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2008年 08月 29日
ゆく蛍
e0130549_1674969.jpgむかし男ありけり ひとの娘のかしづく いかでこの男にものいはむと思ひけり うち出でむこと難くやありけむ もの病みになりて死ぬべきときに かくこそ思ひしかといひけるを 親聞きつけて 泣く泣く告げたりければ まどひ来たりけれど 死にければ つれづれとこもりをりけり 時はみな月のつごもり いと暑きころほひに 宵はあそびをりて 夜ふけてやゝ涼しき風吹きけり 蛍たかく飛びあがる この男見臥せりて

ゆく蛍 雲の上までいぬべくは 秋風吹くと雁に告げこせ
暮れがたき 夏のひぐらしながむれば その事となくものぞ悲しき

(伊勢物語 四十五段)

娘が臨終の床で告白した恋を、親が男に告げるという叙事としての前半が、やがて惑い来た男の、女の死に間に合わず、徒然として籠るという一文で暗転し、その暗みの中で「みな月」「涼しき風」「蛍」と名詞を連ねた叙景が始まり、反魂の歌が詠ぜられ、最後には一転して夏の昼下がりに佇む男が詠まれ、物語は終わる。

堀辰雄は『伊勢物語など』でこの四十五段を取上げて「なにかレクイエム的な、もの憂いような、それでいて何となく心をしめつけてくるようなものでいつか胸は一ぱいになっております」と書いていて、この一文が四十五段の美しさを言い表わしていると同時に、伊勢物語全体の美しさをも言い表わしている。

ここでは、伊勢物語がレクイエムであるとまでは言えない逡巡が「レクイエム的」という表現となっているが、それでも源氏物語の威風堂々に対する如く、伊勢物語には、じっと耐えている「レクイエム的」な悲しみがあり、実はその悲しみと、それへの慰めが文学の底流にあって人を救うのではないかという、堀辰雄の考えも含まれている。

ちなみに『伊勢物語など』では一首目の冒頭「ゆく蛍」が「とぶ蛍」になっていて、これは伝本系統の違いであろうが、定家の写した定家本と、定家の娘である民部卿局の写した塗籠本には「ゆく蛍」とあり、音としても「Yuku hotaru」は「Tobu hotaru」よりもuの子音の続きで優れている。

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by hishikai | 2008-08-29 14:45 | 文化
2008年 08月 25日
戦闘者の武士道
e0130549_118080.jpg『葉隠』に「野村源左衛門の切腹のこと」という話がある。ここに登場する野村源左衛門は、今日私達が想い描く武士とは毛色が異なり、芸事が上手く博奕が強く廓遊びが好きで、切腹の前に本人が語ったところによれば、虫の居所が良くない時には辻切りをはたらき、博奕の最中に泣止まぬ他人の子供を殺してもいる。

また切腹に臨んで臆するところがなく、自分の好きなように切らせねば七代までも呪うと介錯人に悪態をつき、辞世の句も体裁を整えず、内容は彼の放蕩をなじったであろう、自身の伯父を痛罵するものである。私達が現在の価値観でそれらを審判するならば、野村源左衛門は確かに悪人である。

だが『葉隠』にはこのような人間が多く登場する。罪人を続けざまに十人斬る者、処刑者の首を貰い受けて自宅に吊るし槍の稽古をする者、囲碁の最中に助言されて突如斬り付ける者、口論に負けたと噂が立った為に相手の家に斬り込む者、美少年に懸想する者、いずれもが殺伐と放埒の気に満ち、いずれもが実話である。

そして彼らこそは、中世から戦国の世を経て江戸期初頭の元禄に残った、戦闘者の武士道を受継ぐ最後の者達である。人間の命などは何とも思っていない。「武士道と言ふは死ぬ事と見付けたり」という『葉隠』の有名な冒頭は、それが過激である為に生存の逆説と解釈されがちであるが、実のところ彼らの偽らざる実感である。

戦闘者の武士道ということについて、折口信夫に次の言葉がある。「武士道は、此を歴史的に眺めるのには、二つに分けて考へねばならぬ。素行以後のものは、士道であつて、其以前のものは、前にも言うた野ぶし・山ぶしに系統を持つ、ごろつき道徳である」(ごろつきの話 「士道」と「武士道」と/折口信夫)

山鹿素行の『山鹿語類』や大道寺友山の『武道初心集』にある精神は、統治者の士道であっても、戦闘者の武士道ではない。それらは武士道を儒教道徳で説明し直すことで、ごろつきから士大夫への転向を目指した作法である。やがて明治になって発表される新渡戸稲造の『武士道』に到っては、それらいずれにも属さぬ新しい思想であるとは津田左右吉の指摘である。

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by hishikai | 2008-08-25 01:36 | 文化
2008年 08月 23日
野村源左衛門の切腹のこと
e0130549_11535133.jpg野村源左衛門は小城の家中でもひときわ器量の優れた男である。芸能を始め、何をやっても人に劣ったことはない。中でも博奕は西目地方で随一といわれた。以前、他国へ行って博奕を打ったことが目付に知れたときも、藩主の鍋島紀伊守元茂公は源左衛門の器量を惜しみ、しばらく側役にお使いになったほどである。

だがその後、源左衛門は往来札を手に入れて長崎へ行き、再び博奕を打っておびただしい金銀を手に入れ、屋敷を買い求め、度々丸山の廓に遊んだ。このことが聞こえたので源左衛門は小城に呼び戻され、藩の掟に背いた廉で切腹を申し付けられた。

当日、源左衛門は介錯人を睨みつけて言う。「存分に腹を切り回し、十分にしすまし、『首を打て』と声をかけてから斬れ。もしも声をかけないうちに斬ったりすると、その方の七代までも呪い殺してくれるぞ」。介錯人は答えて言う。「安心せよ。その方の思うままに切らせる」

さて源左衛門は、腹を木綿でしっかりと巻き一呼吸する。やがて手にした刀を腹に深々と突き立てると一気に十文字にかき切る。はらわたが前に出て顔色が青ざめる。しばらく眼をつぶった後、小さな鏡を取出し自分の顔をながめて、紙と硯をくれと言う。

「もうよいのではないか」介錯人がそう言うと、源左衛門はかっと眼を見開き「いやいや、まだしまわぬ」と言って受取った紙に

腰ぬけと 言うた伯父(おんじ)め くそくらへ
死んだる跡で思ひしるべし

と書いて家来に渡し「これを伯父に見せてやれ」と言うと「さあ、よいぞ」と声をかけ、首を打たせた。

─『葉隠』第八巻より現代語訳にて抜粋─

(補注)野村源左衛門は杵島郡左留志の城主前田伊予守定家五代目の子孫。定家の我がままな振舞いが鍋島真茂の怒りに触れた為、子孫兄弟全てが野村姓を名乗る。源左衛門は定家の次男野村甚右衛門の曾孫であったが、この一件があって子孫は断絶した。

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by hishikai | 2008-08-23 12:04 | 資料
2008年 08月 21日
非常時の幸福
e0130549_10514325.jpg昭和十八年四月、折口信夫は国学院大学に於ける講演を次のように始めている。「只今は、国学といふ学問の為には幸福な時代になつてゐますが、最近までは国学はそんなに幸福な学問ではなかつた。(中略)この幸福が考へ方で、深い我々の心の底から悲しい、激しい憤りの上に立つた幸福である」(国学の幸福/折口信夫)

昭和十八年は前年末の第三次ソロモン海戦の損害を受け、日本海軍がソロモン諸島方面の制空権と制海権を失い、補給を断たれたガダルカナル島派遣隊が二万人余の戦死者と餓死者を出し二月に撤退、四月にブーゲンビル島上空で山本五十六長官が戦死した年である。

国の滅亡が背中合わせになったこの時代を「幸福な時代」と折口信夫は言う。それは「心の底から悲しい、激しい憤りの上に立つた幸福」であると言う。戦いの憤りと悲しみの中で、複雑を捨て純粋に帰ろうとする人々の心と、古代への純粋帰一を目指す国学の理想が重なり、常になく透明となった時代の現象を指している。

こういう考え方を私達は知らない。戦後思想の信奉者は言うべくもないが、戦後は国の愛すべきを唱うる人までが、非常時の幸福という考え方を、時代の過誤として斥けてきたか、あるいは理解しなかった。たとえ命の先行きが知れず物資が欠乏しようとも、それに代わる如く時代が澄み渡ってゆくということを信じなかった。

以下は昭和二十年八月三十日の被爆者の言論である。「広島市の被害は結果的に深く大きいけれど、もしその情景が醜悪だつたならば、それは相手方の醜悪さである。広島市は醜悪ではなかつた。むしろ犠牲者の美しさで、戦争の終局を飾つたものと思ひたい」(海底のやうな光 原子爆弾の空襲に遭つて 朝日新聞/太田洋子)桶谷秀昭著『昭和精神史』より

戦争の終局を広島の犠牲者の美しさで飾ったという。この認識は原子爆弾の残酷が軍国主義を葬ったという物語からは理解できない。肉体の健康と生命を失いつつある人が、心の底から悲しい、激しい憤りの上に立って最後の純粋へ帰ろうとするという見方を以て、始めて私達は朧げながらも、この言論を理解する端緒を見い出すのである。

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by hishikai | 2008-08-21 11:01 | 大東亜戦争
2008年 08月 19日
磯部浅一
e0130549_0452234.jpg明治三十八年四月一日、磯部浅一は山口県大津郡菱海村大字河原に農家の三男として生まれた。父の仁三郎は左官だったが寒村に仕事はなく、出稼ぎに出たまま家に帰ることは希であった。兄達は村を離れ油谷港で働き、母のハツは二反ほどの畑を耕し、収穫した野菜を塩田の飯場に売って生計を立てていた。

こうした家庭であったので、浅一も小学校から帰ると母と共に畑で働き、飯場へ野菜を売りに行った。背が高く頑丈な体つきで、学業はいつも首席であった。あるとき知事の養子を求める布令が近郷に回って、浅一もどうかと話があったが二者択一の選に落ちた。村の者は「あまりに貧乏な家の子だから」と思った。

やがて浅一は山口の松岡喜二郎という県職員の家に貰われて行った。浅一は予てより軍人になりたいと思っていたし、松岡は家から是非とも軍人を一人出したいと思っていた。夕食を終えると決まって松岡は浅一の部屋に来て、吉田松陰や久坂玄瑞の話を聞かせた。謹厳実直な長州人だったが、浅一には優しかった。

大正八年五月一日、浅一は広島陸軍幼年学校へ入学した。松岡の喜びはひとしおであった。学校の休暇には松岡家で一泊し、翌日山陰本線の滝部で汽車を降り、人の通わない山道を歩いて菱海村へ帰るのが浅一の常であった。貧乏人の小倅が将校生徒では世間が許さなかった。実家に着くと野良着に着替えて母を手伝った。

昭和十二年八月十九日、浅一は陸軍衛戍刑務所処刑場の銃殺用刑架に、頭部と両腕を縛られて正座している。十メートル先の銃架に二丁の歩兵銃がこちらに向けて固定され、各々に一名の射手が配置されている。指揮官が手の合図で発射を号令する。浅一の前額部から鮮血が吹き上がる。罪名は叛乱罪。三十二年の生涯である。

「余は云わん 全日本の窮乏国民は神に祈れ 而して自ら神たれ 神となりて天命をうけよ 天命を奉じて暴動と化せ、武器は暴動なり殺人なり放火なり 戦場は金殿玉楼の立ちならぶ特権者の住宅地なり 愛国的大日本国民は天命を奉じて道徳的大虐殺を敢行せよ 然らずんば日本は遂ひに救はれざるべし」(二・二六事件獄中手記・遺書/磯部浅一)

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by hishikai | 2008-08-19 01:07 | 昭和維新
2008年 08月 15日
天籟
e0130549_10112319.jpg終戦の日、詩人の伊東静雄は日記に書いている。「ラヂオで『降伏』であることを知った瞬間茫然自失、後頭部から胸部にかけてしびれるような硬直。そして涙があふれた。先日の露国侵入の報知を聞いた時、国民は絶望を、歯をくいしばった心持ちでふみこらえていたのであった」

現在では終戦の日の回想を「戦争が終わった。これで生きていられると思った」という言葉で語る人を、殊にジャーナリズムは多く取り上げるようであるが「歯をくいしばった心持ちでふみこらえていた」人々が突然に生命への安堵を抱いたと言うのは作為的である。

人が覚悟を決め、その覚悟が砕け散ったとき安堵するのならば、その覚悟は偽物である。「歯をくいしばった心持ちでふみこらえていた」人々の覚悟が、日本国民全ての生命により日本民族を死の栄光の裡に保存しようとする本土決戦で、それが真正であるならば、八月十五日にあったのは深い茫然自失でなければならない。

『荘子』に「天籟(てんらい)を聞く」という言葉がある。地上のざわめきは風がなくては生まれない。風に音がないとすれば、風を用いて音を生む存在、眼に見えず、耳に聞こえぬ存在がなければならない。それが天籟で、それを聞くのは真理に接することである。だがそのとき人の身は枯木の如く、心は死灰の如くであるという。

桶谷秀昭は著書『昭和精神史』で八月十五日の日本人の茫然自失は天籟を聞いた者の姿であったと書いている。あの茫然自失は、本土決戦が砕け散った瞬間の中に天籟を聞いたところに発していて、それは人が抗い難い運命という、巨大な自然の前に為す術もなく佇む姿であったのだという。

日本人が米国と戦ったことは歴史の事実である。しかしあの四年間、日本人は「敵」というものをはっきりと見据えていただろうか。孤島に戦って玉砕した兵士も、特攻機で散華した特攻隊員も、銃後で働いた一般国民も、確かに眼前に見ていたのは米兵で、米艦隊で、鬼畜米英だったかもしれないが、それらを形づくっていたのは、日清日露の両戦役以来、波濤の如く国に押し寄せる運命ではなかったか。

私達が敗戦を終戦と言い、原爆で殺されたことを原爆で亡くなったと言い、特攻隊員の遺書に家族への慰めの言葉はあっても敵への憎しみの言葉を見い出すことが少なく、彼らの死を焼けて飛び散った肉体の現実よりも、赤い南洋の空に特攻機がふっと消えて逝く光景で想うのも、全てはどうすることもできない運命と戦ってきたという、日本人の内面の記憶の証しではないだろうか。

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by hishikai | 2008-08-15 10:28 | 大東亜戦争
2008年 08月 06日
新大陸に受継がれた英国の伝統
e0130549_16351353.jpgかの著明な独立宣言を採択した大陸会議も漸くその政治機能の不備が露呈し始めた1787年、独立戦争終結から四年の歳月を経て、最初の米国憲法制定会議が初夏のフィラデルフィアで開かれた。ここまでの歳月は人々の関心を英国に対する熱烈な権利の主張から、より現実的な連邦制度の構築へと向かわせていた。

この会議に招聘された十二州七十四名の代表者は、その政治思想を英国的教養で形成された人々である。ロンドンのインナー・テンプルで学んだ者、エディンバラで学んだ者もある。三十一名を占める法律家らは法知識の基礎を独立以前からブラックストーンの『英法釈義』などの英法学によって培われている。

軍部がG・ワシントンの英国的君主としての即位を望み、大統領に「殿下」とか「陛下」という尊号を附すべきだというJ・アダムスの主張がそれらの最も先鋭な現われであるとしても、少なくとも彼らが「貴族なき貴族政治」「君主なき君主政体」を構想していたことは現在も指摘されるところである。

当時の米国人は経験主義者である。彼らがいまだ世界のどの国でも施行されたことのない民主主義なるものを信用することはない。建国の父の一人、A・ハミルトンは次のように言う。「歴史の教えるところでは、人民の友といった仮面の方が、強力な政府権力よりも、専制主義を導入するのにより確実な道であった」

そこでは国民主権も「全ての権力は国民に由来する」という所で立ち止まる。彼らの脳裏には現実として国民が主権を行使するわけではないこと、国民が多様な人間の集団であることが意識されている。だからこそ一纏めに主権者の意思と言い換えられた多数者の意思が、国政に強い影響力を持つことの危険が察知される。

彼らが延べ百十二日を費やして採択した米国憲法と、その制度には、国民主権に言及しない前文、大統領と上院議員の間接選挙、二院制、司法審査制、簡単な憲法改正手続、権力分立といった民意の直接的な反映に対する防塁が幾つも築かれる。

これら一連の事柄の背景にはE・バークの「民衆の専制は倍加された専制である」という、冷徹な人間観察を基礎とした英国伝統の保守思想があった。そして憲法制定会議から半年後、米国民への解説書として刊行された『ザ・フェデラリスト』に次のような一文が記された。

「そもそも統治とは一体何なのであろう。それこそ、人間性に対する省察の最たるものでなくして何であろう。万が一、人間が天使であるのなら、もとより統治など必要としないであろう」

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by hishikai | 2008-08-06 16:41 | 憲法・政治哲学
2008年 08月 04日
英国保守主義からの反論
e0130549_12334250.jpgフランスの憲法制定議会が「人権及び市民権の宣言」を高らかに謳い揚げた翌年の1790年、英国の政治家E・バークはパリに住む友人に宛て一通の書簡を発送した。その中でバークは、フランス革命の指導者達が抱く国家観について次のような警告を発している。

「完全な民主主義はこの世で最も厚顔無恥な代物です。そして最も厚顔故に、最も恐れ知らずな代物です。個々人は誰一人として自分が処罰対象になることを懸念しません。疑いもなく民衆全体は処罰の対象となり得ません。そもそも全ての処罰が民衆全体を保護するための見せしめである以上は、民衆は如何なる人間の手によっても処罰の対象とはなり得ないからです。ですから民衆に対しては(国王に対してもそうであるように)彼らの意思が善悪を決定するかのような想像をさせないことが、この上もなく重要です」

主権者を自認する民衆が事案に決定を下すとき、それが事の推移によって不本意な結果に終わったとしても、民衆はその数の多さ故に責任への自覚が散漫であるが、一方でその決定は彼らを始め彼らに続く世代をも確実に拘束する。だが彼らはこれを恥じ自らを処することがないために、場当たり的な決定は止むことがない。これが国民主権という夢想のもたらす弊害であるとバークは考えたのだ。

では国家は統治上の主権の所在を何処に求めれば良いのか。バークは「彼らの意思が善悪を決定するかのような想像をさせないことが、この上もなく重要」と述べ、またそれは「国王に対してもそうであるように」とも述べている。

つまり善悪という長い時間の中で鍛え抜かれた歴史的慣習と、これを原理として構築された国家の根本原則を、誰かの意思で決定し或いは覆すことが出来るとする「主権」という考え方そのものが、その所在が国王であるか民衆であるかという議論以前に、統治に於いては不要であり有害だと述べているのである。

英国はコモン・ローの国である。王位の継承とコモン・ローにある臣民の自由を一対不可分なものとして、親から子へ、子から孫へと、財産を相続するかのように世襲していくことを定めた国で、ここに統治上の主権は存在しない。

現在私達日本人が当り前のように信じている国民主権は、憲法思想の中の一潮流であるに過ぎない。英国では1628年に貴族院が国王に主権を付与すべきと提案したときも庶民院がこれに反対し、T・ホッブスが主権を理論化し導入しようとした時にもE・コークやM・ヘイルなどの法律家らによって排除されている。遂に主権概念はドーバー海峡を越えなかったのだ。そしてこの主権なき政体は、英国の思想的後継である米国へと引き継がれていくこととなる。

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by hishikai | 2008-08-04 12:46 | 憲法・政治哲学
2008年 08月 02日
主権とは何か
e0130549_1181482.jpgかつて主権とは中世ヨーロッパの重層的な統治形態の中で、優越的な支配権およびその地位を指す言葉だった。英国に於ける主権の所在はどこかという問いへの答にみられる「議会主権」の用法がこれにあたる。

その後、国王が封建諸侯の有する支配権を統合し、加えて法王からの独立を獲得したことで絶対国家が成立する。ここに主権は国王の絶対権となって登場する。J・ボダンは言う。「国内の全ての権力は王からの派生物に過ぎない」と。この絶対性は歴史的慣習ではない。それ自体が因子となった絶対性である。

例えば私達が普通に考える、親孝行は善で親不孝は悪だと言うときの善悪は歴史的慣習で、国王の登場以前から前以て存在する善悪である。しかし絶対国家に於いては主権者の決断によって善悪が決定されるのであって、前以て存在する善悪を主権者が実現するのではない。これが君主主権の論理である。

この君主主権をフランス革命が打倒した。このとき君主という人格が有する絶対の主権を、国民という人格化された擬制へと移植したのが国民主権である。ここで問題となったのは、主権により国家の根本構造を決定する憲法制定権力が、憲法制定後にはどの程度までの効力を有するのかということである。つまり国家の根本構造は人民によっていつでも改変可能なのか否かである。

そしてこの問題は最も過激に論じられたときにこう主張された。「憲法制定権力とは実体的にも手続的にも法的制約に服さず、至上最高のものであり、いつでも発動して実定憲法をいかようにも変えることができる」これは歴史的慣習よりも一時的な人間理性を重んずる態度であり、一方でいつでも革命状態を回復しようとする態度である。そしてこの指向は国民主権が革命の産物である限り、常に民主主義の内部に蔵されているのである。

絶対国家から国民国家への歴史は、一面で主権をめぐる争奪の歴史である。しかしこのような超越的な主権概念が国家統治にとって、本当に必要不可欠なのであろうか。私はこの点に不賛成である。民主主義を実現しなければファシズムへ転落すると論ずるデモクラットは多い。しかしそのように主張する心性こそが民主主義の本質なのである。それは民主主義を手続としての民主制に停めるに満足しない、それ以上の崇高な理念として保持したいという衝動である。なぜならば国民主権を根本教義とする民主主義が、常に絶対国家を打倒した記憶を引き摺っているからであり、その国王の首級である主権が常に革命の血を流し続けているからである。

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by hishikai | 2008-08-02 11:33 | 憲法・政治哲学
2008年 08月 01日
民主主義懐疑論
e0130549_12322938.jpg民主主義と言うとき戦後日本ではその言葉を「この上もなく善なもの」というイメージで使用する場合が多いようだ。生活の中の些細な決定事項にも民主的という言葉は散見される。しかし本当のところ民主主義とは何なのだろうか。

民主主義というのだから、国民が国家の主(あるじ)と考える統治理念なのだろう。では何をもって国民が主なのかといえば、それは主権を持っているからだろう。では主権とは何かといえば国家に於ける統治の在り方を最終的に決定する権限なのだろう。それなら国民である私は主権者で、同時にあなたも主権者だ。

だけどテレビの国会中継で「国民は○○を望んでいる」などという発言を聞くと「いや〜、私という主権者は××を望んでいるんだけどな」と思ってしまう。何しろ私は国家に於ける統治の在り方を最終的に決定する権限を有しているのだ。勿論あなたも国家に於ける統治の在り方を最終的に決定する権限を有している。

いやいや、それは選挙で総体の意思として決められたのだから、選挙で負けた方は我慢をしなければいけないのです、という人があるかも知れない。しかし何しろ主権なのだ、そう簡単に没にしていいのか。総体の意思といったって所詮は多数者の意思じゃないか。多数者の主権と少数者の主権に効力の差があるのか。第一選挙権のない子供だって国民で主権者なのだ、この意思はどうするのだ。

要するに国民は実在しないのだ。実在しないものに主権を付与できるはずがない。ここがまずトリックだ。それに主権の行使は選挙によって行われるのではない。それは参政権の問題で、民主主義からではなく民主制から語られるべきことだ。ここもトリックだ。それに天皇陛下はどうするのだ。私達が主人ならば、天皇陛下はお客様なのか。ここもやはりトリックだ。そこで私はこう考える。

主権の意味する統治の在り方を最終的に決定する権限とは憲法制定権力のことだ。国制の根本である憲法を、その根本的性格から改変することができる権限のことなのだ。そしてこの実定法を超越する至上の権限を人民に与えることにより、いつでも体制変革の余地を残しておこうとする理念が民主主義なのだ。また法が歴史的慣習である場合、人が法に優位することで、現在の理性が過去の慣習に優位すると主張するのが民主主義の心理なのだ。だから天皇と民主主義は矛盾するのだ。

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新しい神への崇拝。革命的な群衆がマクシミル・ロベスピエール(中央)の発明した神(岩山の上の像)を歓呼とともに迎えている。ロベスピエールは、キリスト教の神の代わりに革命思想と一致する「最高存在」を提案した。

by hishikai | 2008-08-01 13:05 | 憲法・政治哲学