくすると 萬才萬才の声がしきりに起る 悲痛なる最後の声だ うらみの声だ 血と共にしぼり出す声だ 笑ひ声もきこえる その声たるや誠にいん惨である 悪鬼がゲラゲラと笑ふ声にも比較出来ぬ声だ 澄み切った非常なる怒りとうらみと憤激とから来る涙のはての笑声だ カラカラしたちっともウルヲイのない澄み切った笑声だ うれしくてたまらぬ時の涙よりももつともつとひどい 形容の出来ぬ悲しみの極の笑だ 余は泣けるならこんなときは泣いた方が楽だと思つたが、泣ける所か涙一滴出ぬ カラカラした気持でボヲートして 何だか気がとほくなつて 気狂ひの様に意味もなくゲラゲラと笑つてみたくなった 午前八時半頃からパンパンパンと急速な銃声をきく その度に胸を打たれる様な苦痛をおぼえた 余りに気が立つてヂットして居れぬので 詩を吟じてみようと思つてやつてみたが 声がうまく出ないのでやめて部屋をグルグルとまわつて何かしらブツブツ云ってみた 御経をとなえる程の心のヨユウも起こらぬのであつた(二・二六事件獄中手記・遺書/磯部淺一)

この手記を残した村中孝次と磯部淺一は事件の首魁として、この日から更に約一年獄中にあった。彼ら二人は昭和十二年八月十九日に銃殺された。

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by hishikai | 2008-07-11 12:53 | 憲法・政治哲学